一枚の特選フォト⌈海 & 船⌋
⌈見沼通船堀⌋が開削された系譜や閘門式運河システムなどについて、その概略を取りまとめてみた。 見沼通船堀は、見沼代用水の⌈東縁⌋および⌈西縁⌋の2本の水路と、それら両水路の間を流れる芝川とを 東西に結びつけた、人工開削の運河である。 芝川の⌈水の道⌋は、下流方面にあっては荒川へとつながり、さらに江戸・東京湾へと通じた。芝川から上流方面へは、 運河である⌈見沼通船堀(東縁・西縁)⌋を経て見沼代用水の東縁・西縁へと繋がり、さらに利根川取水口へいたった。 ⌈見沼通船堀⌋についての概説 * 利根川から取水される見沼代用水は上尾市瓦葺 (かわらぶき) 辺りから東西に分かれ、見沼代用水⌈東縁⌋ (ひがしべり) ・ ⌈西縁⌋ (にしべり) となる。 これまで⌈見沼溜井⌋を造るための堤防であった⌈八丁堤⌋ (はっちょうづつみ) が切り開かれ、排水専用の水路 (悪水路と称される) が見沼の最も低いところに再開削された。そして、八丁堤より下流に位置する芝川へと繫げられ、 さらに荒川へと通じ、江戸・東京湾へと流れ下った。 かくして、見沼代用水東縁・西縁の間を流れ下る芝川は、排水路としての機能だけでなく、見沼田んぼと江戸とを結ぶ重要な通船路 としての機能をも担った。見沼代用水も同じく水路縁辺の村々を行き来するための通船路の機能を果たした。もちろん、後述の通り、舟運は、 見沼代用水周縁から通船堀の「水の階段」を経て芝川へ、さらに江戸へと通じた。その逆の舟運もしかりである。通船堀はわずか1㎞で 小規模なものであったが、代用水周縁部の村々と江戸との迅速、円滑な大量輸送を担った。 * 先ず、井澤弥惣兵衛為永 (いざわやそべえためなが) は、見沼新田開発の3年後、2つの東西用水路が最も至近距離になる、八丁堤の北側に 、東西用水路と芝川とを結ぶ運河を開削した。 これが、芝川を中央にはさんで、見沼代用水東縁・西縁とを結んだ、長さにして約1kmの⌈見沼通船堀⌋である。 (画像 a 参照) しかし、見沼代用水の東・西縁と芝川との間には約3mの水位差(高低差)があった。舟の行き来を可能にすべく、この水位差を調整し 克服するために、木製の枠で築造された閘門(⌈関⌋あるいは⌈堰⌋と称される)が設けられ、いわば⌈ 水の階段システム⌋が創られ、通船堀が開通した。1731年(享保16年)のことである。
* この閘門は、芝川をはさんで東西に2ヶ所ずつあり、それぞれ⌈一の関⌋、⌈二の関⌋の2つの閘門から
構成されている。(画像 b 参照)
② 舟の入室後、一の関において、⌈角落⌋ (かくおとし) と呼ばれる板 (長さ約3m、幅約18-20㎝) 8-10枚が木枠にはめ込まれる。 それによって、代用水東縁 (または西縁) から流れて来る川水が堰き止められる。すると、 閘室の水位が徐々に上昇し、舟も上昇する。 (二の関の角落板は開けられており、代用水東縁あるいは西縁から水がゆっくり流れて来て、 閘室の水位とその上流側のそれとがほぼ平衡する)。 ③ 舟が閘室を出て二の関を通過した後に、二の関の角落板が木枠にはめ込まれ閉じられる。すると、東縁 (または西縁) から流れ来る水によって、舟は徐々に上昇して行く。そして、舟の位置するところの水位と東縁 (または西縁) のそれとがほぼ平衡する にいたる。その後、舟は代用水東縁 (または西縁) に向けて移動できる。 (以上、画像 e, f 参照)
* このように、一の関と二の関の2つの閘門の開閉によって水位が調節され、舟は⌈水の階段⌋を昇り降りし、
代用水東縁または西縁と芝川との間を直接行き来し、物資輸送することができた。
[通船堀模型画像=2012.04.28 埼玉県立川の博物館にて][拡大画像: x24449.jpg] a ![]() a. 左下隅にJR武蔵野線東浦和駅。中央に芝川、その上下に見沼代用水東縁・西縁が流れる。芝川をはさんで代用水東縁・ 西縁を結んでいるのが見沼通船堀である。 [拡大画像: x24664.jpg][拡大画像: x24665.jpg][拡大画像: x24666.jpg]
b.
c.
e
f
* 一般論として、石と木で造る閘門では、当然ながらその大きさに限界がある。
コンクリート・鋼鉄、蒸気機関あるいは電気が存在しない場合、大きな高低差・幅員をもつ閘門を建設し、かつその水門を開閉させるのは
極めて困難であろう。パナマ運河建設では、コンクリート+鋼鉄、および電気の存在があっての閘門完成であったといえよう。
[拡大画像: x24621.jpg: 関の鳥居柱と角落板]
![]() [参考] 柴山の伏越(ふせこし)、瓦葺の掛渡井(かけとい)のしくみ 伏越では、見沼代用水は元荒川の下をトンネルでくぐって流された。掛渡井では、綾瀬川の上を水橋で流された。
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