青山士とパナマ運河
・ 1878年・明治11年 青木士、生まれる。
・ 1903年・明治36年 東京帝国大学工学部土木工学科を卒業。同年、卒後すぐに、世紀の大土木工事であったパナマ運河建設工事に
関わりたいと単身アメリカへ向かう。
・ 1904年・明治37年 パナマ運河工事が開始される。青木、同年運河工事に着任する。測量技師の一人として採用されたもので、
以後熱帯ジャングルの中で測量任務に当たる。
2年余のジャングルでの測量任務後、測量主任としてガトゥン閘門とガトゥンダムの現場に配置される。同ダムの基礎崩壊事故発生後、
新たに設計するための主任設計技師として採用される。日露戦争の勃発の年でもある。
・ 1906年・明治39年 ガトゥンダム工事開始される。
・ 1911年・明治44年3月 ガトゥン閘門工事開始される。同年11月帰国の途に就く。
・ 1912年・明治45年1月 帰国する。
・ 1915年・大正13年 パナマ運河開通する。
青山士と荒川放水路
・ 帰国後、1912年・明治45年、内務省東京土木出張所に勤務。荒川改修に従事する。
・ 1915年・大正4年 荒川放水路の建設工事の中でも最重要かつ難関であった岩淵水門の工事主任となる。
* 荒川放水路を開削し、かつ荒川本流(その下流は隅田川となる)に水門を建設して、その本流の流れを荒川放水路へと導く
という大工事を完成したのが、この青山である。青山は当時の日本ではまだ実験段階であった鉄筋コンクリート工法を用いる設計を行い、
また川底を20mも掘り下げて開閉自在の水門を建設した。
* なお、東京駅丸の内駅舎建設に関し、1908年・明治41年にその基礎工事がスタート、1914年・大正3年12月に完成した。
駅舎設計を引き継いだ当時の日本建築界第一人者辰野金吾は、コンクリート工法の技術的実証はまだなされていないとの観点から
同工法を最終的には採用せず、鉄骨造り・レンガ積み上げ工法を採用した。積み上げたレンガは約837万個。
・ 1918年・大正7年 荒川改修事務所主任となり、荒川改修と放水路開削工事のすべてを任された。放水路の工事は延べ300万人以上の労働者が
従事した。
・ 1924年・大正13年 荒川放水路が完成し、通水式が挙行される。着工から完成まで19年の歳月を要す。
・ 1987年・昭和62年 旧岩淵水門は、その100m下流に建設された新岩淵水門に取って代わられた。
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1. 青山武士。 [拡大画像: x24784.jpg][拡大画像: x24453.jpg]
2. (左画像) 荒川放水路建設のため「掘った土を運ぶトロッコ」。 (右画像) 水路を掘るエクスカベーター
[拡大画像: x24785.jpg]
画像出典: 同上企画展。
辞典内関連サイト
・ パナマ運河 - 通航ルート拡大地形図 [埼玉県立川の博物館「世界の運河・日本の運河」
企画展]*
・ パナマ運河 - 運河拡張計画/第3閘門建設&節水槽
[同上企画展]*
・ ニカラグア運河建設計画
・ パナマの海洋博物館
*保存画像 [拡大画像: x24786.jpg: パネル全体]
[拡大画像: x24787.jpg: 荒川放水路の誕生「荒ぶる川荒川」][拡大画像: x24789.jpg: 荒川沿いの堤防と遊水地帯]、
[拡大画像: x24788.jpg: 「青山士による工事の指揮」]
[拡大画像: x24790.jpg & 拡大画像: x24791.jpg: 「明治43年の豪雨」]
「荒川放水路通水式記念写真(複製)」
A1
荒川・岩淵に水門が建設され、荒川の東側に東京湾まで通じる放水路が掘削された。放水路建設工事の指揮とったのは内務省の
青山士(あきら)技師であった。水門は大正13年・1924年に竣工し、昭和5年・1930年に東京湾まで通水した。
画像A1は「荒川放水路通水式記念写真(複製)」と題され、荒川放水路通水式(大正13年10月12日)に記念碑を運んで荒川下流
改修事務所職員と作業員全員で撮られた記念写真である。最前列中央右に長女と並んでいるのが青山技師である(最前列右から
5人目に子どもが、その左に青木が写る)。 [拡大画像: x29118.jpg][撮影日時・出典: 2022.5.15/
東京・北区飛鳥山博物館にて]
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