一枚の特選フォト⌈海 & 船⌋
ブラジル移民発祥の地・神戸/昭和初期の神戸港周辺地図
(旧神戸移住センター~鯉川筋・移民坂~第3・4突堤ルート図)
附属資料: 移住関連年譜
画像は昭和初期の神戸港周辺の地図である。画像最上部には六甲山が位置する。その山麓に国立移民収容所 (National Emigrant Center)
(旧神戸移住センター)があった。南米ブラジルなどへの移住者は、鯉川筋(通称⌈移民坂⌋)を下り、東海道線の鉄路を
通り抜けた後、今で言うメリケンロードをさらに下った。
メリケン波止場の手前で東折れして、移民船が接岸する第3、4突堤方面へと向かった。地図には移住者が収容所から突堤まで歩いた
道筋が赤線で記されている。
南米移住者は全国からこの収容所に集まった。移住者はこの収容所で7日間から10日間滞在し、移住先の生活事情や語学の講習、 身体検査、出国手続きなどを行なった。神戸で日本最後の日々をこの収容所で送ったのである。何十万人という多くの移住者が、 この神戸港からブラジルなどをめざして船出した。移住者は見知らぬ異国・新天地への期待、不安を胸に旅立って行った。 思い思いに手荷物をもって、子供らの手を引いたりして、移民坂を下って行ったのである。因みに、1908年移民船⌈笠戸丸⌋ (かさとまる) の神戸港からの出航をもってブラジルへの移住が始まった。まさに新天地へ志と希望を抱いての船出であった。 [画像撮影 2016.5.28/旧神戸移住センターにて][拡大画像: x27192.jpg] |
移住関連年譜 1908年笠戸丸の出航~国立移民収容所の創建~旧神戸移住センターへの改称~1971年 最後の移民船ぶらじる丸の出航
・ 1858年(安政5年)、日米修好通商条約を皮切りに、オランダ、ロシア、イギリス、フランスと同様の条約(安政5ヶ国条約) が締結される。兵庫港の開港が取決められる。 ・ 1859年(安政6年)7月、江戸幕府が、神奈川 (横浜)、長崎、函館を開港し、条約の締約国と通商を開始する。 ・ 1868年(明治元年)1月1日(慶応3年12月7日)、幕府が、兵庫港 (1892年に神戸港に改称する) を開港する。 ・ 1894年、日清戦争起こる。1895年、下関条約締結される。 ・ 1885年(明治18年)、第1回ハワイ移民945名(いわゆる官約移民)が横浜港から出航する。1894年に当該渡航が終わり 、私的移民の渡航が始まる。 ・ 1899年、欧米諸国との不平等条約が撤廃される。 ・ 1899年(明治32年)、ペルー行きの第1回移民790名が船出する。
・ 1908年、移民船⌈笠戸丸⌋、ブラジルへの第1回移民781名を乗せて神戸港から出航する。
・ 1941年(昭和16年)12月、旧日本海軍が真珠湾攻撃を行い、太平洋戦争が始まる。このため教養所は戦時閉鎖となる。
・ 1947年(昭和27年)10月、日本国内にて海外移住協会が設立される。
戦後の南米移住は、1950年代から1960年代初頭にかけて最盛期を迎えた。ブラジルのコチア産業組合によって移住者は「コチア青年」
として受け入れられた。
・ 1971年(昭和46年)5月、神戸港を出航した最後の移民船⌈ぶらじる丸⌋を見送った後、同年同センターは閉鎖され、
その役目を終えた。この最後の移民船が出航するまでの間、約40万人の移住者が神戸からブラジルなどに渡海して行ったが、
この移住施設ではそのうち25万人を受け入れたとされる。
・ 神戸市は、兵庫県・政府・財団法人日伯協会等の協力をえて、ブラジル移住100周年記念事業として、旧神戸移住
センターを保存・再整備することを決定する。
* 出典: 移住と文化の交流センターのパンフレット、展示パネルなど。 |
2. ⌈ぶらじる丸⌋(Brazil Maru)の出港風景。キャプションには⌈神戸港最後の移民船ぶらじる丸/株式会社商船 三井⌋と記される。(同上センターの展示) [拡大画像: x27272.jpg] |