海洋総合辞典 Comprehensive Ocean Dictionary, 特選フォト・ギャラリーPhoto Gallery, ペリー艦隊来航・蒸気船Kurobune, 伏木北前船資料館 Fushiki Kitamaebune Museum, 富山県Toyama-ken

一枚の特選フォト⌈海 & 船⌋


One Selected Photo "Oceans & Ships"

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米国ペリー艦隊の来航と「蒸気船の図」

「蒸気船の図」。その説明書きには以下のように記されている。
    「江戸末期頃、嘉永6年(1853)、ペリーが書翰(国書)を携えて浦賀(神奈川県)に来航し、同7年正月再び浦賀へ来、本牧横浜で、 幕府側と会ったことが記されている。 蒸気船(黒船と思われる軍艦)の大砲は、いつでも発射できるように準備されていた様子が見える。 日尾家文書」


  米国合衆国海軍の「シナおよび東インド洋」艦隊の軍艦4隻 (いわゆる「黒船4隻」) は、司令官M.C.ペリー准将に率いられて 1853年(嘉永6年)7月に浦賀沖に出現した。米国東部海岸の軍港ノーフォークを出発したのは、浦賀到着の約16か月も前であった。 これがいわゆる「黒船来航」である。
  ペリーは、合衆国大統領フィルモアの国書を携え、江戸幕府に「開国」(諸外国との通商貿易)を要求した。黒煙をあげる黒船、数十門の 大砲の轟音、乗艦した陸戦部隊の威圧などの状況の下、幕府は結局国書を受理し、回答は翌年行うとした。
  翌年1854年(安政1年)、ペリーは7隻(9隻?)の軍艦をもって再来航した。ペリーは横浜に上陸し、幕府との間で 「日米和親条約(神奈川条約)」を締結し、開国を受け入れさせた。同条約は12か条からなり、下田・函館2港の開港、米国艦船の 寄港と薪水(しんすい)補給の承認、下田における領事駐在の決定、いわゆる「最恵国待遇」の承認などを規定する。 そして、ほどなく同質の条約が、英国・オランダ・ロシアとの間で結ばれた。
  1856年(安政3年)に初代米国総領事として下田に着任したT.ハリスは、老練な外交官としての手腕をふるい、結果、幕府と わずか10日間ほどの交渉を経ただけで、1858年(安政5年)、ついに「日米修好通商条約」を結んだ。
  条約は14か条からなり、神奈川・函館・新潟・兵庫・長崎の5港開港、外国人居留地の設置、外国人の犯罪・訴訟については領事が 裁判権をもち (領事裁判権・治外法権の承認)、関税自主権の不承認、一方的な最恵国待遇規定の適用などである。 1858年中にほとんど同質の条約が英国・フランス・オランダ・ロシアと結ばれた (総称して、「安政5か国条約」といわれる)。

[2012.7.11 伏木北前船資料館にて][拡大画像: x24738.jpg][拡大画像: x24730.jpg][拡大画像: x24739.jpg: 説明書き]

 「北亜墨利加共和政治洲上宦眞像之写」
「寛永7年1852、寛永年間の寅年の仲春、(同7年、旧暦の2月10日で、今の3月8日) ペリー提督が本牧横浜に上陸し、 和親条約の締結交渉に臨むところを描いたと思われる。 日尾家文書」

  ペリー司令官を描いた一枚の絵である。ペリーを描いた絵はたくさんある。写真に写るペリーとそっくりな絵から、似ても 似つかぬ奇妙というほかない絵までいろいろである。当時この絵をどんな思いや立場で描いたものか知る由もないが、 この絵は、直接見たこともないほとんどの日本人に強烈な印象を与えたことであろう。天狗のような鼻高なこわもての形相をしたペリー像。 なぜこんな形相なのか。欧米列強諸国とどう向き合うべきか国論を二分していた状況下で、来るべくしてやって来たペリーによる開国要求、 その人物をこわもての顔に仕立てたとしても不思議はない。ペリーに似ている、似ていないの次元の問題でなかったかも、、、。 [拡大画像: x24740.jpg]


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