一枚の特選フォト「海 & 船」
坂本龍馬と京都伏見の船宿「寺田屋」
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平安時代以来淀川では舟運が盛んであったが、江戸時代には 画像1. 現在の「旅籠・寺田屋」の全景。1862年(文久2年)4月、尊王攘夷派の先鋒であった薩摩藩士9名が殺傷されるという騒動が、 伏見の京橋近傍の寺田屋伊助の船宿「寺田屋」で起こった。 [拡大画像: x28785.jpg] [拡大画像: x28790.jpg: 説明書き/立札「寺田屋騒動址」][拡大画像: x28791.jpg: 説明書き/「お登勢明神」] 寺田屋: 江戸時代、伏見は、大坂と伏見の間を行き来していた旅人専用の三十石船や物の運送を専門にする船などで賑わった。寺田屋は 船を待つ客が泊まった船宿で、幕末には坂本龍馬が薩摩・長州との連絡に使った。寺田屋は「寺田屋騒動」の場であり、龍馬と妻お龍の出会いの 場でもあった。伏見はまた、角倉了以(すみくらりょうい)父子によって開削された高瀬川によって京都と結ばれる舟運の発着点でもあった。 それ故に、伏見は大坂と京都を結ぶ舟運の中継地と言えた。 画像1の寺田屋址に掲示される銘板「お登勢明神」によれば、お登勢とは寺田屋第6代女将であった。寺田屋は江戸時代より伏見南浜と大坂八軒屋の淀川間を 三十石船で往来する船宿を営んでいた。江戸時代末期、1847年頃に18歳で第6代寺田屋伊助に嫁入りし、明治10年(1877年)に逝去した。 人の世話をすることを厭わない性分であったと言われる。
画像2.
旧・伏見港のなかでも「京橋」はその中心であった。画像2は現在の京橋のたもとにある船着き場の現風景である。燈籠の左側の住居の裏手に「旅籠・寺田屋」がある。
京橋は本画像撮影者のすぐ後ろに架かっている。運河には観光十石船が行く。
現・京橋のたもとには「伏見口の戦い激戦地跡」と題する案内立札が立ち、次のような説明書き(原文のまま)が記される。
[拡大画像: x28787.jpg][拡大画像: x28788.jpg: 説明書き/「伏見口の戦い激戦地跡」][拡大画像: x28789.jpg: 説明書き/立札「京橋」]
大坂と京との間を行き来する旅人らの最も賑やかな交差点であった京橋のたもとには、さらに「京橋」と題する立札が立ち、以下の
ように記される(原文のまま)。
淀川の水運は、古くは京・大坂を結び、また琵琶湖を経て、遠く東海道・北陸とも連絡する交通上の大動脈 であったが、慶長年間(1596~1615)、角倉了以が京都市中と伏見との間に高瀬川を開削するにおよんで、この付近は旅人や貨物を輸送する 船着場として大いに栄えた。 淀川を上り下りして貨客を運んだ三十石船や高瀬川を往来した高瀬舟、更に宇治川を下ってきた柴舟(しばぶね)などがこの辺りにひしめき合い 、数十軒の船宿も建ち並んで、昼夜の別なく雑踏を極めた。 しかし、明治初年、京都・大阪間に鉄道が開通するに至って次第にさびれ、今は往時の盛観は見られないが、ここから東約五十メートル の所にある旅館「寺田屋」がわずかに昔の船宿の名残をとどめている。京都市 」 京橋の南にある「中書島」駅(京阪本線)の改札前に、坂本龍馬の等身大の人物写真と、「幕末のまち伏見」と題する町の案内板が 立つ。
辞典内関連サイト: 「坂本龍馬・お龍、大坂・天保山から 新婚旅行に出立する」
別のアングルからの寺田屋址 [拡大画像: x28786.jpg]
[撮影年月日:2020.10.5/撮影場所: 京都伏見の旅籠・船宿「寺田屋址」・京橋の寺田屋浜にて]
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龍馬は、図中央左寄りの「寺田屋」から、その左斜め上にある運河沿いの材木小屋に避難し、追っ手を逃れることができ九死に一生を得た。 「京橋」の橋下の流れは宇治川(地図下方の川)に注ぎ、淀川を経て大坂に通じる。他方、慶長年間(1596~1615年)に角倉了以が 京都市中と伏見の間に高瀬川を開削するに及んで、京橋付近は船着き場として、京と大坂の間を行き来する旅人や貨物の積み降ろしなどで大いに 賑わった。 * 地図撮影: 2020.10.5/京都伏見市街にて [拡大画像: z23654.jpg: 伏見市街の 観光案内拡大地図] |