|
画像1は、太地町の役場や漁業協同組合から道なりに燈明崎方面に数百メートル進んだ、
太地漁港を見下ろす街道脇に建立された「漂流人紀念碑」である。太地町教育委員会によって立てられた同紀念碑に関する広報掲示板
によれば、次のように記されている。
明治11年(1878)12月24日、子連れのセミクジラを追って沖へ出た太地鯨方船団は悪天候のため遭難し、出漁者の大半となる
百名以上が帰らぬ人となった。
燈明崎山見の責任者であった和田金右衛門頼芳が残した「背美流れの控え」には、生還者が報告した事故の顛末が記されている。
それによると、船団は出漁の翌日朝にはクジラを捕まえることに成功した。しかしずいぶん沖合に流されたので、陸に
戻るのに時間を要した。夕方にはクジラも捨て、懸命に陸を目指した。夜に入って西風が強くなり、夜が明けると山も見えないほど
沖に流されていた。各舟を繫いだが、強風のため綱は切れ、多くの舟は漂流して行方不明になった。
なお、同掲示板には、「背美流れの控え」のうちの24日から26日にかけての鯨取りや遭難時の状況などについての記録
(現代語抄訳)も添えられている。
2
紀念碑付近から見下ろした太地漁港。
[撮影年月日:2024.09.06/場所: 太地町の役場や漁業協同組合の前の街道を道なりに燈明崎方面に数百メートルに進んだ道路脇]
[拡大画像: x29371.jpg: 「漂流人紀念碑」に関する広報掲示板]
|