一枚の特選フォト⌈海 & 船⌋
コロンブスの人物画と第一回航海
画像は、東京ディズニーシーの⌈メディテレーニアン・ハーバー⌋ゾーン内の⌈フォートレス・エクスプロ
レーション⌋の壁面に描かれた、クリストファー・コロンブスの人物画である。壁面には、
ヴァイキングのレイフ・エリクソンの他、エンリケ航海王子、
マジェラン、ドレーク、マルコ・ポーロ、イブン・バットゥータ
などの偉業を成し遂げた歴史上の者たちの人物画や関連史実が描かれている。
第一回航海までの略史
1476年8月、コロンブス、ポルトガルのサン・ヴィセンテ岬沖で遭難し、その東方対岸の町ラゴスの海岸に泳ぎ着く。 1478年にポルトガルへ転居する。 1478年、ジェノバ商人パオロ・ディ・ネグロの代理商人として商品の買い付けのためマデイラ諸島へ航海する。 1480年頃、フェリパ・モニス・デ・ペレストレロと結婚する。この頃から、大西洋の西回り航海に関する計画、即ち ヨーロッパから西回りでもって大西洋を航海し、インディアス、カタイ(中国)やジパング(日本)に到達し、 黄金や香辛料を獲得するというインディアスへの航海事業計画なるものの作成に取り組む。 * コロンブスがいかなる書物、世界地図等を読んだのか、地球の周回距離やインディアス東端までの距離をどのように計算したかなどは 大変興味あるところである(別稿に譲る)。 1483年末、若しくは1484年初、ポルトガル国王ジョアン2世に同計画を提案するも、採用されなかった。
1485年、ポルトガルからスペイン(イスパニア)へ移る。
第一回航海 出港して72日目の1492年10月12日未明、先頭のピンタ号の乗組員が、陸地初認する。 夜明けを待って、同12日、コロンブス一行は上陸し、カスティーリャ王国旗を立て、カトリック両王の名において領有宣言をした。 そして、グアナハニーと呼ばれていた同島をサン・サルバドールと名付けた。現在の西インド諸島の中のバハマ諸島の一島である。 その後、今のキューバ沿いに航海する。
1492年12月24日夜、サンタ・マリア号がエスパニョーラ島 (今のハイチ、ドミニカ共和国のある島) の北部の海岸で座礁した。
当該船の部材などを用いてその海岸に居留地を設営し、ナビダー (Navidad、クリスマスという意味) と名付ける。
1493年3月4日イベリア半島を目前にしながら大嵐に遭遇したため、3月6日リスボンに緊急退避し、9日にはコロンブスはポルトガル・
ジョアン2世の招きで謁見した。
1493年3月、コロンブスは、インディアスに到達した (実際はカリブ海の諸島であった) ものと固く信じ込んでいたので、 意気揚々とかつての出港地パロス港に帰還した。
1494年6月7日、ポルトガル・スペイン間で⌈トルデシリャス条約⌋が結ばれ、大西洋西方海域における両国の航海域の
分界地点をヴェルデ岬諸島の西方370レグアの子午線へと移動された。結果、ブラジルはポルトガルに帰属するにいたった。
/legua marítima, legua marina: [海]海里、海上レグア(=5,555m, equivalente a tres millas)[una legua marítima=1,852m]. [参考]現在では通常 "milla marina" (海里、ノットが用いられ、1海里は1,852メートルの距離に相当する. /leguario, ria: adj.里程の、マイルの.
航海は第四回まで続いた。
第三回航海、1498年-1500年。6隻の船で、マデイラ、カナリア、ヴェルデの各諸島を経た後に西航し、小アンティル諸島の 最南端のトリニダード島、およびそのすぐ南に横たわる南アメリカ大陸北岸に足跡を残した。その後、スペイン本国から送り 込まれた査察官によって不正ありととがめられ捕縛され、本国に連れ戻された。 第四回航海、1502-1504年。初めてアメリカ大陸の一部に到達する。即ち、今のホンジュラス湾付近には到達する。1504年11に 帰国した後は、不遇な境遇と病気・貧困に悩まされ、1506年この世を去った。
[参考文献]⌈海の道と東西の出会い⌋(世界史リブレット)、青木康征、山川出版社、2010年など。 [2014.4.24 東京ディズニーシーの⌈フォートレス・エクスプロレーション⌋にて][拡大画像: x25959.jpg]
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