一枚の特選フォト⌈海 & 船⌋
イギリス人海賊フランシス・ドレイク、サン・ファン川に侵入する
「ニカラグア運河の夢」、エル・カスティージョの博物館資料より [中米ニカラグア]
サー・フランシス・ドレイク Sir Francis Drake。異名はエル・ドラコまたはエル・ドラゴ。イギリス南西部のデボン州に生まれる。
1540年2月か3月の生まれなのか、あるいは1543年なのかはっきりしないが、1596年1月28日に没した。 20歳代中頃、親戚筋にあたるジョン・ホーキンズが指揮する船団に仲間入りし、彼の下で奴隷の密貿易に従事するようになる。 西アフリカで奴隷を安く調達し、「新大陸」の植民地で生計を営むスペイン人に高く売りつけた。 その後、自ら船を調達し船長となり、ホーキンズの船団に参加していたが、1568年、メキシコのカリブ海沿岸にあって新大陸との 交易港市であったベラクルスのすぐ対岸のサン・ファン・デ・ウルアに停泊中、スペイン艦船の奇襲攻撃を受けた。ホーキンズ およびドレークらの船団はほぼ壊滅状態になり、命からがら逃げ延びイギリスに帰還する。 略年表をひも解くと、1558年以降、イギリスの海賊がニカラグア、ホンジュラスなどのカリブ海岸沿いに出没を始める。 ドレイクは、1570年以降に、スペインとカリブ海・西インド諸島とを行き来するスペイン船や植民地の町を略奪する海賊行為を始めた。
1572年、ドレイクは、中米地峡のカリブ海沿岸沿いのノンブレ・デ・ディオス(Nombre de Dios; パナマのカリブ海岸沿いで、
ポルトガル語でポルト・ベロ、スペイン語でプエルト・ベーリョという交易港市の少し東に位置する)を襲撃する途中で、
ニカラグアのサン・ファン川に侵入した。(いずれその仔細を調べたい)。結局、1573年ノオブレ・デ・ディオスでの襲撃では、
5万ポンド以上の銀を略奪した。
・ 1600年、海賊による襲撃から防衛するため、サン・ファン川の最上流にある町サン・カルロスに砦が建設される。 サン・カルロスはニカラグア湖の南東端にあって、同湖から流れ出るサン・ファン川の始点である。 ・ 1675年には、サン・ファン川の途中 (サン・カルロス寄り) にあるエル・カスティージョに、堅牢なサン・ファン要塞 (インマクラーダ・コンセプシオン要塞)を完成させた。 1577年11月、300トンほどのガレオン船「ゴールデン・ハインド」を旗艦とする5隻の艦隊で、イギリス南部のプリモス港を出航した。 大西洋を南下し、マゼラン海峡を経て太平洋に出る。そこで大嵐に遭遇し船団は散り散りとなり、ゴールデン・ハインドのみが 南米の太平洋岸を北上することになった。(なお、1578年にホーン岬とドレイク海峡を発見した。) チリ、ペルー沿岸のスペイン植民地、スペイン船などを襲撃し、莫大な金銀財宝を掠奪した。その中にスペイン国王の 財宝を満載した船「カカフエゴ」も含まれている。現在の米国サンフランシスコ湾で捕獲したもので、18万ポンドの金銀、 大量の宝石類などを掠奪した。 その後、ドレイクは太平洋を横断し、モルッカ諸島へいたる。さらにインド洋、喜望峰を経て、1580年9月ゴールデン・ハインドのみが プリモスに帰還する。フェルディナンド・マゼランに次いで、史上二人目の世界一周航海を達成した。イギリス国王 (エリザベスI世) に 金銀財宝を献上したが、その額は当時の国家歳入よりも多かったいう。この功績でイギリス海軍中将に任命され、また同時に叙勲 (サーの称号)を授受する。
その他の史実 [2009.02.20-22 ニカラグア、エル・カスティージョの博物館蔵] [拡大画像: x21341.jpg][拡大画像: x21342.jpg][拡大画像: x21343.jpg:説明書き][拡大画像: x21344.jpg:説明書き]
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1![]() ![]() 1 展示パネル全体 (「海賊とコルサリオス Piratas y Corsarios」)。 [拡大画像(x21336.jpg)][拡大画像(x21337.jpg)] [拡大画像(x21338.jpg): 説明書き][拡大画像(x21339.jpg): 「グラナダと海賊 Granada y los Piratas」][拡大画像(x21340.jpg): 左同] 2 Sir Francis Drakeの肖像画。
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