「復原にあたって」と題する説明パネルには次のように記されている。
「遣唐使(けんとうし)の資料は公式記録として残っていますが、その往復に使用した「船」に関しては
ほとんど資料がなく、どの位の大きさかを示す数字は残っていません。
大きさを推定する手掛かりとして、奈良時代の資料に約600人を4隻の船で派遣したとの記録があります。船の大きさが
同じだったとすれば1隻あたり150人、航行中は何人かは起きているでしようから、約100人が寝るために必要な面積を
考えると、船の長さは25m~30m、幅は長さの1/3~1/4程度として7~10mとなります。この大きさであれば、
150人分の水と食料や荷物などを積むのに十分な容積でしよう。
遣唐使船として教科書などに出ている絵は、大部分が「吉備大臣入唐絵詞」(きびだいじんにっとうえことば)という
絵巻物の絵ですが、この遣唐使船を描いた最も古い絵巻物は、最後の遣唐使派遣から400年程あとになって描かれた絵です。
その頃には宋(そう)の商人が博多に来ていましたから、宋の船を参考に描いた可能性があります。
しかし、実際に唐に派遣されていた時代の船の資料はありませんから、確かな根拠もなしに見慣れた船と違う船を造るのは
避けて、「吉備大臣入唐絵詞」と同じに見えるような船を造ってあります。
初期の遣唐使船はともかく、奈良時代の遣唐使船は2本の帆柱(ほばしら)に網代帆(あじろほ)を上げていたのは間違いない
でしよう。なお「続日本紀」(しょくにほんぎ)に百済船(くだらせん)の建造の記録がありますので、当時の百済船は
優秀だったのでしようが、それがどんな船だったのかも、残念ながらこれも資料が残っていないのです。」
また、「遣唐使船の航海」と題する説明パネルには次のように記されている。
「初期の遣唐使船は朝鮮半島に沿って航海しましたが、奈良時代には九州から揚子江の北あたりに向けて直行しました。
磁石も海図もない時代ですから、星や太陽を見て走り、陸地が見えるとどのあたりかを判断し、目的地に向かうような
航海でした。
天気の予測も経験が頼りですから、途中で天候が急変して予想もしなかった所へ到着することもありますが、順調に走れば
ほぼ1週間で東シナ海を横断できました。奈良時代に九州を出航した18隻のうち14隻は帰国していますから、当時の
航海技術を考えると特に危険な航海であったとは言えないかもしれません。」
[2010.09.18 平城京歴史館/遣唐使船(復原)にて; 2010年4~11月に奈良・平城京跡会場にて「平城遷都1300年祭」が行われた]
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1. 遣唐使船甲板風景(船首から船尾方向をのぞむ)。右手前の屋形は「雑居部屋」。その後ろには後檣(後方の帆柱)と網代帆の一部が見える。
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2. 船尾のトランサム(船尾肋板)と舵板。 [拡大画像: x22740.jpg]
3. 遣唐使船の諸元。全長30m、全幅(ぜんぷく)9.6m、排水量300トン、積載荷重150トンと記されている。 [拡大画像: x22742.jpg]
4. 船首部と木石製の碇(いかり)。木製の錨幹に、同じく木製の錨爪がロープで固縛されている。錨幹には、錨爪とは直角方向に
石の棒が括り付けられている。 [拡大画像: x22741.jpg]
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