JR参宮線・近鉄鳥羽線の「鳥羽駅」から海側または陸側に下り、線路沿いに150メートルほど南へ歩くと、鉄道を横切るアンダーパス
(地下道)がある。その地下道内の壁面に、鳥羽城を築いた海賊衆の将・九鬼嘉隆(くきよしたか)の生誕から信長との出会い、さらに鉄甲軍船
の建造、嘉隆の終焉に至るまでの略史とともに、幾つかの図絵などが描かれている。
画像1、2はその一部である。そして、下記は略史や史語注釈などを現代訳にて要約したものである。
略史/歴史の流れ
1.九鬼嘉隆誕生:
志摩国渡切砦(なきりとりで)で生まれる。九鬼海賊の8代目となる。後に日本最強の水軍を作る。
鳥羽城を築造し鳥羽志摩を治めた。
2.九鬼海賊の転機:
紀伊国熊野発祥の九鬼海賊は波切から鳥羽へと勢力を拡大していたが、
志摩国には大勢の強い海賊衆がいた。若くして父と兄が亡くなり、18歳の嘉隆が率いる九鬼海賊は海賊衆に国を追われた。
3.信長との出会い:
嘉隆たちは伊勢湾を渡り、熱田神宮へ武運を祈願しに出掛けた。港に珍しい
軍船が来たと大騒ぎとなった。船上に大きな箱型の櫓がある安宅(あたけ)船の噂を聞きつけてやってきた
織田信長に嘉隆はすぐさま気に入られたという。そして、暫くは船で物資を輸送したり、戦いの手伝いをしながら鉄砲技術や
戦法を学んだ。
4.天下無敵の鉄甲船:
織田信長の命により、嘉隆は鉄甲船と呼ばれる新式の軍船を建造した。
最新の大砲を備え 焙烙(ほうろく)火矢をもろともしない鉄板を張り巡らせた大きな安宅船である。
5.木津川口の戦い:
織田信長による大坂石山本願寺攻めで、瀬戸内海の覇権を握る毛利水軍と戦った。
小型軍船600隻に対し、嘉隆率いる織田水軍は鉄甲船7隻で挑み、結果圧勝した。その戦功として
嘉隆は36歳にして志摩国の大名となった。
[注]木津川: 大阪平野を流れ大阪湾に注ぎ出る河川の一つ。
6.巨大軍船「日本丸」:
織田信長亡き後、嘉隆は豊臣秀吉に仕えた。秀吉の命により
巨大で豪華な軍船を建造した。「日本丸」は朝鮮へ出陣、日本水軍大将・嘉隆は李舜臣(りしゅんしん)が率いる朝鮮水軍と交戦した。
7.鳥羽城完成: 築城を始めて9年を経て、嘉隆52歳の頃に、海に面する小高い山の上に四方を海に囲まれた海城・鳥羽城を築造した。
8.海賊大名の最期: 嘉隆は息子の守隆に家督を譲り隠居した。そして、間もなくして関ヶ原の戦いが始まった。
守隆は徳川家康方の東軍に、嘉隆は石田三成方の西軍についた。九鬼家を存続させるために親子での戦いを選んだ
とされる。東軍勝利の報を受けた嘉隆は答志島(とうしじま)へ逃れた。守隆は家康に父の助命を願い出たが、
その想いは届かなかった。
9.戦国時代を生きた嘉隆は今は答志島の山中に眠る。
10.九鬼水軍の終息: 守隆の死後家督争いが起こった。幕府の仲裁が入り、九鬼家は志摩国を
追放され、三田藩(兵庫県)と綾部藩(京都府)とに分かれた。かくして、九鬼家は海を奪われ水軍と
としての役目も歴史も終えるに至った。
11.廃藩置県の後、綾部九鬼家は代々熊野神社の宮司を務め、三田九鬼家は福沢諭吉の助言もあって神戸へ移住した。
14代隆義は家老白洲退蔵、小寺泰次郎と共に貿易会社志摩三商会を設立し、神戸の町づくりや政治で活躍した。
[参考: その他の略史]
1542年、徳川家康誕生
1543年、鉄砲伝来
1560年、桶狭間の戦い
1576年、織田信長・安土城築造
1582年、本能寺の変・織田信長死去
1583年、豊臣秀吉・大阪城築城
1588年、海賊禁止令発布
1598年、秀吉死去
1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦い
1603年、家康、江戸幕府開設
1868年、明治維新
史語注釈
「日本丸」
全長111尺5寸(約34メートル)、全幅39尺(約12メートル)、1500石(225トン)積みの大きな安宅船であった。
鎧張りの外板。船首には大きな龍の施されていた。100挺(ちょう)の艪(ろ)で進み、順風の時には展帆した。
大砲3門と数十挺の長銃を備え、上甲板には座敷が3室。その上の天守高楼(こうろう)は螺鈿(らでん)
の髙欄(こうらん)。金の麒麟(きりん)が描かれた板戸など、室内も豪華に彩られていた。
下甲板は水主(かこ)衆の部屋と倉庫、浴室、炊事場があった。古くから造船で栄えた伊勢の港町大湊(おおみなと)で
「鬼宿丸(きしゅくまる)」は建造された。豊臣秀吉はその立派な出来栄えに「日本丸」と名を改めさせた。
朝鮮出兵で活躍した後は、鳥羽藩により縮小され、約260年にわたり保存されていた。
「志摩の海賊衆」
古くより志摩国(鳥羽市・志摩市)にはその各地に海賊衆が生活していた。中でも地頭(じとう)と呼ばれる有力な者は13人。
九鬼家は一度この地頭衆に追い出されてしまった。それから8年を経た後に、九鬼嘉隆は織田水軍の大将になって国へ帰ってきた。
地頭衆を団結させ大きな水軍を作ろうとしたが、従う者はいなかった。そして、戦となるが、嘉隆は次々と勝利して
志摩国を治めるに至った。
[撮影年月日:2025.8.1/場所: 鳥羽駅南寄りの鉄道アンダーパスの「九鬼水軍ヒストリートンネル」にて]