一枚の特選フォト⌈海 & 船⌋
東回りインド航路開拓を成就させたヴァスコ・ダ・ガマの人物画像&略史
画像は、東京ディズニーシーの「メディテレーニアン・ハーバー」ゾーン内の⌈フォートレス・エクスプロレーション
⌋の壁面に描かれた、ポルトガルの航海探検家「バスコ・ダ・ガマ」(Vasco da Gama、1469 - 1524)の人物画像である。
壁面には、ヴァイキングのレイフ・エリクソンの他、エンリケ
航海王子、コロンブス、マジェラン、ドレーク、マルコ・ポーロ、
イブン・バットゥータなどの偉業を成し遂げた歴史上の者たちの人物画や関連史実も描かれている。
ポルトガル国王ジョアン2世 (在位1481‐1495年) が在位していた1487年8月、ポルトガル人バルトロメウ・ディアスは2隻のカラベラ船と 1隻の輸送船を率いてリスボンを出航し、西アフリカを一路南下した。同年12月末に嵐に遭遇したことで、15日間も方向を見失った まま航行した後、アフリカの陸地が船の西側に位置することに気付いた。 アフリカの最南端を回ったことの証左といえるものであった。ディアスはさらに周回することを主張したが、乗組員らが暴動を 起こしたため、南端を少し周回した、南緯33度辺り (現在のダーバンは南緯30度辺りにある) に位置する現在のグレート・ フィッシュ川河口付近で反転し引き返した。 そして、1488年12月にリスボンに帰着した。クリストファー・コロンブスはこのディアスの華やかな帰還をその港で見物して いたという。 ディアスは南端を周回していた頃激しい嵐に見舞われたことから「嵐の岬」と名付けた。後に、国王ジョン2世は、 インドへの道が拓かれたという国運を祝して「喜望峰」と名付け換えた。なお、喜望峰の発見について、往航時には荒天であった ため岬を認めえなかったが、復航時にその岬を認めたとされる。
ポルトガルはディアスの帰還後すぐに次の探検船隊を派遣するにはいたらなかった。ジョアン2世に代わって王位を継いでいた
マヌエル1世は、ようやく1497年になって、ヴァスコ・ダ・ガマを喜望峰回りでインドに向けて出帆させた。
かくして、ポルトガルはスペインよりも早くインドのカリカットへ到着することをめざした。 1497年7月8日に、ガマは13隻からなる船隊を率いてリスボン出航した。ヴェルデ岬諸島を経た後、大西洋に大きな半円を描き 迂回するように (画像参照:下) 喜望峰をめざした。同年11月9日喜望峰に近いアフリカ南西部のセント・ヘレナ湾に到達した。 11月22日には喜望峰を周回し、11月25日にサン・ブラス湾に到着、12月17日には、ディアスが先の航海で到達した最遠地で あるインファンテ川(現在のグレート・フィッシュ川)河口で投錨した。 その後沿岸沿いに北上し、1498年4月に現在のケニアのマリンディに到達した。ガマはそこでアラブ人でインド洋での航海に 熟達した船乗りイブン・マジードを水先案内人として雇い入れた。ガマはその後首尾よくアラビア海を横断し、翌5月になって インド南西部マラバール海岸のカリカットに到達した。 1498年8月にカリカットから帰国の途に着いたものの、その航海は厳しいものとなった。アラビア海を越えるのにほぼ3か月を要し、 ガマの旗艦サン・ガブリエル号がリスボンに帰還したのは1499年8月29日のことである。結局、ガマはインドとの往復航にほぼ 2年を要し、又約170名の乗組員のうち帰還したのはわずか60余名であった。 また、ガマがもち帰った香辛料の量は見本程度というごくわずかなものであったし、更にはカリカットの王との香辛料の交易取り 決め交渉は成功するにいたらず、通商面での成果はほとんどなかった。 だが、エンリケ航海王子が1400年代初頭以来思い描いていた、インドへの東回り航路、即ちアフリカ周回によるインド航路の 開拓にかかる大事業がついにここに完成したことの意義は計り知れない。 ポルトガルは、約80年に及ぶこの大事業の完遂によって、それまでアラビア人、更にはベネッツィア人、ジェノバ人らによって 独占されていた金、香辛料などの東方貿易において新たな海上交易ルートを切り拓き、その後の歴史的な国家繁栄へと突き 進むことになった。翻って、アラビアのイスラム商人らとの熾烈な闘いが始まることになった。 [2014.4.24. 東京ディズニーシーの「メディテレーニアン・ハーバー」ゾーン内の⌈フォートレス・エクスプロ レーション⌋にて][拡大画像: x25957.jpg] |
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