画像は金沢市金石本町にある「銭屋五兵衛博物館」の全景である。
銭屋五兵衛(略称:銭五)は、1773年(安永2年)に加賀国宮腰(現・金沢市金石町; 犀川(さいがわ)の河口)に生まれた。
1811年(文化8年)、39歳の頃に、質流れとなった120石の古船を調達・修理して、米を運ぶことで最初の海運業に乗り出した。
それまで彼は、両替商や古着・呉服商を営んでいた。
全盛期には、北海道・青森までの全国34か所に支店を置き、大勢の支配人や手代(てだい)を勤務させていた。
彼は加賀藩の要職者と結びつきながら、北前船史上最大級の豪商に上り詰めたばかりでなく、加賀藩から諸役を仰せつかり、苗字帯刀
まで許された。彼が保有した船舶数は大小200隻といわれる。
[参考]手代: 主人に代わって仕事する者; 昔の商家で、番頭と丁稚との間にある奉公人。
他方で、河北潟(かほくがた)の水面を埋め立て農地にする計画を立て、1851年(嘉永4年)に着手した。だが工事は難航したという。
同潟に死魚が発生したり、それを食した漁民が中毒死したりした。いわゆる「河北潟事件」が起こり、五兵衛や三男の要蔵ら一族が、
潟への投毒疑いで、1852年(嘉永5年)に検挙・投獄された。彼は同年11月に80歳で牢獄死した。翌年には銭屋の家名は断絶、
家財は没収され、銭五財閥は消滅するに至った。
記念館では、銭屋五兵衛が北前型千石船の船主・豪商として歩むことになった生涯や「河北潟事件」の顛末などを紹介する。館内には
縮尺1/4の北前船の大型模型も展示される。
[参考]
・ [北前船の]下り(さがり):水押(みおし)(船首のこと)の最先端に下げる黒色の飾り。「髪(かみじ)」、「飾り」ともいう。
水主(かこ)=船乗り
表(おもて)=航海長
片表(かたおもて)=副航海長
親仁(おやじ)=水夫長
・ 買積み: 北前船の船頭は、各地の特産物を安値で買い付け、高値で売れる港で売りさばく。これが「買積み」という北前船
独特の商い法。特に船が難破し買い付けた特産物を失ったりした場合には、買い付けた船主や船頭は大損するリスクがある。
・ 金肥(きんぴ): 農民らが肥料として購入する魚粕や油粕のこと。農民はかつては自給肥料を田畑に投入していたところ、
窒素・燐・マグネシウムなどを投入すれば土地を肥やせることを知った農民は、自給できない肥料をイワシやニシンの海産物に求めた。
その海産物とはイワシ・ニシンの〆粕(しめかす)のことである。
[北陸紀行(敦賀、福井、三国「龍翔館」、瀬越「竹の浦館」、橋立「北前船の里資料館」、金沢市金石本町「銭屋五兵衛記念館」・
「銭五の館」、石川県かほく市白尾の「うみっこらんど七塚・海と船博物館」、大野・市立博物館、小松・市立博物館): 2021.10.14-17]
このページのトップに戻る
/Back to the Pagetop
|