一枚の特選フォト⌈海 & 船⌋
スペイン無敵艦隊を迎え撃つフランシス・ドレーク提督、
ホーの丘よりイギリス海峡を見下ろす
[英国プリモス]
英国南西部のコーンウォール半島にある港町プリモス。世界史に記録される数多くの航海の起点となった古い港町である。 1588年、英国海軍長官チャールズ・ハワード、フランシス・ドレーク提督、およびフロビッチャー提督らが率いる英国艦隊の 集結地はここプリモスの地先の入り江 (The Plymouth Sound) であった。 彼らは今か今かと、メディナ・シドニャ提督が率いるスペイン無敵艦隊 (Armada Invencible) がプリモス入り江の向こうに広がる イギリス海峡 (English Channel, La Manche) に現われるのを待ち構えていた。 彼らはそれを待つ間、プリモスのこの「ホーの丘」(The Plymouth Poe) の芝生で屋外ボーリングを楽しんでいた。その時に、 イギリス海峡入り口(スペイン寄り)を北東に進む130隻、総勢約30,000万人からなる無敵艦隊を初認した英国艦を通じて、「敵艦見ゆ」 の第一報がもたらされた。 ドレーク提督は、ハワード海軍長官が動揺し、次いで士官たちも動揺するということがないように、機転をきかせた。 ドレーク提督は長官らにそのままゲームを続け、その決着をみることを薦めた。自分たちの余裕を演技しながら、 長官らはかくしてゲームを終えた後、艦隊をプリモス入り江から相次いで出撃させて行った。その歴史的な出撃地こそがこのプリモスであった。
英国艦隊は、スペイン艦隊を追尾し、その後イギリス海峡北東部の出口(北海側)*近くのフランスのカレーの沖で
スペイン艦隊を撃破し、スペイン国王に痛撃を食らわせたのである(このカレー沖の戦いは「アルマダ海戦」と称される)。
だが、時の海洋帝国スペインはこの敗北で屋台骨が揺らぐほど柔ではなかった。 [備考] フランシス・ドレークが5隻の船団で大西洋を横断し南米東岸沿いに南下し、マゼラン海峡を経て太平洋をめざす 航海の途に就いたのが1577年のことである。ドレークらは太平洋・インド洋を横断して1580年にプリモスに帰還し、世界周航を 成し遂げた。その世界周航の起点もこのプリモスであった。
辞典内関連リンク:
ドレーク提督の銅像 (Drake's Statue) の銘板には次のように記されている。
[参考]この銘板は、1977年8月5日、カリフォルニア州サー・フランシス・ドレーク委員会によって、彼の世界周航400周年を 記念して設置されたものである)
[2013.05.28-30 英国プリモスのホーの丘にて] [拡大画像: x25240.jpg][拡大画像: x25241.jpg][拡大画像: x25412.jpg: ドレーク銅像銘板] |
1 2 3 1. プリモスの「ホーの丘」に立つドレーク提督像と、プリモス南西沖22㎞にある「エディストーン岩礁」(Eddystone Reef) に 1759~1882年の間立てられていた第3代目の「スミートン灯台」(Smeaton's Lighthouse。現在はポーの丘に移築され スミートン・タワーと称される)。プリモス入り江の向こうにはイギリス海峡が広がる。 [拡大画像: x25415.jpg] 2. 1666年にチャールズII世によってホーの丘の東側に築かれた要塞「ロイヤル・シタデル (Royal Citadel)」の南東端の断崖上に 築造された砲塁。 [拡大画像: x25416.jpg] 3. プリモスの「サットン・ハーバー」(Sutton Harbour) と称される入り江が画像左奥に広がる。入り江の西側には「バービカン」 (Barbican)と称される旧市街が広がり、古い街風情が漂う。 画像の中央手前にある門柱は、1620年に清教徒一団(「ピルグリム・ファーザー (Pilgrim Fathers)」と呼ばれた)が、 アメリカ新大陸をめざして「メイフラワー号 (Mayflower)」にて船出したのを記念して建てられた出航記念碑である。 「メイフラワー・ステップス」(Mayflower Steps) と称される。 画像右端に立つガラス張りの建物は「国立プリモス水族館 (The National Marine Aquarium)」 である。 [拡大画像: x25417.jpg]
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A B A. プリモス市街全体地図。 [拡大画像: x25413.jpg] B. サットン・ハーバー (Sutton Harbour) の西側に旧市街地バービカン (Barbican) が広がる (青色部分)。その南側に要塞 「ロイヤル・シタデル」がある。 [拡大画像: x25414.jpg] |