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人生そのものが冒険に違いない。アドベンチャーの世界である。幸運や悲運の出来事、成就しえたことや為し得なかったことなどで 満ち満ちている。最後に「人生航路」の歩みをざっくりと総括してみたい。

  物心ついた頃に虜になった夢は船乗りになることであった。その夢を実現しようと神戸商船大学への進学を志したが、受験の土壇 場で叶わなかった。視力不足などを見逃してくれるはずもなかった。航海士として世界の諸港で異文化と触れ合うという夢はもろくも崩れ 去ってしまった。

  普通の大学に進学し、すっかり海から遠ざかった。大学での部活として、山歩きに没頭するようになった。大学三年生の後期末に雪山で 合宿をしていた。下山すれば就職活動の号砲が鳴り響くはずであった。その雪山テントの下で寝袋に潜り込んだ私は、その先の進路に悩んで 頭は冴えて寝つけなかった。その時、国連の法務官への奉職を閃いた。国際社会のために何がしか役に立つ仕事に就くことを決意した。 その数ヶ月前に、単行本の岩波新書で明石国連事務次長著の「国際連合」を読んでいたのだが、それがふと脳裏に去来したことが大きかった。

  自身の進むべき道は決まった。迷いは完全に払拭された。大学院に進むこと、そこで国際法を中心に学び直すことを決心した。

  さらに、留学をも視野に入れて、その実現に向かって挑戦することにした。カナダで、当時最も関心を抱いていた国連平和維持軍の研究 をすることにした。カナダのトルード首相はその当時平和維持軍の熱心な主導者であった。修士課程の修了年の夏頃には渡加の途に就きたかった が、第一希望の大学からの合格通知は待てど暮らせど来なかった。

  かくして、院修了後「留学受験浪人」となってぶらぶらする訳にも行かず、院に特別研究生として一年間在籍し、国際法のゼミに 参加できる手続きを取った。人生の回り道としか思えなかったが、セカンド・ベストの選択であった。昨年までのゼミ担当教授は定年退職 され、取って代わって竹本教授になっていた。

  折りしも第三次国連海洋法会議が1970年代初めより開催され、世界諸国が「海の憲法」づくりに向き合っていた。ゼミの研究テーマ として新海洋法条約草案に資するための各国提案が扱われた。そこで初めて真剣に海洋法条約案に向き合った。留学は先送りとなり、人生の回り道、 遠回りに身を置いた。だが、後にそれは回り道ではなく、海に回帰する入り口であったことが分かった。

  商船大学受験が叶わず航海士への夢を諦めて以来、海に回帰し、海に関わることに立ち戻るわずかな兆しをえた。だが、その当時そんな 認識はほとんどなく、先々のことは何も見通せていなかった。後で振り返れば、それが海への回帰のはしり、きっかけ、あるいは起点と なったことを知ることになった。

  カナダ留学の展望が開けず、米国の大学にも応募することにした。それが米国北西海岸にある港町シアトルのワシントン大学であった。 既に願書と3通の推薦文を提出して、合格通知を待ち焦がれていた。

  その頃、大学院のキャンパスでタブロイド版の学内新聞を拾い読みしていたところ、偶然にもある記事が目に留まった。母校の 先輩がNY国連本部で法務官として活躍されていることを紹介する記事であった。余りの偶然に鳥肌が立った。記事を何度も読み返し、 どうすべきか思案した。

  記事に大いに刺激され、迷わずレターをしたためることにした。国連事務局での内部事情や仕事のことについて何でも生の情報や 助言を得ようとした。そして、幸運にも、今度一時帰国するので会う機会があるかもしれないという連絡もいただいた。

  ある日突然電話をいただき、羽田空港でならば少し時間を割いて話しができるというので、数日後上京した。そしてびっくり仰天の 展開が待ち受けていた。曽野氏がワシントン大学のジュリス・ドクターコースを卒業、しかも留学できた 場合私の指導教授と目されるW.T.バーク教授は曽野氏がよく知る人であることが明らかとなり仰天させられた。

  曽野氏はその日羽田空港を発ってシアトル経由でニューヨークに戻る予定とのこと、ワシントン大学に立ち寄りバーク教授に会うかも しれず、その時には今日のことが話題になるかもしれなかった。別れ際になって、推薦状がいるなら後日また連絡してくれてもよいとおっ しゃっていただいた。何と言う奇遇の、そして有り難いお話をいただいた。何が起こっているのか頭を整理できないほどであった。

  かくして、幾つかの全く予期せぬ偶然に助けられて、その数か月後合格通知書を受け取った。学内新聞の記事との遭遇から始まって、 幾つかの奇遇がなかりせば、留学もその後の人生もなかったに違いない。

  ワシントン大学ロースクールには2つのプログラムがあった。「アジア法プログラム」と「海洋法総合プログラム」であった。もちろん後者を 選択した。竹本教授の国際法ゼミで新海洋法条約の諸提案に関わっていたことは一つの自信につながった。留学を後押しもした。また、 同海洋法プログラムは海への回帰の道筋をより鮮明なもにしてくれた。

  だがしかし、留学は厳しかった。教授の勧めで早目に渡米し語学学校で語学力の向上に励んだものの、その不足を痛感するばかりであった。 深刻な挫折を味わった。肝心の海洋法講座では「C」をマークし、ドロップアウトを真剣に悩んだ。そうなれば曽野氏をはじめ推薦を いただいた恩師らに申し訳が立たなかった。次学期にカバーできなければ帰国止む無しと覚悟して頑張ることにした。学究論文を死に物狂いで執筆、それで「C」 を「A」で相殺し「B」にできた。留学放棄をなんとか思いとどまった。

  単位の完全取得は翌年の夏期まで持越し、他方で就活が気になっていた。卒後すぐに国連事務局へ願書を提出する予定だったが、 海洋法務官の専門職の空きポストに出会い、面接試験などを受け全くストレートに奉職できるというほど甘くはなかった。

  そんな夏期の頃、資料集めにメイン・ライブラリーに出向いた折、留学して初めて朝日新聞を手に取った。そこで、「論壇」のページ に行き当たった。海洋環境コンサルタントの麓氏が東シナ海での日韓大陸棚協定や国連海洋法会議での議論などに触れていた。同氏は 海洋環境や海洋政策・法制などを調査研究する個人事務所を主宰されていた。

  個人事務所とはいえ、海洋政策・法制の調査研究を続けられるのであれば、国連応募途上にあってもキャリア形成にプラスとなることが 期待できる。早速、事務所での受け入れを依願すべくレターをしたためた。その後、別件で渡米されシアトルに立ち寄られ、面談することができた。 図書館で新聞に遭遇していなければ、この繋がりは生まれなかった。麓氏に救われることになった。

  1975年初秋に帰国後すぐに事務所に転がり込んだ。麓所長はその当時国会に上程されていた日韓大陸棚協定批准書案は日本の国益を 害するものとして、その持論を展開することに専心していた。他方、事務所には特段の決まったルーティンワークはなく、ランダムの翻訳や 資料収集、記事執筆などいろいろ取り組んだ。だが、事務所の経営財政は厳しかった。定期収入につながる調査研究や定期情報誌の 編集・発刊などの仕事はなかった。給与は所長のポケットに依拠していたようで、心苦しかった。 調査研究の展望を切り拓こうにもなかなか思うようには行かなかったことが最も辛かった。

  国連には応募済みであった。国連法務官のポスト待ちであってもその間キャリア形成やアップに繋げることができる積み重ねが必要であった。 事務所はそういう意味では有益であった。履歴書に職務上の実績を一行でもプラスすることができた。特筆すべきこととしては、麓氏の紹介で 私と同じ学問領域にあった東京水産大学国際海洋法講師の浅野先生と知り合うことができ、後々指導を受けることになった。

  事務所の何が不安であったか。周りには同世代の仲間がほとんどいなかったこともあるが、むしろ事務所の海洋調査研究活動の将来における 発展の展望が見通せなかったことが大きな悩みであった。そのことで日々悩み不安を抱えていた。

  事務所勤務が半年ほど経った頃、近くのカフェで何気なく朝日新聞を広げ記事の見出しを目で追い拾い読みをしていた時、社会面に 掲載された小さな広告記事が目にとまった。国際協力事業団(JICA)が社会人を中途採用するというものであった。 何はさておき応募することにした。数次の試験を経て採用された。一つの出来事で人生が丸ごとすっかり変わることになった。 1976年11月1日にJICAに勤め出した。

  日本政府の政府開発援助(ODA)の一つである対外技術協力を日本政府の名の下に実施することを通じて国際貢献するという世界へ身を 投じることになった。だが、それによって海との繋がりはどうなるのか、またもや海から遠ざかるのか、全く未知数であった。最初の配属先の研修事業部 では少しはあった。例えば、沿岸鉱物資源探査やマンガン団塊探査技術などに関する研修プログラムの運営管理に携わることができた。 わずかなことであったが、そんな接点でも私的には大きな喜びであった。

  他方で、国連応募との関連でキャリア形成を続けるためには自ら海洋研究テーマを設定しそれを論じ続け、海洋法関係者らとの接点を模索し 続ける他なかった。国連ポストの空席化と面接試験への呼び出しに備えて、キャリアをアップし続ける必要があった。だが、国連海洋法 事務局からの連絡では、日本人の海洋法務官の空きは現在のところないとの情報をもらっていた。兎に角、留学時での研究成果を呼び起こし、 論文として改めて取り纏めたりして、大学紀要などへの掲載にも務めた。

  JICA奉職はもう一つの大きな出来事をもたらした、研修事業部で人生の伴侶に巡り会えた。それは半径5メートルの世界であった。 JICAへの就職によって経済生活力を得たと同時に、伴侶にも巡り会え、人生航路の新たな出発点となった。就職してわずか半年ほどで 後のことであった。

  さて、3年後、人事部が私の履歴書に目に止めたようであった。次の配属先は何と水産室であった。世界の途上国での水産 関連プロジェクトの実施部門であった。私の専門領域・学歴からしてこれ以上海に関われる部署はなかった。海への本格的な回帰 となった。キャリアを積み重ねるにはベストな部署に違いなかった。そこに4年近くも在籍し、水産プロジェクトの運営に没頭した。 漁撈、養殖、漁業調査、水産教育の四大プロジェクトの運営のみならず、中東産油国での養殖研究センター建設の施工監理にも携わった。 FAOの水産局にて水産技術協力プロジェクトを実施するのと同じような業務であった。経歴アップには申し分なかった。だが、その間も 海洋法務官の空席化はなかった。

  他方、JICA奉職後暫くして、浅野先生に「海洋法研究所」の創建を相談した。そのメインの活動は邦語・英語のニュースレターを発刊し、 日本の海洋政策・法制などの情報を国内外へ発信することであった。遣り甲斐のあるボランティア活動であった。経費は浅野氏と分け合った。 JICAと研究所の二足のわらじを履くもので、最も多忙な日々を何年か過ごしたが、最も生き生きしていた。

  水産室2年目のある日、イスラム圏諸国でのプロジェクト運営が多かった私は、同僚に聞こえるようにある「独り言」を漏らした。 その結果、同僚とプロジェクトを交換しえた。その一つがアルゼンチンの水産教育プロジェクトであった。プロジェクトはまだ未成立であった。 かくして年3回もアルゼンチンを往復し、その対外交渉にチャレンジした。そしてその成立に漕ぎ着けた。プロジェクトの現地駐在 コーディネーターについては事情に長けたJICA職員、即ち担当者である私を派遣するのが適当であると訴え、自らも赴任を志願した。

  他方で、スペイン語の習得に努力を重ねた。NHK語学講座をほぼ2年間独習し、加えてJICAによるスペイン語講座を基礎コースから 中級さらに上級コースをトータル1.5年にわたり履修した。人事課に「スペイン語研修者に中内あり」と認めてもらうべく、常に100%の 出席率と最優秀の成績を修めるべく努力した。そのアピールの甲斐あって、また上司の理解を得て赴任することになった。 その赴任が自身に何をもたらすことになるか知る由もなかった。

  1984年春アルゼンチンに赴任した。家族は事情で半年後にやってきた。そこで、家族と共に「第3の青春」を送った。初年度は、3名の専門家 とプロジェクト立ち上げに苦労したが、当然の生みの苦しみであった。赴任をサポートしてくれた上司らの期待に応えるべく 辛抱強く取り組みプロジェクトを軌道に乗せた。

  2年目になって突拍子もないことを突如閃いた。プロジェクトでは航海、漁業、海洋生物などの専門用語が日本語・スペイン語・英語 で日常的に飛び交っていた。聞き流しておくのはもったいないと、それらの海洋関連語彙を拾い上げ、大学ノートに書き留めることを思い付いた。 海洋語彙集を作成するまたとないビッグチャンスであった。

  語彙を拾い上げてはABC順にノートにどんどん書き溜めた。アナログ入力の世界であった。何カ月か経るとノートが何十冊にも積み上がり 語彙の重複有無を照合するための作業に余計な労力を注ぎ込むことになった。そこで、必要に迫られパソコンの手習いに踏み切った。日本語 文章作成ソフトの「ワード」をもって語彙を蓄積することにした。語彙の加筆修正、重複照合は大いに効率化され、語彙集づくりはアナログから デジタルへ急速にシフトした。

  ところが、その後の2年間の任期残は語彙集づくりには余りに短かった。赴任中納得の行く語彙集が完成するに至る訳もなかった。問題は帰国後も 語彙拾いとパソコンによる語彙集づくりを続けるかどうかであった。止めれば全ての努力は無駄に帰すことになるとの思いを胸に刻んで続ける ことにした。1985年から1995年のネット元年までの10年近く何とかやりこなした。

  帰国後もう海と関係する部署は無かった。職務を通じて海と関わることは期待できなかった。因みに、農業分野での投融資業務、コンサルタント 選定・契約業務、職員への福利厚生業務、さらには国際協力システム(JICS)への出向など、国内での業務遂行に塩漬けとなった。それは 前々から分かっていたことであり驚くことではなかったが、職務的には海から遠ざかるばかりとなった。これまでの水産室4年、アルゼンチンでの漁業教育プロジェクト 3年の業務こそ夢の様なキャリヤアップにつながる職歴をばく進できた。

  だが、職務が海と無関係となったとはいえ、キャリアアップを続けることは大事であった。それに何としても海洋政策・法制関連の研究 を続け、海との接点をもち続けたかった。理由は「海大好き人間」であったからである。 それこそが、海洋辞典づくり(語彙拾いとデジタル版語彙集づくり)の継続の原点、原動力でもあった。

  アルゼンチン帰国後は、浅野先生と共同して「海洋法研究所」の活動を再開した。その海洋研究活動のメインとして、日本の海洋政策・法制を 扱う英語版「海洋白書・年報」の類の創刊に取り組んだ。キャリアアップにもなると期待した。 職務上は海から遠ざかるばかりであったが、個人的な取り組みとして語彙集と英語版年報づくりに専心専念した。遣り甲斐は全開であった。

  国内では3つの課を渡り歩いた後JICSに出向したりもした。森氏との出会いは、ブルドーザーなどの道路整備機材の現地調査の折であった。 同氏はその道すがら、インターネットのことについて、口角泡を飛ばしながら熱く語ってくれた。また帰国後は、ネットサーフィンのデモンストレー ションまでしてくれた。私的には目からウロコがこぼれ落ちるような衝撃であった。アルゼンチンから帰国してほぼ10年後の1996年のこと であった。計らずも急にネット世界へのドアが開かれ、別次元へと足を踏み入れることになった。

  ネットを通じて語彙集を「デジタル海洋辞典」として世界に発信できる時代が既に到来していることを実感した。 新しい夢の扉が開かれたという思いであった。過去のこれまでの語彙拾いの成果が急に脚光を浴び、それが陽の目を見るかのような衝撃を受け 身震いするほどであった。

  早速ネットのためのハード・ソフト環境を整え、独学でホームページの作成方法を学び、語彙集を徐々にホームページ化し、ついに「海洋 辞典」としてネットにアップした。ネット上でリアルタイムで自作の辞典をブラウザで閲覧できた時は、感激の余り感涙であった。感激で 鳥肌が全身に立った。かくして、ネットの黎明期において、国連奉職への夢に次ぐ、あるいはそれに取って代わる新しい夢というか、 大目標が眼前に現われた。

  JICSへの出向は人生の回り道、遠回りではなかった。JICSではじめて無償資金協力業務を経験し、そこで得たノウハウはJICAに復帰後 さらに深められ、かつずっと長く活かされた。また、森氏との出会いはネット世界への誘いとイコールであった。いずれはネットのことを知り、 辞典づくりへの活用を目指していたことであろう。だがしかし、同氏の誘いはデジタル辞典づくりを一歩も二歩も早めてくれた。

  余暇時間をもって、少しずつではあるがデジタル辞典づくりを楽しんでいた頃、国連奉職への夢と希望は私の心から自然体で脳裏から消失しつつあった。 先ずもって、国連での国際社会への貢献ではないにしても、日本政府のODAという国際協力を通じて国際社会に何がしかの貢献を担い、 既に20年近くも深く関わっていた。それにもう若くはなかった。

  国連法務官職の新参者としてチャレンジするには後ずさりするような 状況であった。英語もスペイン語も大分錆びついていた。それにJICAの年俸も国連に比して実質的に遜色なかった。日本をベースにした 国際協力の業務と私生活が充実していた。それに、海洋辞典づくりと世界への情報発信という新しい夢や目標に向けて羽ばたいていた。 もう国連奉職の夢を諦めても心の傷は十分に癒されるという思いが生まれていた。たとえ、かつての夢が挫折しても新しい夢を描き追いかけつつ 前に進んで行けばよいと悟った。

  後で知ったことであるが、日本人海洋法務官は1996年頃にその職を離れられたらしかった。その数年前には国連海洋法条約は加入国数の 条件を満たし成立していた。私的には、海洋語彙集のホームページ化に取り組み始め、前のめりになっていた頃である。

  2000年になって、人事課長と立ち話の中で私が漏らした「独り言」が功を奏して13年ぶりに海外の協力最前線に赴けることになった。 パラグアイであった。「海なし国」で、四方の隣国の海辺に辿り着くのに飛行機で数時間はかかりそうであった。だが、スペイン語圏であり、 とりわけ西和海洋辞典づくりの生活環境としては有り難かった。在任中は、スペイン語をもう一度真剣にやり直したかった。既にネットの通信速度は パラグアイでも圧倒的に進歩し、辞典データを更新するのに日本に居る場合と遜色なかったので大いに救われた。

  それに、2000年頃にはデジタルカメラの普及がハイスピードで進んでいた。また「海なし国」ではあるが、何と2つの船舶博物館がある ことを知り、早速訪ね歩いた。その貴重な博物館画像をホームページにアップして世界に紹介することを閃いた。 それがきっかけで、本格的に諸国の海や船画像をアップすることで辞典をビジュアル化することも閃いた。

  その後、週末や休暇を利用して隣国のブラジル、チリ、アルゼンチンなどの海洋博物館などを巡りいろいろな被写体を切り撮り、ホーム ページで紹介することに前のめりになった。その極めつけが、日本への一時帰国を米国への長期休暇旅行に振り替えて、東海岸沿いに米国・カナダ国境付近 からフロリダのキーウェストまで30日ほどかけて3000kmほどの海洋博物館巡りの旅を敢行し、膨大な画像を切り撮った。

  その後、サウジアラビア(2004年から3年)、ニカラグア(2007年から2年)へと、ほぼ立て続けに海外赴任となった。その機会を利用して、 周辺諸国へ海と船風景を求め、海洋博物館などを巡る貧乏旅行を楽しんだ。もちろん旅行後、夜なべ仕事に海・船風景や博物館などの紹介に 取り組んだ。ニカラグアでは、ニカラグアの「運河の夢」を知った。運河建設上、かつてはニカラグア地峡はパナマ地峡よりも有望とみなされて いた。その候補ルートの幾つかを現地踏査もした。

  ところが、その踏査中に山間奥地で心臓発作に襲われ、奇跡的な生還を経験した。九死に一生を得た。まさに自然淘汰される直前にあったが、 生きながらえた。その後、JICAに暫くお世話になったが、2011年3末ついに完全離職した。奇跡の生還という体験をした限り、残りの人生を 悠長に構えて過ごす訳には行かなかった。かくして、その歳になって初めて「自由の翼」を得る身となった。 そして、辞典づくりのために「おまけの人生」を有意義に費やしたかった。63歳を迎えようとしていた。

  かくして辞典づくりに専心専念した。アルゼンチンで語彙拾いを始めて以来、語彙集・海洋辞典のコンテンツについてしっかりとしたトータル・ レビューができていなかった。語彙を量的に増やすことに夢中になっていたといえる。「作成中」というフラッグを掲げたコンテンツも多くあり、 忸怩たる思いがあった。それを手始めに、抜本的にあらゆる改善改良を施したかった。また、未処理のままパソコン内に眠る数十万枚の 画像を辞典に貼付したかった。

  辞典の完成とどう向き合うのか自問自答し悩んだ。そして、辞典の真の意味での完成はないことを悟った。「未完の完」であっても、 いずれかで一区切りと締めくくりを為す「中締め」の必要性を悟った。コンテンツをベースに締めくくるのは困難と、時間軸で中締めする ことにした。東京オリンピックの2020年をターゲットにした。そしてほぼ10年取り組んだ。だが一区切りつけられず少し延長した。 今もって辞典づくりは続き、友人らとの博物館巡りなどの旅は続く。2022年の中締めを目指して専心専念し奮闘中である。

  振り返れば、行きがかり上の、あるいはたまたまの通りすがり上での出会いや遭遇があった。それがなければ今の自分は無く、全く別の 道を歩んでいたに違いない。たまたまの出会いや遭遇を期待し待ち受けていた訳ではない。だが、何故か奇遇と偶然に出会った。 それが運命と言えばその通りであろう。夢と希望がなければ、それらは目の前を素通りして行ったに違いない。 たまたま目に触れ、またとないチャンスと思い、筆を取るなど「行動」したことが次の出来事に繋がったといえる。 偶然の出会いや出来事だったのか、それらは必然のことだったのか今でも分からない。意志のあるところに道があり拓かれて行くのは真実であろう。

  船乗りになって世界を回ることや国連海洋法務官として国際社会へ貢献するとの夢は果たしえなかったが、JICAでの国際技術協力を 通して途上国の国づくり人づくりに何がしかの貢献をなし得た。また世界の沢山の諸国を訪問し人々と交わり文化に触れることができた。 何よりも良かったのは、その国際協力のプロセスを楽しむことができ、人生を豊かにできたと感じられることである。

  海洋辞典づくりについていえば、毎日10分、15分のことであっても、心身をリフレッシュさせ明日への鋭気を養うことができた。 「海を永遠の友として」、その辞典づくりのプロセスを楽しむことができ、プライベートな人生をも豊かにできた と感じられる。何を為しえたかも大事だが、何を為そうとしたかということも大事なことである。 未来の世代に辞典づくりをバトンタッチでき、世界で「Only One & Number One」の辞典を目指して「進化」を続けることができれば望外の喜びである。

  世界は人工知能(AI)や情報通信技術などの進歩は怖ろしいほど目覚ましく、辞典・辞書の類もいずれは消えてなくなるかのように 思われていそうである。だがしかし、他の数多くのそれらと同じく、人工知能がいかに進化しようとも「原典」は欠かすはできない。 「デジタル海洋総合辞典」も将来その一つとしての位置を占めることができれば、もう一つの望外の喜びである。  

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