ニカラグア運河の旅 エル・カスティージョ要塞の博物館 Museo en El Castillo, Nicaragua [2009.02.20-22] Back to: Top Page | 世界の 海洋博物館 | 海洋博物館-ニカラグア | ご覧のページ |
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クリストファー・コロンブス(Christopher Columbus, Cristóbal Colón)が「新大陸」の中米地域にやって来る以前に、
ミスキート族、ラマ族などの先住民が中米地域でどのような広がりをもっていたのかを概略する。
「新大陸の発見」 El Descubrimiento 1 2 3 4
1. 展示パネル全体。 [拡大画像(x21242.jpg)][拡大画像(x21289.jpg):説明書き]
「ラ・コンキスタ(征服)」 La Conquista 1 2 3 4 5 「新大陸の発見」によって、スパイスを求め、大西洋沿岸を南下、「新大陸」を周回し、太平洋を斜めに横切りインディアス のモルッカ諸島などに到達するための探検が刺激された。マゼラン(Hernando de Magallanes)は、1519年8月、 5隻・256人からなる船団をもってスペインのカディスを出帆した。 37ヵ月の航海の末世界を周回して帰還した。だが、マゼランの姿はなく、エルカーノ (Juan Sebastiíán Elcano)率いる18人のみがスペインにたどり着いた。
1. 展示パネル全体。 [拡大画像(x21292.jpg)][拡大画像(x21248.jpg)][拡大画像(x21290.jpg):説明書き]
「ラ・コンキスタ(征服)」 La Conquista
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バルボア(Vasco Núñez de Balboa)、パナマ地峡を横断し、1513年「南の海」(後に「太平洋」と称される)を発見した。
1. 展示パネル全体。 [拡大画像(x21293.jpg)][拡大画像(x21282.jpg)][拡大画像(x21407.jpg)]
[拡大画像(x21291.jpg): 説明書き]
El "Estrecho Dudoso"
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1. パネル展示全体。 [拡大画像(x21294.jpg)][拡大画像(x21295.jpg):説明書き]
3. D. José Ynsaurrandiagaの報告に基づいて作成された図。1529年軍史局。当時の図解に示された方角の描写法には
興味がそそられる。
左下にカリブ海、サン・ファン川の三角デルタがある。川は右上方向に上ってニカラグア湖にいたる。
さらにマナグア湖が小さく描かれている。両湖の上にあるのは太平洋である。 [拡大画像(x21297.jpg)]
6. グアテマラ地域: 主要な定住地(Región de Guatemala: Principales asentamientos (AGI))。
ほぼ中央部右下にニカラグア湖、サン・ファン川とその三角デルタが見える。マナグア湖は見当たらない。
[拡大画像(x21300.jpg)]
大西洋沿岸におけるスペインの要塞化 Fortificaciones Espan~olas en la Costa Atla'ntica 1 2 16世紀中葉からイギリスによるカリブ海沿岸地域への侵入、襲撃、占拠が激化するようになって来た。スペインは防御の ためグアテマラ、ホンジュラス、ニカラグア、パナマなどの総督領地のいたるところで要塞を築造して行く。
1. 展示パネル全体。中米地域での要塞7つが示されている。 [拡大画像(x21303.jpg)][拡大画像(x21304.jpg)]
[拡大画像(x21305.jpg): 説明書き]
サン・ファン川の防衛 Las Defensas de Río San Juan 1 2 ニカラグアにおいては、1666年にサン・ファン川始点にあるサン・カルロスに要塞が築造された。さらに、サン・ファン川の 遡下途上にあるエル・カスティージョにおいて、1675年に「インマクラーダ・コンセプシオン要塞」 (la fortaleza o el fuerte de la Inmaculada Concepción en El Castillo)を築造した。
1. 展示パネル全体。 [拡大画像(x21307.jpg)][拡大画像(x21308.jpg): 説明書き]
インマクラーダ・コンセプシオン要塞(1) La Fortaleza de la Inmaculada Concepción
1. パネル展示全体。1645、1646、1647年に、D. Luis Diez Navarroは、インマクラーダ・コンセプシオン要塞を防御する
ため石と泥を使って工事を行った。それを示す概略図。 [拡大画像(x21315.jpg)][拡大画像(x21316.jpg)]
[拡大画像(x21317.jpg): 説明書き]
インマクラーダ・コンセプシオン要塞(2) La Fortaleza de la Inmaculada Concepción 1 2
1. 展示パネル全体。 [拡大画像(x21321.jpg)][拡大画像(x21322.jpg): 要塞の建設に関する年表; 1673年に工事開始、
1675年に完成した。Cronograma de la Fortaleza]
インマクラーダ・コンセプシオン要塞(3) La Fortaleza de la Inmaculada Concepcio'n 1 2 3 4
1. 展示パネル全体。 [拡大画像(x21327.jpg)][拡大画像(x21328.jpg)][拡大画像(x21329.jpg): 要塞に装備された
砲類の大きさ、仕様など]
* Plano en que se demuestra la situación y Figura del Castillo de la Inmaculada Concepción del Río
de Sn. Juan de Nicaragua, por Luís Diez Navarro. 1776. Servicio Histo'rico Militar. [拡大画像(x21331.jpg)]
インマクラーダ・コンセプシオン要塞(4) La Fortaleza de la Inmaculada Concepción 1 2 3
1. 要塞の概略図。 [拡大画像(x21333.jpg)]
海賊(ピラータスおよびコルサリオス) Piratas y Corsarios
1 2 3 1. 展示パネル全体。4人の有名な海賊を紹介している。 [拡大画像(x21336.jpg)][拡大画像(x21337.jpg)] [拡大画像(x21338.jpg): 説明書き][拡大画像(x21339.jpg): 説明書き(Granada y los Piratas)] [拡大画像(x21340.jpg): 説明書き] 2. イギリス人海賊サー・フランシス・ドレイク(Sir Francis Drake)。 [参照]フランシス・ ドレイクの略年史。 [拡大画像(x21341.jpg)][拡大画像(x21342.jpg)][拡大画像(x21343.jpg): 説明書き] [拡大画像(x21344.jpg): 説明書き] 3. イギリス人海賊ヘンリー・モーガン(Henry Morgan)。 [参照]ヘンリー・モーガンの略年史。 [拡大画像(x21345.jpg)][拡大画像(x21346.jpg)説明書き][拡大画像(x21347.jpg)][拡大画像(x21348.jpg)] 4. イギリス人海賊ウィリアム・ダンピア(William Dampier)。17世紀末~18世紀初頭にかけて活動した海賊。 1652年生まれ、1715年に没す。イギリスのサマセット州出身。 新大陸で木材伐採業をしていたダンピアは、1679年にバッカニア(カリブ海を中心に、私掠許可証をもたずにスペインの 植民地や財宝船を略奪した海賊)に加わり、南米の太平洋沿岸で海賊行為をしたりした。1685年~1711年の間に3度の 世界周航を成し遂げた。 ダンピアは、周航の都度、土地どちの風俗、動植物、航海に役立つ情報などの詳細な記録を刊行した。 [拡大画像(x21349.jpg)] 5. Pedro Nau, El Olonés。 [拡大画像(x21350.jpg)]
[参考]corsarios: n.m.pl.海賊; 海賊船; 私掠船。同じ「海賊」であっても、コルサリオ(corsario)
は、政府から敵船を捕獲することを許可されている私掠船のことである。何の捕獲免許状をもたずに見境なく金銀財宝を
貿易船から略奪する海賊とは異なるが、略奪行為そのものには違いはない。
イギリスの攻撃-ラファエル・エレーラの功績 Los Ataques Ingleses - La gesta de Rafaela Herrera 1 2 3 1762年、イギリス軍によってエル・カスティージョの要塞が包囲された時のことである。物語の主役は、当時19歳の ラファエル・エレーラである。 彼女の父は同地を治める知事で要塞防御の責任者であったが、戦闘の前日に他界した。このため要塞防御の責任者となって 彼女は、女性たちの衣服をも脱がせそれらを集めて火船にしたてて敵船めがけて流した。この奇策をもって果敢に戦い スペイン側に勝利をもたらし、英雄として称賛をあびた。
1. 展示パネル全体。 [拡大画像(x21351.jpg)][拡大画像(x21352.jpg):説明書き]
[拡大画像(x21353.jpg):説明書き]
イギリス海軍提督ホレイショ・ネルソン Nelson en Río San Juan 1 2 3
後に英国海軍提督となるネルソンは、若かりし時にこのサン・ファン川、エル・カスティージョに大きな足跡を残して行った。
その詳細は
1. 展示パネル全体。 [拡大画像(x21357.jpg)][拡大画像(x21359.jpg):説明書き][拡大画像(x21362.jpg):説明書き]
黄金の道(1) La Ruta de Oro
1869年における両洋間横断鉄道(於:パナマ)の開通は。ニカラグアにおけるサン・ファン川およびニカラグア湖を利用した
地峡横断通航路(la Ruta de Río San Juan)を衰退させることとなった。もちろんその通航路は20世紀初頭まで利用され続けた。
1. 展示パネル全体。 [拡大画像(x21371.jpg)][拡大画像(x21372.jpg):説明書き]
黄金の道(2) La Ruta de Oro 1 2 3 アメリカの実業家ヴァンダービルト(Cornelius Vanderbilt)の経営する会社「American Atlantic and Pacific Steamship Company」は、ニューオーリンズ・ニューヨークからサン・ファン・ デル・ノルテまで旅客輸送を行った後、サン・ファン川を遡りニカラグア地峡を横断する通航路に関する排他的権利を獲得した。 サン・ファン・デル・ノルテで小船に乗り換え、川を遡り、さらにニカラグア湖を横切って、ラ・ビルヘンという湖畔の 港へいたる。そこから乗合馬車にて陸路サン・ファン・デル・スールに至る。そこで、大型船に乗り換えてサンフランシスコ へと向かうことができた。
1. 展示パネル全体。 [拡大画像(x21380.jpg)][拡大画像(x21381.jpg):説明書き]
[拡大画像(x21382.jpg): El Comodoro Vanderbiltの肖像画]
黄金の道(3) La Ruta de Oro
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4 ゴールド・ラッシュ時代、数知れぬ金の探鉱者は、より速く目的地に到達できる中米地峡横断ルートとして、 (1)パナマ地峡、あるいは(2)サン・ファン川・ニカラグア湖通航路を経て、カリフォルニアへ移動しようとした。 実際のところ、サン・ファン川ルートはほとんど水上移動であり、より速く快適であった。また、パナマルートよりも 2日間および700マイル短縮するものであった。 ゴールド・ラッシュ時代のある10年間において毎年1万人以上の旅人がこのニカラグア通航路を利用した。
1. 展示パネル全体。 [拡大画像(x21385.jpg)][拡大画像(x21386.jpg)] 3. ニカラグアのサン・ファン・デル・ノルテで小船に乗り換え、サン・ファン川を遡り、さらにニカラグア湖を横切って、 ラ・ビルヘン港へ、そこから乗合馬車にてリーバス地峡を横切ってサン・ファン・デル・スールに至る。 そこで、大型船に乗り換えてサンフランシスコへと向かうルートが赤線で示されている。 [拡大画像(x21388.jpg)][拡大画像(x21389.jpg)][拡大画像(x21390.jpg)]
4. 「黄金の道」時代のエル・カスティージョの想像図(Imágenes de El Castillo en la época de la Ruta de Oro)。
[拡大画像(x21391.jpg)]
サン・ファン川の旅人 Viajeros en Río San Juan 1 2 3 4
1. [拡大画像(x21395.jpg)][拡大画像(x21396.jpg)][拡大画像(x21397.jpg)]
ニカラグア運河の夢(1) El Sueño del Canal 1 1 2 3 「新大陸」の発見、その後の中米地峡の横断と「南の海(太平洋)」の発見以来、地峡を横断する運河建設のアイデアが 何世紀にも渡って抱かれてきた。 運河建設の有望な地峡は3つあった: パナマ地峡、サンファン川・ニカラグア湖のルート、テウアンテッペック(Tehuantepec)である。 運河は通商路をコントロールしうる価値をもっていたので、欧米列強諸国は何世紀にわたってお互いに運河建設への野心 に干渉・介入・牽制し合ってきた。だが、最後には米国がこの地峡地域での支配権を優位なものなし、運河建設を成就させた。 画像では、その3つの地峡が示されている。
1. 展示パネル全体。 [拡大画像(x21408.jpg)][拡大画像(x21409.jpg): 説明書き]
3. 「ニカラグア運河」との表題が見える。下段には「ニカラグアの両洋間運河」と記される。カリブ海側から
サン・ファン川を遡り、ニカラグア湖へ、湖中を横断しオメテペ島(ひょうたん形の島)南部を経てラ・ビルヘンにいたる。
ラ・ビルヘンのすぐ北側を流れるラス・ラッハス(Las Lajas)川を遡り、ブリット川に取りつき
太平洋にいたるルートが示されている。ラス・ラッハス川とブリット川との間には緩やかな山系の分水嶺が横たわるが、
そこが開削されることになる。それがこの図から読み取れることである。ニカラグア湖は海抜32mであるので、サン・ファン川
においても、リーバス地峡においても海面式で開削すれば、水は海に流れ出て干し上がってしまう。
ゆえにパナマ運河のガツン湖のように、ニカラグア湖を水の調整池・貯水池とするのであれば、パナマ運河と同様に閘門式と
せざるを得ないであろう。このパネルでは、この運河ルート図についての説明は記されていない。
[拡大画像(x21412.jpg)][拡大画像(x21413.jpg)]
[拡大画像(x21414.jpg)][拡大画像(x21415.jpg)]
[拡大画像(x21416.jpg)][拡大画像(x21417.jpg)]
ニカラグア運河の夢(2) El Sueño del Canal 2 1 2 3
1. 展示パネル全体。 18世紀中葉からの、ニカラグア運河あるいはサンファン川~ニカラグア湖を経る横断通航路
をめぐる重要な動向を記した略年表。 [拡大画像(x21426.jpg)][拡大画像(x21420.jpg)]
[拡大画像(x21421.jpg)][拡大画像(x21422.jpg)]
[拡大画像(x21423.jpg)][拡大画像(x21424.jpg)][拡大画像(x21425.jpg)]
[拡大画像(x21427.jpg)][拡大画像(x21428.jpg)]
ニカラグア運河の夢(3) El Sueño del Canal 3
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3 1. 展示パネル全体。 [拡大画像(x21431.jpg)][拡大画像(x21432.jpg): 説明書き] [拡大画像(x21433.jpg): 説明書き][拡大画像(x21434.jpg): 説明書き] 2. 上段の図には「Plan y Proyecto del Canal Navegable de Nicaragua, Division Este 1888」と記されている。 すなわち「ニカラグア通航可能運河計画図、東部、1888年」となっている。下段の図では、同計画図「西部、1888年」である。 [拡大画像(x21435.jpg)] 3. カリブ海側の町グレイタウン(サン・ファン・デル・ノルテの英語名称)からベルナルド潟(Laguna Bernardo)そばを 経て閘門を遡る。その後、サンフランシスコ川流域(Cuenca de San Francisco)を経て、オチョア堰(Presa Ochoa)通過後 サン・ファン川本流へとつながる。そのまま遡上してニカラグア湖へ達するのであろう。 [拡大画像(x21436.jpg)][拡大画像(x21437.jpg)] [拡大画像(x21438.jpg)] 4. リーバス地峡では、ニカラグア湖に注ぐラス・ラッハス川と太平洋に注ぐブリット川とがつながれる。両川の間の 緩やかな分水嶺が開削される。ブリット川上流の、地形的に観てここにしかダム・閘門建設可能地はないという箇所に それが設けられよう。 ニカラグア湖水がそこまで導かれることになろう。閘門の東側には小さな貯水池・調整池が造作される。 リーバス地峡においてはこれ以外の開削ルート・方法、閘門位置はほとんど考えられないと思われる。 [拡大画像(x21439.jpg)][拡大画像(x21440.jpg)][拡大画像(x21441.jpg)][拡大画像>(x21445.jpg)] 5. 軍の技師イサスメンディおよびゲレーロ(Joaquín de Isasi IsasmendiおよびJosé María Alexandra Guerrero)によって 考えられたニカラグア湖を経る両洋間通行ルート。 [拡大画像(x21442.jpg)][拡大画像(x21443.jpg)] [拡大画像(x21444.jpg)]
6. ガリステオ(Manuel Galisteo)によって作成された「サン・ファン川とニカラグア湖との間にある高度差と勾配を
平準化する計画」。 [拡大画像(x21446.jpg)][拡大画像(x21447.jpg)]
[参考] スペインのガレオン船 Galeón Español
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1. [拡大画像(x21363.jpg)][拡大画像(x21364.jpg)][拡大画像(x21365.jpg)][拡大画像(x21370.jpg)] |
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