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一枚の特選フォト「海 & 船」

One Selected Photo "Oceans & Ships"

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    「ジョン万次郎物語」(中ノ浜の防波堤壁面に並べられた15コマ図絵) × ジョン万次郎関連略史

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    ジョン万次郎の生誕地である「中ノ浜」地区の防波堤には、彼が辿った数奇な人生物語を描いた紙芝居風パネル が壁面に貼り付けられている。平成20年11月に「中浜万次郎物語」と題して設置された15コマのイメージ図絵パネルである。 漁協中浜地区組合、中浜船主組合らの多くの関係者が協力して製作したものである。そのうちの3枚をここに紹介する。

    15枚のパネルにはそれぞれ次のようなキャプションが添えられている。
    ・ 万次郎は文政10年(1827)に中ノ浜谷前に生まれた母を助け14才の時足摺沖で初漁中。
    ・ 天保12年(1841)2月足摺沖で遭難。
    ・ 天保12年(1841)2月 7日間漂流し九死に一生を得て南海孤島(鳥島)(伊豆七島)に5名が漂着。
    ・ 143日間の無人島での生活 海草海鳥を食べて生きながらえる。天保12年(1841)5月。
    ・ 天保12年(1841)6月 米国捕鯨船に救助されホイットフィールド船長の保護を受ける。
    ・ 救助されたジョンホーランド号で万次郎たちの新しい生活が始まる。船頭筆之烝38才、漁労係重助25才、 櫓係五右衛門16才、櫓係寅右衛門26才。
    ・ 天保13年(1842)仲間とはホノルルで別れ万次郎一人捕鯨船員として太平洋へ乗り出す。ジョン・マン の愛称で呼ばれる。捕鯨船の見張り台で鯨を見つける。
    ・ 天保13(1842)5月 船長ホイットフィールドと万次郎。
    ・ 天保12年~嘉永3年(1841~1850) 10年間ジョン万と呼ばれて米国本土での小等中等教育を受け 英語数学航海造船等高度な学問を習得し捕鯨船の一等航海士副船長として七つの海を航海し大活躍した。
    ・ 嘉永3年(1850)一度日本のカツオ船に英語で話したが言葉が通じない一度船帰る。嘉永4年(1851) 沖縄本島(琉球国薩文仁間切小渡浜)に上陸。
    ・ 嘉永3年(1850)8月ニューベッドフォードの港に戻る。23才になったジョン万。
    ・ 嘉永3年(1850)12月 ハワイにいる仲間と日本へ帰るため話し合いをする。
    ・ 嘉永5年(1852)11年10ヶ月ぶりに感激にむせぶ母との再会。中ノ浜に帰りお母さんと万次郎も胸が いっぱいで何も言うことができずただただ涙を浮かべるばかりでした。<
    ・ 明治3年(1870)万次郎が43才のときにフェアヘイブンをおとずれホイットフィールド船長も奥さんも 自分の子が帰ってきたようにジョン万をむかえてくれました。
    ・ 万次郎は日本で初めて大学で英語の先生となり若い人たちに新しい考えかたをおしえていきました。そして 明治31年11月12日71才の生涯を終えた。


    さらに、「中浜万次郎の出番と活躍」と題するパネルには次のような出来事や社会的活躍が列挙される。
    ・ 漂巽紀畧、土佐藩での吉田東洋、後藤象二郎、岩崎弥太郎、絵師河田小龍との出会い。
    ・ 士分から、浮雲急を告げる江戸幕府の直参旗本へ登用(嘉永6年11月5日付)。
    ・ 中浜万次郎信志を名のる。
    ・ 日本人の手による最初の航海学書(新アメリカ実用的航海士必携)の翻訳。
    ・ 開国日本の大船航海時代の幕開け(嘉永6年9月大船建造禁止令解除)。
    ・ 「咸臨丸は行く!!」その乗組員(勝海舟・福沢諭吉等総勢96名)のために英会話書(英米対話捷径)を編集、 日本人最初の英語教師。
    ・ ミシンを日本に最初に輸入(母への土産として)アメリカの機械革命の一端を江戸に伝える。
    ・ 明治政府の命を受け、開成学校(現東京大学)の中博士(教授)として最高学府の教壇に立つ。



    [参考資料] ジョン万次郎関連略史
    「ジョン万次郎が生きた時代」と題する、防波堤壁面に設置された複数枚の別パネルには次のようなジョン万関連略史が綴られている。

    1827年 土佐の国中浜村谷前の漁師、悦助・汐の次男として生まれる。
    1840年 13才 9歳の時父死亡、10才で中浜浦老役、今津嘉平宅の下働きに出る。
    1841年 14才 足摺岬沖でアジサバ漁中に漂流九死に一生を得て、南海の孤島(鳥島)に漂着、 わずかな留水と海草、海鳥を食して143日間も生きながらえる。
    15才 米国捕鯨船ジョン・ハウランド号に救助されホイットフィールド船長の保護を受ける。
    1842年 16才 漂流仲間と別れ、万次郎一人捕鯨船員として太平洋に乗り出す。
    1843年 16才~1846年 18才 船長の故郷フェアヘーブンに帰港、オックスフォード校(初級)バーレット専門 学校(上級)で英語、数学、測量、航海、造船等の教育を受ける。
    1846年 19才~1849年 22才 米国一流の捕鯨船フランクリン号の航海士として乗船七つの海をかけ巡る。ホノルルにも立ち寄り 仲間と再会。1848年7月一等航海士副船長となる。
    1850年 23才 カリフォルニアのサクラメントの金山で帰国資金を作る。
    1851年 24才 沖縄本島(琉球国摩文仁間切小渡浜)に上陸。
    1852年 25才 土佐藩主内山豊信公の命により、吉田東洋から70日の取り調べを受ける。
    1852年 25才 絵師、河田小龍宅に寄宿。2年後19才の坂本龍馬が河田小龍をたずね、世界情勢について啓発 される。実に11年10ヶ月ぶりに母汐との再会がかなう(わずか5日間)。「教授館」で後藤象二郎、岩崎 弥太郎などが直接指導を受けている。
    1853年 26才 幕府直参となり中浜万次郎を名のる。
    1855年 28才 わが国最初の航海学書・年表(アメリカ合衆国航海学書)を筆書、安政6年に英会話書(英米 対話捷径)を編集。  注:捷径(しょうけい)
    1857年 30才 西洋型帆船を伊豆で建造直接指導に当たる。安政4年4月、軍艦教授所教授を拝任。安政4年10月、 捕鯨術教授のため箱館へ出発(箱館奉行所与力次席)。
    1860年 33才 批准使節団の一員として、「咸臨丸」に乗り込む。館長勝海舟、教授方通弁主務中浜万次郎 他総勢96名、福沢諭吉(当時26才)も同行し、ウェブスターの英語辞書を購入したエピソードは有名である。
    1861年 34才~35才 小笠原諸島(父島、母島)の調査と図面作りをする。
    1864年 37才 文久2年7月(1862)妻鉄病死。
    1866年 39才 薩摩藩の開成所教授となり、航海、造船、測量、英語を教授する。土佐藩主山内容堂公の依頼で 後藤象二郎等を藩校「開成館」の設立に寄与する。
    1869年 42才 明治政府の命を受け開成学校(現東京大学)の徴士(二等教授)となり明治3年中博士(教授)となり 最高学府の教壇に立つ。
    1871年 44才~1898年 71才 波乱万丈の半生に比べて誠に静かな晩年を送り長男中浜東一郎医博宅で71才の生涯を終える。

    [撮影年月日:2024.11.12/場所: 高知県土佐清水市中ノ浜地区にて]


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