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一枚の特選フォト「海 & 船」

One Selected Photo "Oceans & Ships"

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    オスマン帝国軍艦「エルトゥールル号」の海難事故現場の岩礁「船甲羅(ふなごうら)

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    同号が座礁した岩礁「船甲羅」は中央左寄りの最先端の岩である(画像5参照)。

    5 指示された岩が「船甲羅」である。

    6 海難事故を描写する絵画

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    海難事故のあった紀伊大島の海図。最右端に樫野埼がある。最左下端にあるのが本土本州の串本の岬(東端の一部)である。 現在は串本と大島は橋で結ばれる。 英国海図第356号を基に、英国艦船が測量した成果を加えて、当時の帝国海軍部水路局(海上保安庁海洋情報部の前進)が調整しつつ 明治21年12月に刊行した「海図第212号 日本本州南岸 紀伊諸港」である。 [海図に関する説明書き: 拡大画像: x29379.jpg]

    「トルコ記念館」内の小窓から、古くから海の難所として知られる遭難現場の「船甲羅(ふなごうら)」を間近に臨むことができる。

    オスマントルコ帝国(現トルコ共和国)からの最初の親善使節が、同国海軍のフリゲート艦「エルトゥールル号」にて派遣された。 その帰路、紀伊大島の樫野埼沖を航行中であった同艦は、通過中の台風のために、操船の自由を失い岩礁に激突して破艦した。使節団長 のオスマン・パシャ以下587名が落命し、生存者はわずか69名という大惨事となった。1890年(明治23年)9月16日のことである。

    地元の県・郡・村が一体となり、生存者の探索、遺体・遺品の回収などに当たった。 当時の大島島民は全村挙げて献身的に生存者の救助活動や介護、殉職者の遺体の捜索・引き上げ、村民の食料・衣類などの生存者 への提供などがなされた。遺体は遭難現場を眼下に見下ろす高台の地に埋葬された。69名の生存者は 旧日本帝国海軍の軍艦「比叡」、「金剛」の2隻でトルコ・イスタンブールへと移送された。

    [撮影年月日:2024.09.05/撮影場所&出典: 「エルトゥールル号」海難事故のあった樫野埼に建つ「トルコ記念館」および岩礁「船甲羅」]


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