一枚の特選フォト⌈海 & 船⌋
カストロ兄弟、チェ・ゲバラたちの反体制武装闘争グループを
海上輸送したボート「グランマ号」 [キューバ・ハバナ]
画像のプレジャーボートは「グランマ号 (Granma)」という。キューバ人のカストロ兄弟、アルゼンチン人のチェ・ゲバラたち
総勢82人が乗り込んで、1956年にメキシコからキューバに向けてメキシコ湾の海を渡った船である。
その後、カストロやチェ・ゲバラたちはキューバ国内で25か月にわたりゲリラ闘争を展開し、時のバティスタ大統領政権を打倒し、
以来政権を取ってきたカストロ兄弟の共産党政権(現在は弟のラウル・カストロが国家評議会議長を務める)にとっては、その闘争の
勝利に命を賭けた全行程 (後に、一連の武装闘争およびその後の国家体制の大変革は「キューバ革命」と称される) のまさしく最初の
行程を歩み出した、最も記念すべき革命の物証そのものである。故に、総ガラス張りの展示館の中に収められ、厳重に保存されている。
翻って、カストロらの1週間にわたる長い航海は大きな苦難を伴った。そして、上陸後待ち受けていたバティスタ政府軍との
戦いは、惨憺たる結果をカストロらの反体制ゲリラ部隊側にもたらした。 第二次大戦後から間もない1952年、キューバでは軍事クーデターを起こしたバティスタが政権の座についた。 他方、1953年7月26日、兄フィデル・カストロ、弟ラウル・カストロらが主導する119名の反バティスタ・反体制運動グループは、 同国東部の町サンティアゴ・デ・キューバにあるモンカダ兵営を襲撃した。だが、完全な失敗に終わった。 カストロ兄弟らのリーダー格については、高度な政治的裁判にかけられ、15年の刑期が課せられ収監された。 1955年5月、バティスタ政権の恩赦によって、カストロ兄弟を含めた全ての政治犯が解放された。 カストロ兄弟はほどなくメキシコに亡命した。そして、同国での潜伏中、バティスタ政権を打倒すべく組織化と軍事訓練を進めた。 このグループはモンカダ襲撃の日に因んで「7月26日運動」(M26)と呼ばれる。カストロはメキシコに潜伏中、同国に滞在していた アルゼンチン人のチェ・ゲバラと出会い、ゲバラはカストロと意気投合し、反体制ゲリラ闘争に参加することになった。 カストロたちは、資金難の状況下においてようやく、キューバに渡海し上陸するための一隻の船を買い込んだ。その船が「グランマ号」 である。1943年頃に建造された定員12人のディーゼルエンジン駆動のクルーザーであった(グランマは現在キューバ共産党機関誌の 名前にもなっている)。
1956年11月25日深夜、カストロ兄弟、ゲバラなど総勢82名の武装闘士を乗せたグランマ号はメキシコのトゥスパン*を出航し、
ようやく1週間後の12月2日に上陸を果たした。大幅な定員過剰での航海、荒天で予定より遅延したことなどで、
闘士らの士気は相当低下していたとされる。また、カストロは事前にキューバへの再上陸を公言していたので、上陸直後にバティスタ政府
軍に包囲され、結局逃げ延びることができたのはカストロ兄弟、ゲバラ、カミーユ・シエンフエゴスらわずか12名だけであった。
ゲリラ12人はキューバ南東部にあるマエストラ山脈に逃げ込み潜伏しつつ、ゲリラ活動を開始した。国内の反政府勢力との合流を果たしつつ、
徐々に陣容を立て直し、政府軍との闘いに向け主に2部隊に分かれて挑んで行った。詳細はここでは省き、結末のみを記す
(キューバ革命の略史作成中)。 [2015.2.2-17 カナダ&キューバの旅/革命博物館訪問 2015.2.8/2015.3.27 記] [拡大画像: x26718.jpg][拡大画像: x26720.jpg][拡大画像: x26719.jpg] |
2. 1959年2月16日フィデル・カストロは首相就任の書面に署名し、政権の新たなステージに入った旨が記されている。同博物館展示写真。 [拡大画像: x26722.jpg] |