海洋総合辞典 Comprehensive Ocean Dictionary, 特選フォト・ギャラリーPhoto Gallery, 南米パラグアイへの移住

一枚の特選フォト⌈海 & 船⌋


One Selected Photo "Oceans & Ships"

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新天地・南米への船出! 移住の希望と不安をのせて
[略史: パラグアイへの移住]

南米の国パラグアイへの日本人の移住は1936年から始まった(因みに、メキシコへの移住は1897年、ペルー1899年、ブラジル 1908年であった)。 ブラジル政府が1934年に同国への新規移住を制限する法律を公布したことから、日本はパラグアイへの移住の可能性を探り、 最終的に同国の首都アスンシオン市南東130kmほどにある亜熱帯樹林の原野に土地を求め、ラ・コルメナ移住地を切り開くこととなった。

1936年5月、先ず、ブラジルへの入植経験のある4家族33人が入植した。その入植には、将来初めて入植を試みる 移民を指導するという目的もあった。 そして、同年8月に、日本からの最初の移民として、11家族81人が到着した。その後、 第二次世界大戦の勃発によって日本人移住が途絶える1941年までに、合計123家族790人が入植した。大戦勃発は日本人 移住者に苦難の追い打ちをかけた。移住者は敵性外国人となり、同移住地は全パラグアイの日本人収容地となった。

戦後日本は敗戦でアジア・太平洋地域からの引き揚げ者・復員軍人など1000万人以上の余剰人口をかかえ、政策的に海外移住 を進める時代となった。 大戦により一時中断されていたパラグアイへの日本人移住は1952年に再開され、ラ・コルメナ移住地に18人が入植した。

その後、パラグアイ政府は、南部地域の開発のため イタプア県チャベス移住地の創設を許可したことから、1954年35家族210人がチャベス移住地へ入植した。同移住地は その後満杯となるにいたり、1955年同県フラム移住地への入植、1956年フジ移住地、1957年ラ・パス移住地、 サント・ローサ移住地へと順次拡大していった。

1959年日本・パラグアイ両国政府は⌈移住協定⌋を締結し、以降30年にわたり85,000人の日本人移住者を受け入れることを約した。 1960年以降、イタプア県ピラポ地区に、またアルト・パラナ県イグアス地区に土地が購入され、ピラポ移住地、イグアス移住地が 建設され、戦後におけるパラグアイへの移住が本格化して行った。他方、1960年代に日本は高度成長期に入り、 その後は日本からの移住者数は減少をたどり現在に至っている。現在7000人ほどの日系人(日本国籍者及び2・3世を含む)が 在住しているとされる。

入植当初の移住者は、原生林を斧で倒し焼き払い、仮小屋に住まいながら、ティエラ・ロサ (tierra rosa) と称される 赤土の大地を開拓した。 大豆・小麦などの穀類、トマトなどの各種野菜、柑橘類、鶏卵などの移住者による生産は、パラグアイの農業振興に大きな インパクトを与えてきた。 パラグアイ人は元来肉食主体で野菜を食べる習慣がなかったが、多種の野菜・果物を供給し、その食生活の改善に大きく貢献してきた。

特に、移住者によって導入された大豆生産における⌈不耕起栽培法⌋は、単位当たり生産量の増大、生産コスト削減、 土壌保全などの観点から大きなインパクトをもたらした。 今日では、日系人を含むパラグアイ農業生産者によって産出される大豆はほとんどが海外輸出され、外貨獲得に多大な貢献をなしている。

日本政府は、国際協力事業団 (現・国際協力機構/JICA) を通じて、長年にわたり、道路・橋や上水道の整備をはじめ、 農林業、医療・保健、教育などの分野における社会インフラ整備のための無償資金協力ばかりでなく、多種多様な分野の人材 育成のための数多くの技術協力を通じて、パラグアイの⌈国造り・人づくり⌋に取り組んできた。

因みに、JICAは、大豆の分野では、長年にわたり、単位収量の高い新品種や耐病性のある品種の開発、栽培方法の改良などの ための研究を支援した。 日系人・日系社会に対するパラグアイ国民の高い信頼と評価は、過去の入植者たちから連綿と続く日系人の並々ならぬ努力と情熱の上に 築かれてきたものである。

画像は、日本人移民の希望と不安を乗せて、1958年に南米への旅路につく大阪商船の移民船の出港風景である。 新天地における新しい生活と人生にかける移民家族の熱い思いと、見送る人々の励ましの心とが、最後の最後まで紙テープ で結ばれていたことであろう。残念ながら船名の記載はない (ブラジル丸の神戸港からの出港か?)。

[画像撮影: 2013年10月13日東京の光が丘公園で開催された「パラグアイ・フェスティバル」における、パラグアイ日本人会 連合会出展パビリオン⌈パラグアイの日系人⌋での展示パネル⌈パラグアイ移住70年の旅: 1936パラグアイ日本人 移住2006⌋より][拡大画像: x25541.jpg]



関連サイト・図書
・ パラグアイ日本人会連合会 (Federación de Asociaciones Japonesas el el Paraguay)ホームページ:  ⌈パラグアイにおける日本人移住の歴史⌋
・ 在パラグアイ日本国大使館ホームページ:  ⌈二国間関係: 移住史⌋
・ JICA・海外移住資料館 Japanese Overseas Migration Museum [JICA横浜/横浜市]
・ 図書: ⌈パラグアイ日本人移住70年誌 新たな日系社会の創造 1936~2006⌋、パラグアイ日本人会連合会発行、 パラグアイ日本人移住70年誌編纂委員会




日本人移住者のパラグアイ入植地概図: ラ・コルメナ移住地、イグアス移住地、イタプア県3移住地などが記されている。 パラグアイ川とパラナ川が合流する地点から1000kmほど下るとアルゼンチンの首都ブエノス・アイレスにいたる。  [拡大画像: x25542.jpg: 地図/出典→同上の2013年パラグアイ・フェスティバルでの⌈パラグアイ移住70年の旅:  1936パラグアイ日本人移住2006⌋パネル]

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1. ⌈ティエラ・ロサ(赤い大地)⌋が続く。正面の低地辺りがラ・コルメナ移住地のある地区である。  [拡大画像:x26024.jpg]
2. ラ・コルメナ移住地には、標高は全く低いが富士山に似た⌈コルメナ富士⌋がある。ラ・コルメナ地区は日本の 山村風景に似ることから入植者の心を大いに癒したという。いずれの画像も2000~2003年頃の撮影。 [拡大画像:x26025.jpg.jpg]


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