「トルコ記念館」内の小窓から、古くから海の難所として知られる遭難現場の「船甲羅」を間近に臨むことができる。
オスマントルコ帝国(現トルコ共和国)からの最初の親善使節が、同国海軍のフリゲート艦「エルトゥールル号」にて派遣された。
その帰路、紀伊大島の樫野埼沖を航行中であった同艦は、通過中の台風のために、操船の自由を失い岩礁に激突して破艦した。使節団長
のオスマン・パシャ以下587名が落命し、生存者はわずか69名という大惨事となった。1890年(明治23年)9月16日のことである。
地元の県・郡・村が一体となり、生存者の探索、遺体・遺品の回収などに当たった。
当時の大島島民は全村挙げて献身的に生存者の救助活動や介護、殉職者の遺体の捜索・引き上げ、村民の食料・衣類などの生存者
への提供などがなされた。遺体は遭難現場を眼下に見下ろす高台の地に埋葬された。69名の生存者は
旧日本帝国海軍の軍艦「比叡」、「金剛」の2隻でトルコ・イスタンブールへと移送された。
[撮影年月日:2024.09.05/撮影場所&出典: 「エルトゥールル号」海難事故のあった樫野埼に建つ「トルコ記念館」および岩礁「船甲羅」]