一枚の特選フォト⌈海 & 船⌋
マゼラン海峡の海&船風景(1)/フェリーの船着き場
[チリ&アルゼンチン・フエゴ島]
南米大陸を南下し続けると、その陸地はマゼラン海峡にて終わりを告げる。海峡の南側にはティエラ・デル・フエゴ島*
(Tierra del Fuego。スペイン語で⌈火の土地⌋という意味)、その他幾多の大小島嶼が連なる。
南米大陸最南端は、ついには、彼の有名なホーン岬(Cape Horns)において名実ともに終わる。ホーン岬以南においては、ドレーク海峡
(Strait of Drake)を隔てて、1000kmほど南方に白い大陸・南極が横たわる。 * フエゴ島は、南北方向にほぼ真っすぐに引かれた国境線によって二分され、西側がチリ領、東側がアルゼンチン領となっている。 今回の旅では、アルゼンチンの港市ウシュアイア(フエゴ島の南側に位置し、かつビーグル水道に面する)を長距離バスで北上して リオ・グランデ(Río Grande)に向かう。 その後、アルゼンチン・チリ国境を越えチリ領へ。そして、マゼラン海峡(海峡の殆どはチリ領内にある)をフェリーで渡海後、 再び陸路をたどる。 今度はチリ・アルゼンチン国境を越えてアルゼンチン領へ入り、リオ・ガジェイゴス(Río Gallegos)にたどりついた(その後 長距離バスを乗り継ぎ、あちこちで道草をしながら、首都ブエノス・アイレスまでパタゴニアの大地と大草原パンパをのんびりと北上した)。 季節は3月、南半球では初秋に当たるが、ウシュアイアでは、ビーグル水道両岸の山々はかなりの冠雪をいただき、みぞれにも 歓迎され、防寒具を手放すことのできない肌寒い日々が3日ほど続いた(ウシュアイアは南緯55度辺りにあり、北緯55度と いえば樺太の少し北に相当する)。 長距離バスはウシュアイアを午前5時に出発した(リオ・ガジェイゴスまで所要時間は12時間の予定)。アルゼンチン・チリ 国境線のずっと手前の町でパスポート検査、国境検問所では荷物検査を終え、マゼラン海峡のフェリー船着き場へと向かった。 だが、生憎西寄りの強風が吹き荒れており、フェリーは運航中断状態であった。対岸からのフェリーが到着せず、岸辺に 一軒しかないレストランとバス内で5時間ほど待機した。大勢の乗客、運転手らは焦ることもなくのんびりと過ごす風であった。 当方は日本から持参したクライブ・カッスラーの海洋冒険小説を読みふけったりして暇つぶしをした。旅行計画があるわけでは なく行き当たりばったりであり、急ぐ旅でもなく、全く勝手気ままな放浪の旅の身であるのは、最高の贅沢と感謝感謝であった。 時に小説から目を移し、窓越しにマゼラン海峡を眺めた。一隻の大型貨物船が東側 (太平洋側) から進んで来るのが見えた。 5分間ほど目を凝らして進み具合に注目していた。 西寄りの風が強烈だったので自然と、その進み具合が気になっていた。船は難航しているらしく、5分間たってもどうも同じ 位置に留まる感じを受けた。 時に目を小説に移し、また船に目をやる。同じ位置に留まっていることがはっきりした。暫くしたら、180度転じて引き返して行った。 恐らく強風をやり過ごせる陸陰まで引き返すに違いないと、勝手な想像をした。逆風にたじろぎ引き返すというマゼラン海峡ならでは の船風景に遭遇した。 強風は5時間後少しは下火となったのか、フェリーがやってきた。フェリーは陸側のコンクリート製ランプウェイに船首部を 押し付けるように停泊し、その上に自身の鋼鉄製ランプウェイを重ねた。乗船に際しては、路線バスとその乗客が最優先され、 先ずバス乗客が歩いて乗船した。 その後次々と車両が乗り込んできた。乗船後すぐに甲板に出てみると、風は猛烈であった。甲板手摺りにしがみつきながら歩行 するのがやっとである。 マゼラン海峡の渡海はアルゼンチン赴任(1984~87年)以来の夢であった。今回、30年の時を経てようやくその夢を実現できた次第である。 わずか1時間ほどの渡海であったが、感涙の船旅となった。
* 参考: マゼラン船隊による世界周航についての略史。 |
![]() 画像のほぼ中央にマゼラン海峡がある。その右下方にフエゴ島、続いてビーグル水道 (ピンク色の東西破線部分)、ナバリーノ島(チリ領)、 その最下にホーン岬がある。ピンク色破線がチリとアルゼンチンとの国境線である。 [拡大画像: x26027.jpg]
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