南米アルゼンチンの首都ブエノス・アイレスは南米の大河ラ・プラタ川 (río de La Plata) 西岸沿いに発展した大都会である。
そのブエノス・アイレスの市街にあってラ・プラタ川沿いにある国内線空港 (一部国際線あり)、通称⌈アエロパルケ⌋
から飛び立ち、南米大陸南端にあるフエゴ島 (Tierra del Fuego) へと向かう。画像は、アエロパルケを飛び立ってすぐに眼下に広がる
ラ・プラタ川とブエノス・アイレス市街である。
[参考]南米大陸の南部域を流れるウルグアイ川とパラナ川とが合流して形成されるのがラ・プラタ川である。
ブエノス・アイレスはその河口の西岸側に位置する。そのすぐ対面にあたる東岸側にはウルグアイの古い港町コロニア・デル・
サクラメント (通称コロニア) がある。ウルグアイの首都モンテビデオはコロニアから東方へ180kmほど行ったところにある。
画像 1: 目的地であるフエゴ島のある南の方角を眺めている。搭乗機の翼先のすぐ上辺りの河岸にブエノス・アイレスのボカ地区
(かつて大勢のイタリア移民などが降り立った港のある地区として有名である) やコンテナ港がある。
画像 2: 西~北西方向を眺めている。画面左中央にブエノス・アイレスの市街が広がる。左端の河岸沿いに大きな緑地が広がるが、
丁度その背後には、かつてブエノス・アイレス港として隆盛を極めた当時を彷彿とさせるドックおよびレンガ倉庫群が居並ぶ。
緑地のすぐ右側の河岸沿いに現在のブエノス・アイレス港の埠頭が連なっている。ブエノス・アイレス市街の背後には、
平坦な大牧草地帯「パンパ」が延々と広がっている。
ポルトガル人航海探検家マゼランによるモンテビデオからラ・プラタ川河口への踏査
ポルトガル人航海探検家フェルディナンド・マゼラン(Ferdinando Magellan; 1480?-1521年)の率いる
5隻・乗組員277名からなる船隊が、1519年9月20日、スペインのセビーリャを出港し、西回りで香辛料の産地で
有めいなモルッカ諸島をめざした。
西アフリカのヴェルデ岬諸島を通過した後、1519年12月13日に現在のリオ・デ・ジャネイロのあるサンタ・
ルシア湾に到達し、その後海岸沿いに南下し、サンタ・マリア岬(現在のモンテビデオの200kmほど東方; 最寄の都市は
ローチャ Rochaである)に到達した。
西方に連なる海岸線沿いにさらに航海を続けたところで山を視認したマゼラン
その地をモンテ・ビディ(「山を見た」という意味。現在のモンテビデオ)と名付けた。それが現在のモンテビデオである。
海岸線はなおも西方へと続いていた。
かつて航海士ジョアン・デ・リスボアはこの地に到達し、この海岸線を西方に辿れば「南の海」(現在の太平洋のこと;
バルボアがパナマ地峡を横断して、西欧人で初めて海があることを認めた) に出られる海道があり、モルッカ諸島に到達できるものと
期待した。マゼランは彼と同様にその期待を抱いて西航した。
1520年1月10日に現在のラ・プラタ川河口に到達したマゼランは、最も小型のサンティアゴ号
をもって内奥へと調査させたところ、結局河川であることが判明した。マゼランは「ソリス川」と名付けた。
これが、マゼランのモルッカ諸島に向けた探検航海におけるラ・プラタ川との歴史的な出合いである。
なお、マゼラン船隊は、その後更に南下を続け、現在のアルゼンチンのサンタ・クルス州
にある町サン・フリアン (San Julián) の入り江に錨を降ろして越冬した(1520年3月31日から8月23日まで; 南半球における
真冬は6~8月頃である)。そして、更に南下を続け、ついに南米大陸南方に存在すると憶測されていた、「南の海」
へ通ずる海峡 (後のマゼラン海峡) を発見した。
その後、難航を重ねようやく海峡から大洋へと抜け出た。後に太平洋と名付けられたその大洋を横断し、
数々の苦難を乗り越え、ついに1522年スペインに帰還、ここに西回りにて史上初の世界周航(1519-1522年)を成し遂げた。世界周航して
帰還したのはビクトリア号の一隻のみで、わずか18名の乗組員のみであった。そこにはマゼランの姿はなかった (マゼランは 1521年
フィリピンのセブ島に隣接するマクタン島で原住民との戦闘のさ中に負傷し不慮の死を遂げた)。
[2014.3.03-31 アルゼンチンにて][拡大画像: x25992.jpg][拡大画像: x25993.jpg]
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