マゼラン世界周航略史
1504年、マゼラン、インドに航海する。その後マラッカ、モルッカ諸島(香料諸島)などに滞在、1512年帰国する。
その後、少なくとも2回ポルトガル国王に謁見する機会をもった。先ず、俸給引き上げを直訴したが却下された。
その後、1515年末又は翌年初め、モルッカ諸島への派遣を懇請したが、これも却下された。
ポルトガル王室での将来に見切りをつけて、ポルトガル北部の港町ポルト(またはオポルト)に移り、そこで天文学者ルイ・デ・ファレイロ、
熟達した船乗りのジョアン・デ・リスボアらと交遊する。
1517年10月、ポルトから海路でスペインのセビーリャに移る。その後、西回り航路で僚友セラーンが滞在するモルッカ諸島へ
向かう航海計画を立てる。そして、スペイン国王カルロス一世 (国王在位1517~56年; 神聖ローマ帝国皇帝カール5世のこと)
に謁見し、同計画への支援を懇請した。
1518年3月22日、カルロス一世とマゼランとの間でモルッカ諸島の発見に関する協約が成立する。
1519年9月20日、グアダルキビール川(Guadalquivir)河口のサンルカル・デ・バラメダ港(Sanlúcar de Barrameda)で最後の
補給を済ませたビクトリア号他5隻からなる船隊は、277名の乗組員を率いて出帆する。船隊構成は、トリニダード号(110トン)、
サン・アントニオ号(120トン)、コンセプシオン号(90トン)、ビクトリア号(85トン)、サンティアゴ号(75トン)であった。
マゼラン自身が乗艦する旗艦トリニダード号が常に先頭を進み、4隻がその後に続くよう指揮を執った。
西アフリカのヴェルデ岬諸島を通過した後、1519年12月13日に現在のリオ・デ・ジャネイロがあるサンタ・ルシア湾に到達する。
その後、海岸沿いに南下し、サンタ・マリア岬(現在のウルグアイ首都モンテビデオの200kmほど東方; 最寄の都市は
ローチャ Rochaである)に到達した。
同地より西方に連なる海岸線沿いに航海を続けたところで山を視認したマゼランは、この地をモンテ・ビディ
(⌈山を見た⌋という意味。現在のモンテビデオ)と名付けた。
海岸線はなおも西方へ向かっていた。ジョアン・デ・リスボアはかつてこの地に到達し、この海岸線を西方に
辿れば「南の海」に出られる海道があり、モルッカ諸島に到達できると期待した。マゼランは彼と同様にその期待を抱いて西航した。
1520年1月10日にラ・プラタ川(río de La Plata; モンテビデオから150kmほど西方に位置する)の河口に到達したマゼランは、
最も小型のサンティアゴ号をもって内奥へと調査させたところ、河川であることが判明した。マゼランは⌈ソリス川⌋と名付けた。
更に南下し、サン・マティアス湾(Golfo San Matías; バルデス半島Península Valdésの北側にある大湾)を調査した後、
現在のサン・フリアン (San Julián) にて越冬した(1520年3月31日から8月23日まで; 南半球における真冬は6~8月頃である)。
航海再開後、サンティアゴ号がサンタ・クルス川(río Santa Cruz)の河口付近で難破した。
1520年10月21日、現在のマゼラン海峡の東口(⌈一万一千の聖母の岬 Cabo Virgenes⌋)から海岸線は西方へ大きく
くびれている)に達した。
水路を進む過程でサン・アントニオ号が一方的に船隊から離脱し、本国に向けて逆航するという行動を取った。同号は1521年
5月6日にセビーリャに帰着した。
3隻となった船隊は、現在のパタゴニア地域とフエゴ島 (Tierra del Fuego; ⌈火の土地⌋という意味);との間にある
マゼラン海峡を西方に向け通過し、ついに11月28日⌈待望の岬 (カボ・デセアード Cabo Deseado) ⌋と命名した岬
を最後に外洋に出た。
船隊はチリ沖を北上しながら、針路を徐々に北西から西寄りに転針し、3か月余りかかって太平洋を横切り、ついに1521年3月6日
マリアナ諸島にいたる。同諸島の旧称はラドロネス諸島 (Ladorones=Ladrone Islands) である。⌈ladrones⌋ (複数形)
とはスペイン語で⌈泥棒⌋という意味で、当時
「泥棒諸島」と呼ばれた。
3月16日、フィリピン諸島のセブ(Cebu) 島に到達した。
4月27日、マゼランはセブ島に隣接するマクタン島(Mactan Island)において発生した原住民との戦いに負傷し死亡した。
マゼランの死後、スペイン人のフアン・セバスティアン・デ・エルカーノ (Juan Sebastián de Elcano; 1476?-1526年) が航海
指揮を引き継ぎ、トリニダード号とビクトリア号の2隻で、1521年11月8日モルッカ諸島ティドール島にたどり着いた。
1521年12月18日2隻は同島を出航したが、直後にトリニダード号が浸水したためそれを残し、エルカーノの指揮の下、
ビクトリア号だけが航海を続けた。
インド洋を横切り、喜望峰を周回し、西アフリカ沿岸を北上し、1522年9月6日ついにスペイン・セビーリャへ帰着し、世界周航を
成し遂げた。生還できた乗組員はわずか18名であった。
[エピソード] スペイン・バルセローナを旅する友人から届いたメールに帆船画像が添付されていた。ランブラス大通りを南に
下ったところにある船着き場に係留されている、人類史上初めて世界周航 (1519~1522年のほぼ
丸3年にわたる) を果たした帆船「ビクトリア号」 (復元船)である。
全長約26m、最大幅6.7mほどの船で、友人はその余りの小ささに驚嘆したという。人類が地球の丸さと大きさを実体験し立証したのは
今からわずか490年前のこと、人間が成し遂げた史実の余りの「最近のこと」に改めて驚嘆する。