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一枚の特選フォト「海 & 船」

One Selected Photo "Oceans & Ships"

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    「いろは丸展示館」 & 「鞆の浦歴史民族資料館」
    Iroha-Maru Museum & Tomonoura Museum of History and Folklore


    [拡大画像(x23019.jpg)]




    いろは丸展示館

    坂本龍馬と海援隊士が乗り組んだ機帆船「いろは丸」と紀州藩の軍艦とが、慶応3年(1867年)、鞆の南東海域(六島沖)で衝突 し、
    いろは丸が曳航される途上において宇治島沖で沈没した。
    「いろは丸展示館」には、海底から引き揚げられた積荷、船具などの遺品、沈没・海底発掘調査の状況を模したジオラマ風の 展示されている。

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    2. 白壁の土蔵造りの館が「いろは丸展示館」。「雁木」(がんぎ)と呼ばれる、階段状の船荷の積み降ろし施設。  [拡大画像(x22910.jpg)]
    3. 「いろは丸展示館」のすぐ側に建つ「常夜燈」。灯篭燈(とうろどう)と呼ばれる江戸時代の灯台である。夜間船の港への 入りを導く灯台、あるいは導灯の役目を果たす。海中の基礎の上から宝珠まで11mの高さがある。港の常夜燈としては 日本最大である。鞆のシンボルでありランドマークでもある。 [拡大画像(x22911.jpg)]


    いろは丸&海底発掘調査

    いろは丸の海底発掘調査の説明パネルには次のように記されている。
    いろは丸展示館:幕末開国派の志士・土佐藩浪人坂本竜馬の乗るいろは丸は、1867年4月23日夜半、紀州藩船・明光丸 と六島付近で衝突、損傷したため鞆港へ曳航中、宇治島沖で沈没しました。竜馬と海援隊は鞆港へ上陸、竜馬は升屋清右衛門 宅に宿泊しました。いろは丸沈没状況のパノラマ、水中からの引き揚げ物、升屋における竜馬の隠れ部屋等が再現され展示されています。」

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    1. いろは丸の沈没・海底発掘調査のジオラマ的展示。 [拡大画像(x22882.jpg)][拡大画像(x23009.jpg)][拡大画像(x23012.jpg)]
    2. いろは丸の模型。 [拡大画像(x22883.jpg)][拡大画像(x23013.jpg)]

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    3. いろは丸と明光丸との衝突直後の状況を想像して描いた図 [出典:新・歴史群像シリーズ4「維新創世 坂本龍馬」 (学習研究社)掲載。監修:中山善照、イラストレーション:谷井健三]
    展示館では衝突事故について次のように記している。
    [拡大画像(x22884.jpg)][拡大画像(x23016.jpg)][拡大画像(x23017.jpg)]

    「いろは丸事件」
    慶応3年(1867年)4月23日深夜、坂本龍馬が率いる海援隊らが乗った蒸気船「いろは丸」は、瀬戸内海 六島沖で紀州藩の蒸気船「明光丸」と衝突し、夜明け前に宇治島沖で沈没した。これは日本で初めての蒸気船同士による 衝突事故であった。紀州藩は「円福寺」、いろは丸側は「桝屋清右衛門宅」(升屋宅)を宿とし、「魚屋萬蔵宅」などを談判所 とした。事故の責任を巡る談判は平行線をたどり 決着せず4月27日交渉決裂となり、交渉の場を長崎に移した。その後龍馬は、万国公法に基づいて10月19日紀州藩からの 7万両の賠償金で和解した。 この快挙によって龍馬と海援隊の名は一躍世間に知れ渡った。徳川御三家の一つ紀州藩を相手にいささかもひるむことなく交渉 し、龍馬の名を上げた「いろは丸事件」はまさしくこの鞆の浦で幕を開けた。だが、その1か月後、坂本龍馬は同年11月15日 京都近江屋にて暗殺された。

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    4. いろは丸の沈没状況を示す粘土板。 [拡大画像(x22885.jpg)][拡大画像(x22887.jpg)]
    5. いろは丸の沈没状況図。なお、沈没のジオラマ的展示の縮尺は70/100。 [拡大画像(x22886.jpg)]

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    6. 「坂本竜馬ら海援隊乗せ沈没、これがいろは丸の一部、鉄棒3本引き揚げ」と題する昭和63年9月10日づけの産経 新聞等。 [拡大画像(x22917.jpg)]
    7. デッドアイ、ビレイピン(止索栓)、滑車の金具など、いろは丸沈没地点から回収された船のパーツ・備品。 [拡大画像(x23010.jpg)]
    8. 回収された古伊万里焼陶器などの積荷。 [拡大画像(x23011.jpg)]



    沈没原因などの究明

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    1. [拡大画像(x22888.jpg)]
    2. [拡大画像(x22889.jpg):「発見から衝突に至る操舵と航路」][拡大画像(x22890.jpg)]
    ・ [拡大画像(x22891.jpg):「いろは丸事件とは」]
    ・ [拡大画像(x22904.jpg):「いろは丸の航路検証」]
    ・ [拡大画像(x22905.jpg)」「船の舷側燈と国際航法」、「緊急状況判断を誤った?明光丸」]
    ・ [拡大画像(x22906.jpg):「衝突! 双方針路記録の食い違い」]
    ・ [拡大画像(x22907.jpg):「明光丸は再度いろは丸に衝突した」、「いろは丸に舷側燈はなかったのか?」]
    ・ [拡大画像(x22908.jpg):「付・舷側燈について」]


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    3. 「いろは丸事件とは」と題する説明パネルには次のように記されている。

    「慶応3年(1867年)4月23日霧の深い夜、瀬戸内海の四国寄りほぼ真ん中 あたりで二隻の蒸気帆船が衝突、一隻が大破し、のち沈没した。
    沈んだ船は「いろは丸」といい、坂本竜馬と海援隊(亀山社中)が乗り組んでいた。いろは丸は海援隊所有の船では なく、四国の大洲(おおず)藩籍だが、竜馬が一航海15日限り500両で借りていた。一方の蒸気船は幕府側の大藩、紀州の 蒸気船「明光丸」だった。
    いろは丸はすぐには沈まず、明光丸に曳航されて鞆津(とものつ・現広島県福山市鞆町)へ向かう途中、宇治島の南方 海域で浸水激しく、ついに沈没した。
    両船一行は明け方鞆津へ上陸、損害賠償談判がはじまった。後日、交渉は長崎に舞台を移し、土佐の後藤象二郎も竜馬に 加勢、ついに竜馬側の言い分が通り、紀州藩は8万3000両という大金を支払うこととなった。(後7万両に減額)
    この海難事故が、賠償交渉をふくめて「いろは丸事件」と呼ばれている。」
    [拡大画像(x22891.jpg):説明書き]

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    4. [拡大画像(x22901.jpg):「いろは丸とは?」]
    ・ [拡大画像(x22902.jpg):「いろは丸はスクリュー船か?」]
    ・ [拡大画像(x22903.jpg):「海援隊とは」]
    ・ [拡大画像(x23024.jpg):鞆の地に唐船沈没伝承があった」]
    5. いろは丸事件談判跡。 [拡大画像(x23018.jpg)]


    龍馬

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    1. 龍馬のポスター。龍馬がその右手を懐にしたこの有名な写真は、日本で初めての商業写真家として著名な上野彦馬 (ひこま)の撮影局(長崎・中島川河畔にあった)にて、龍馬が数えで32歳の慶応2年(1966年)に撮影されたと考えられている  (出典:「ジパング倶楽部」、2010年6月号、9頁、交通新聞社発行)。 [拡大画像(x23014.jpg)]
    2. 龍馬と妻・お龍(晩年)の姿。 [拡大画像(x23015.jpg)]
    3. 坂本龍馬のつくった海援隊(貿易商社のこと)が出帆した「和英通韻以呂波便覧」の中の日本の磁石図  [拡大画像(x23023.jpg)]
    [参考]「和英通韻以呂波便覧」
    http://www.kufs.ac.jp/toshokan/gallery/data23.htm



    福山市鞆の浦歴史民族資料館

    鞆の港を一望する鞆城跡に建つ。古来潮待ちの港として栄えた鞆の歴史資料(例えば、朝鮮通信使や幕末の歴史資料)、漁業 などの産業、祭りなどの民族資料を展示する。漁業で言えば、鯛網船団漁法の模型、弁才船の模型、北前船の絵馬、漁法の イラストのほか、各種沈子・漁網・魚籠などが展示されている。

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    1. 入場券。鞆港の風景が描かれ、「引き札(版画)明治初期」と記されている。 [拡大画像(x22912.jpg)]
    2. [拡大画像(x22913.jpg)]


    鯛網船団漁法の模型など

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    1. 鯛網船団漁法の模型。 [拡大画像(x22914.jpg)]
    2. 同上。 [拡大画像(x22915.jpg)]
    3. 弁才船模型。 [拡大画像(x22916.jpg)]


    鞆の浦の風景


    [拡大画像(x22892.jpg)][拡大画像(x22893.jpg)][拡大画像(x22894.jpg)]


    鞆の浦

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    1. 常夜燈。白壁の土蔵造りの館は「いろは丸展示館」。 [拡大画像(x22879.jpg)]
    2. 常夜燈。 [拡大画像(x22880.jpg)]
    3. [拡大画像(x22881.jpg)]
    4. 雁木(がんぎ)。名所案内板には「古くから潮待ちの港として栄えた鞆の浦には、船着場としての雁木が 造られてきました。記録では、江戸時代初期に福島正則の家老大崎玄蕃が造ったというのが最初のようです。
    現在残っているのは、常夜灯が有るここ「浜の大雁木」のみです。この雁木は、1811(文化8)年に造られたもので、保命酒 浜大雁木とも呼ばれています。常夜灯と一体となったこの雁木は、鞆の港の旧観をよく保っています。」と記されている。  [拡大画像(x22895.jpg)]
    5. 雁木のある風景。 [拡大画像(x22896.jpg)]

    6 6. 船番所跡(ふなばんしょあと)。 [拡大画像(x22897.jpg)]

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    7. 焚場(たでば)。 [拡大画像(x22898.jpg)]
    8. 実際の焚場風景。 [拡大画像(x22899.jpg)]
    9. [拡大画像(x22900.jpg)]

    2010.09.19・鞆の浦にて

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