今回鳥羽・志摩を訪れたのには幾つかの目的があった。志摩には日本として誇れる「海の博物館」がある。再訪して、積み残しとなっていた
展示品の写真を撮ることであった。最近知ることになった九鬼海賊衆とその将・九鬼嘉隆らが建造したという鉄甲船の模型を探すこと、
また海女のことを学ぶことができる資料館を訪問すること、さらに大王埼や安乗埼灯台などを仰ぎ見ることであった。
また、「海城」といわれる鳥羽城跡も訪ねたかった。出来得れば今回は鳥羽商船高等専門学校のキャンパスに足を一歩踏み入れ、展示・
資料館のようなものを見学し、一枚の人物写真を見つけ切り撮ることを願っていた。
実は小学生5、6年生の少年時代の頃から、外国航路船の船乗りになることを真に憧れていた。その頃、新聞では巨大な航洋船が洋上航海中に
船体中央部から真っ二つに折れて沈没するという海難事故が相次ぎ、世間を大いに賑わせていた。何万トンもの積載量をもつ貨物船が
どうしていとも簡単に折れてしまうのか不思議でたまらなかった。思い切って神戸商船大学学長宛てに(昭和35年当時は学長は小谷信一氏
であった)、恥ずかしげもなく当該疑問の解を求めて手紙をしたためた。幸いにして優しくも、12歳の小学6年の少年の私に手書きの分かりやすい
図を添えてのお返事を頂戴した。
それが縁となり17、8歳の頃まで文通を重ね、また時に大学へお邪魔したりもしていたが、憧れであった神戸商船大学への進学や航海士への
夢は叶うことはなかった。他方、青少年の頃(父親は小学6年の時には他界していた)にあっては心の支えとしていた小谷学長は
定年退官され、鳥羽商船高等学校へ校長として赴任された。その後一度もお目にかかることはなく、他界されたことをずっと後で知る
ことになった。それから50年ほどの月日があっと言う間に経ってしまっていた。
私は退職後2度鳥羽の市街に足を踏み入れていたが、いずれも同校を横目に素通りしていた。今回三度目の正直、学び舎と実習船停泊桟橋
をまたもや素通りするのは忍び難く思い、学務室のドアをノックすることにした。同校の資料館を訪問すれば小谷校長の肖像写真など
に遭遇できるのではないかと、無理をお願いして館内を案内してもらった。年代物の小型船舶機関の実物や船舶模型など数多く
展示されていた。だが、残念ながら歴代の校長先生の写真にはお目に掛かれなかった(なお、写真撮影は遠慮願いたいとのことであったので、
内部写真の様子をご紹介することはできない)。
[撮影年月日:2025.08.02/場所: 鳥羽商船高等専門学校にて/創立百周年記念館訪問・艇庫および実習船桟橋を遠望する]