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英国人海賊ヘンリー・モーガン (Captain Sir Henry Morgan)。海賊業から身を起こし、ついには爵位(ナイト・騎士)まで授与された。
また、カリブ海・英国植民地ジャマイカの副総督にまで登りつめ、海賊の中の英雄にまで祭り上げられた人物である。
サン・ファン川、ニカラグア湖、グラナダをキーワードとしてニカラグア史をひも解くと、このヘンリー・モーガンが有名な海賊として
登場する。
英国南部のウェールズで生まれたモーガンは、1650年に15歳にして西インド諸島バルバドス島に年季奉公のため渡海した。
1655年に5年間の年季奉公が満了すると、ジャマイカ島に渡り、そのまま海賊の世界に足を踏み入れた。
それ以後海賊行為の限りを尽す人生を送ることになった。
1674年には、海賊でありながらナイトの爵位に叙せられた。最後には英国植民地ジャマイカに国家の
重要役職付きで戻って行った (1680年には代理総督にまでなった)。約20年間にわたる海賊業から引退するにいたるまで、
キューバ、パナマのポルト・ベロ、マラカイボ、パナマ市など多くのスペイン植民地を襲撃し財宝を略奪した。
1655年の20歳過ぎの頃にはメキシコのカンペチェ湾、またホンジュラス、ニカラグアなどの沿岸で海賊行為を働いていたが、
原住民インディオからニカラグアのグラナダの繁栄ぶりを聞き及んでいた。
モーガンは、1665年、全長190kmのサン・ファン川を一週間かけて遡上し、
ニカラグア湖を5日間かけて北上し、グラナダを3日間にわたり略奪した。その戦利品・分捕り品として
50万ポンド貨 (libras esterlinas) を略奪した。カヌーで遡上したので嵩張る財宝は余り持ち帰れなかったが、ジャマイカに戻った
モーガンは一躍有名になった。
モーガンはその書に次のように書き残した - 「グラナダは英国ポーツマスのように大きく見事な町である。7つの教会と一つの
大聖堂があり、数多くの学校、修道院がある」。
サン・ファン川の途上にあるエル・カスティージョの堅牢な要塞 (サン・ファン要塞、またはインマクラーダ・コンセプシオン要塞) が
完成したのはその約10年後の1675年のことである。
ヘンリー・モーガン略史
1635年、イングランド王国のウェールズに生まれる。
1650年頃、15歳の時、西インド諸島・バルバドス島へ渡る。
1655年頃、20歳の時、ニカラグアのニカラグア湖北西端最奥にあるグラナダを襲撃し金銀財宝を略奪する。
1666年頃、31歳の時、キューバの中央にある町Santa Mari'a del Puerto del Principe (現カマグエイCamaguey Province) を襲撃し、
8レアル銀貨5万枚を略奪する。1667年再びプリンシペを襲撃する。その後も3回目となるプリンシペ襲撃を行った。
1667年頃、32歳の時パナマのカリブ海沿岸に位置する交易港市(スペインの金銀財宝の積出港でもある)ポルト・ベロを襲撃する。
「難攻不落の要塞」といわれたポルト・ベロを、激しい攻防の末に奇襲作戦で占拠し、莫大な金銀財宝を略奪した。
1669年2月頃、34歳の時マラカイボを襲撃、住民に拷問を加えて財宝を強奪した。マラカイボ湖から外洋へ出る湾口でスペイン艦隊に包囲
されたが、火船による徹底抗戦をもって危機を脱した。
1670年頃、35歳の時、パナマ市を襲撃した。すなわち、1670年12月20日サンタ・カタリーナ島を降伏させる。1671年パナマのカリブ海側の
チャグレス川河口に到着、深刻な食糧不足と闘いながら苦難の末パナマ市へと進撃し、戦闘に勝利して莫大な金銀財宝を強奪した。
イギリス本国は、モーガンが1670年に行ったパナマ強奪に対するスペインからの抗議を受け、モーガンとジャマイカ総督
モディフォードを拘留し、本国へ送還する。
しかし、後に二人とも国家の役職付きでジャマイカに戻る。
1680年、モーガンはジャマイカ代理総督に叙せられる。
1688年8月25日、モーガン他界する。その後ジャマイカのポート・ロイヤルを襲った大地震のため、モーガンの墓は海底に没す。
[2009.02.20-22.ニカラグア、エル・カスティージョの博物館蔵][拡大画像: x21345.jpg][拡大画像: x21346.jpg: 説明書き]
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