一枚の特選フォト⌈海 & 船⌋
見沼通船堀における通船実演 [日本・埼玉県]
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3 1: 見沼代用水東縁の「二の関」(手前の木製水門) から閘室内の水域を行き来する帆掛け舟を眺める。舟の後方にあるのは東縁「一の関」。 2: 見沼代用水西縁の「一の関」。 3: 見沼通船堀での通船実演(2012年8月29日)を広報するポスター。 2012年8月29日、埼玉県の「見沼通船堀」にて帆掛けの「ひらた舟」の通船実演が行われた。 通船堀は、江戸時代中期に開削された、水位の高低差約3m、長さ約1kmの閘門式運河である。 見沼の最も低いところをほぼ南北に流れる芝川 (かつて荒川を経て江戸方面に通じた) と、その芝川を真ん中にはさんで 東側と西側に一本ずつ「見沼代用水 (東縁・西縁)」が流れるが、通船堀はその代用水 (西縁) ~芝川~代用水 (東縁) を結ぶものである。 通船堀には、芝川をはさんで東西にそれぞれ2つの関 (「一の関」と「二の関」。関とは閘門・水門のこと。閘門は木製) がある。 年一度のこの実演 (今回午前10時~)では、通船堀 (東縁側) の「一の関」において、約2m長の細長い板7、8枚を木枠に積み重ね、 代用水 (東縁) から「二の関」を通って流れ下る水をその「一の関」で堰き止めた。それによって、2つの関の間にある約90m長の「閘室」 (チャンパー) と呼ばれる区画水域内の水嵩もどんどん増して行った(下図参照)。そして、船頭に棹で操られた「ひらた舟」が その閘室内を何度か行き来した。 [拡大画像(x26036.jpg)]
実演にはなかったが、引き続いて「二の関」を板で堰き止めた後、「一の関」の板を取り外し、閘室内の水を芝川方向へ流し落とし、
芝川寄りの通船堀と閘室との水位を同じくすることで、完全に通船させることができる。今回多くを学ぶことができた楽しい
野外学習であった。 見沼通船堀について 江戸時代中期、徳川幕府勘定方・井沢弥惣兵衛為永は、見沼の新田開発のため農業灌漑用の見沼代用水路(東縁・西縁)を築造した。 その後東西両縁を結ぶ運河 (約1km) を開削し、享保16 (1731) 年に完成した。それが「見沼通船堀 Minuma lock-type boat canal」である。 東西の見沼代用水をはさんでそれらの中央辺りに芝川が流れる。両代用水と芝川との間には3mの水位差があった。 それを調節し舟の通行を可能にするため、2ヶ所に2つずつの木造りの関 (堰・閘門) を築造した。 舟はそれら2つの関の開閉によって"水の階段"を昇降できる。約200年間にわたり見沼田んぼ・見沼代用水周縁と江戸との間に おける内陸舟運の一翼を担い、流通経済の発展に大きな足跡を残した。 原理的にはパナマ運河と同じ閘門式の、日本有数の古さをもつ運河である。閘門式の「水の階段」をもって舟・船を 昇降させるという着想はさほど特別なものではなかろうが、通船堀では、鉄や石垣による枠組みではなく、木製の枠組みからなる 関を築造し、関の安定性を維持したところが特有の一つであろう。 |