画像は、1781年、23歳の時のネルソンである。(John Francis Rigaud画)
1758年9月29日、イングランドのノーフォークに生まれる。1805年10月21日、トラファルガー岬沖の海戦にて没す。遺体はロンドン
のセント・ポール大聖堂に眠る。
「ネルソン提督伝[上] The Life of Nelson」 (著者ロバート・サウジーRobert Southey、増田義郎監修、山本史郎訳、
原書房、2004年)と題する書物の23~29ページにかけて、ネルソンが若かりし頃サン・ファン川を遡上し、エル・カスティージョの
要塞(サン・ファン城塞、インマクラーダ・コンセプション要塞)を攻め落とすまでの遠征・戦い振りにつき詳細に語られている。
以下はその抜粋である。
イギリス・ダリング将軍の「作戦の概要は次のごとくであった。まずニカラグア湖に発祥し大西洋に注いでいるサン・ホアン川沿いに
設営されていた同名の城塞を奪取し、次にこの湖ならびにグラナダ、レオン両市を支配下に収める。このような手段で、
アメリカ大陸におけるスペイン領を南北に分断しようというわけであった。さて大西洋と太平洋を結ぶ運河を作るとすれば、
もっとも容易なのがこの地域であった。
この仕事が完成すれば、それによってもたらされる恩恵はかつて人類の力がなしえたどんな偉業をも凌駕するほどの重大な意義を
持つであろう。当時アメリカ軍管区の長官職にあったジョージ・ジャメイン卿はこの計画を裁下した。」
「1780年の初め、この任務の遂行を帯びた500人の兵士がネルソンに護衛されて、ポート・ロイヤルからホンジュラスのグラシアス・
ア・ディオス岬へと輸送された。・・・3月24日、サン・ホアン川河口に達する。・・・ここがネルソンの任務の完了地点であった。・・・
ネルソンは兵士たちを運んでゆこうと決意した。・・・・・モスキート湾岸で徴収したボートとヒンチンブルック号の2隻の
付属艇に約200人の乗員が分乗し、遡行作業が始まった。乾期の後半期であった。このような遠征には最悪の時期であった。
当然川の水位は低い。インディアンたちが浅瀬と砂州のあいだにできた狭い水路を先に上っていった。兵士たちはたびたび
ボートから降り、力のかぎりを尽くして、ボートを押すか引くかしなければならなかった。・・・」
「4月9日、サン・バルトロメオと呼ばれる島のところまで到達した。スペイン軍が要塞化して、島全体が前哨基地となっている。
ここには9ないし10門の旋回砲を備えた半円形の砲台がしつらえてあり、16から18名の兵員が配置されていた。要塞は航行の
むずかしい急流部分を睥睨していた。
ネルソンは数名の水兵の先頭に立って、浜に跳び移った。・・・サン・ホアンの城塞はさらに16マイル上流にあった。
しかし武器糧食は城塞の数マイル下手で陸揚げし、兵士たちはほとんど通行不可能なジャングルを抜けて行軍しなければならなかった。・・・」
「サン・ホアン城塞は、川がニカラグア湖とたもとを分かつ地点から下流へ32マイル、河口から69マイル上流であった。・・・
イギリス軍は11日に城塞の前に姿を現わした。サン・バルトロメオ要塞を奪取した2日後のことである。・・・。雨期が始まった。・
・・24日城塞に白旗が上がった。しかしこの勝利は、当てにしていた物資の補給を征服者にもたらさなかった。城塞とは名ばかりで、
獄舎よりもひどかった。・・・川は水量が増し波が逆巻いて、上流遡行がほぼ不可能に近い。・・・5か月間にわたってイギリス軍はこのような
状況でがんばった。自然との戦いといってよかろう。」
「・・・ネルソン自身が助かったのは、よい時を狙いすましたかのように転属命令が下ったからである。ネルソンは包囲戦が始まって
数日後、流行していた赤痢にかかてしまった。・・・サン・ホアン要塞降伏の前日にネルソンは停泊地に帰ってきた。そしてただちに、
彼の転属の報せをもたらしたスループ艦に乗って一路ジャマイカをめざした。・・・・・本復を期する唯一の手立てとして、
本国帰還の許可を願い出るしかなかった。コーンウォリス艦長(後に大将)がライオン号でネルソンを連れ帰った。艦長の暖かい
看病と気遣いのお陰で長らえることができたのだと、ネルソンは生涯思っていた。」
ネルソン略史
1777年、海軍海尉昇進試験に合格する。
1778年12月8日、ブリグ艦バジャーの海尉艦長として初めて指揮艦をえる。
1779年6月11日、28門砲艦のヒンチンブルックの艦長となる。
[参考] ネルソンは21歳になるかならないかのうちに「大佐艦長」の地位をえた。海尉から艦長に昇進する時は、
スループ、カッターなどの小艦艇の指揮官に任命される。そこで経験を積んだ後に20砲門以上のフリゲート艦の指揮を任される
「大佐艦長 (post captain)」となる。
当時には大佐、中佐、少佐の区分はなく、20砲門以上の艦を指揮する資格のある「大佐艦長」とそれ以外の「艦長」とに
区分されていただけである。[出典: 「ネルソン提督伝[上]、231ページ]
1784年、最先任艦長として小アンティル諸島の鎮守府に赴任する。
1793年、フランス革命の勃発により戦列艦アガメムノンの艦長となり、地中海方面に展開する。
1794年、コルシカ島陸上戦でのコルヴィ攻略において右目の視力を失う。
1797年、サン・ビセンテ岬の海戦に参加する。同年、カナリア諸島テネリフェ島の攻略に失敗する。戦闘で右腕を負傷し切断する。
1798年、地中海分遣艦隊を率いて、フランスのツーロンにて、エジプト遠征を企てるナポレオンのフランス艦隊に対する封鎖任務にあたる。
1801年、青色艦隊中将に昇進する。子爵に叙せられる。
1803年、地中海艦隊司令官に任命される。
1804年、白色艦隊中将に任命される。
1805年、トラファルガー岬沖でフランス・スペイン連合艦隊に挑み、これを撃破する。戦闘さ中において狙撃され戦死する。
[2009.02.20-22.ニカラグア、エル・カスティージョの博物館蔵]
[拡大画像: x21360.jpg & z16121.jpg(掲示画像と同じ)][拡大画像(x21358.jpg)]
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