榎本武揚(えのもとたけあき)、1836年(天保7年)江戸に生まれ、1908年(明治41年)に没した彼は、幕末から明治初めにかけての
革命的動乱の時期に、実質的に徳川幕府海軍のトップに就いていた人物である。彼が率いた幕府艦隊の艦船のうち、とりわけ開陽丸・
咸臨丸の歩みについて、ウィキペディア辞典から拾い上げてみた。
榎本は、1856年(安政3年)に幕府の長崎海軍伝習所に入所し、西洋の学問(蘭学)、国際情勢、航海術、化学などを学んだ後、
1862年(文久2年)9月同僚とともに留学のため長崎からオランダに向かい、翌年4月ロッテルダムに到着した。当時オランダでは、
幕府が発注した軍艦である「開陽丸」を建造中であった。彼は、同艦に装備される大砲を注文した。最終的には18門の
クルップ施条砲が装備されるにいたる。
オランダで主に国際法、軍事・造船・船舶を学んだ榎本は、開陽丸に乗船して1867年(慶応3年)3月に帰国した。帰国後彼は
幕府の海軍軍艦頭並に任命された。
そして、大政奉還後の1868年(慶応4年)1月には、徳川家の家職である海軍副総裁に任じられ、実質的に幕府海軍のトップに就いた。
その時の総裁は矢田堀景蔵であった。
1868年(慶応4年)1月3日に鳥羽・伏見の戦いが起こり、戊辰戦争が始まった。榎本が率いる幕府艦隊は、1月4日阿波沖の海戦で薩摩藩海軍に
勝利を収めた。しかし、旧幕府軍が鳥羽・伏見の戦いで敗北したため、榎本らは1月6日幕府陸軍と連絡をはかるため大坂城に入城した。
他方、徳川慶喜は6日夜大坂城から脱出し、7日朝には榎本不在の旗艦・開陽丸に座乗し、8日朝には江戸へ向けて出港してしまった。
取り残された形となった榎本・矢田堀らは、大阪城内の18万両を富士丸に積み込み、旧幕府軍兵士たちを乗せ江戸・品川へと撤退した。
1868年4月11日に江戸城は無血開城となり、新政府軍は幕府海軍艦隊の引き渡しを要求した。榎本はそれを拒否し、艦船7隻をもって品川沖から
安房国館山へと退去した。その後、勝海舟の説得によって4隻を引き渡したものの、開陽丸など主力艦を温存することに成功した。その後、
幕府艦隊の引き渡しを再度要求された榎本は、1868年8月19日、開陽丸、咸臨丸、回天丸、長鯨丸など8隻の旧幕府艦隊を率いて江戸を離れた。
艦隊は出港翌日から暴風に見舞われ、離散の憂き目に遭った。咸臨丸は清水沖へと流され、新政府軍に発見されて猛攻を受け、
拿捕されるにいたった。
榎本らの艦船は1868年9月中旬頃に仙台近傍沖に集結し、仙台藩に貸与していた艦船や旧幕臣・脱藩兵などを取り込んで、10月12日に仙台を出港し
蝦夷地をめざした。10月19日に函館の北方の地で上陸し、榎本らは10月26日に函館の五稜郭を占領、11月1日に五稜郭に入城した。同年12月に
蝦夷共和国を樹立、榎本は選挙によって12月15日総裁となった。その後、蝦夷地日本海側の江差の攻略作戦に開陽丸を投入したところ、
座礁事故で喪失するという痛手を被った。

幕府が米国に買い付けたもののその引き渡しは未了のままであった当時の最新鋭装甲艦「ストーン・ウォ―ル」が、1869年(明治2年)2月、
新政府の掌中に落ち、「甲鉄」と命名された。榎本はこれに接舷移乗攻撃(=アボルダージュ)*という、
艦船奪取のための奇策を実行したが、その占拠に失敗し、大打撃を受けて敗走するにいたった(宮古湾海戦)。
かくして、殆どの艦船を失った旧幕府海軍にとって、その海上パワーバランスの劣勢は今や決定的なものとなり、
榎本らは1869年5月17日に降伏した。 [右画像: 拡大画像: x26099.jpg]
尚、榎本の非凡かつ無二の才を惜しむ新政府関係者らによる助命嘆願活動もあって、榎本は一命を取り留め、東京にて投獄された。
その後、榎本は1872年(明治5年)特赦により出獄し、更にその才能を買われて新政府に登用された。
1874年(明治7年)1月に駐ロシア特命全権公使となり、同年6月サンクトペテルブルクに着任した。翌1875年8月には樺太・千島交換条約を
締結した。また、1885年(明治18年)の内閣制度の成立後は、6つの内閣において、逓信大臣、文部大臣、外務大臣、農商務大臣を歴任した。
[2014.7.14 北海道・おたる都通り商店街にて][拡大画像: x26098.jpg]
* フランス語"アボルダージュ"とは.
abordage: n.m.[海][敵船に闖入 (ちんにゅう) して攻撃するために船が] 舷側に近づくこと; [敵船への] 乗り込み;
[船の] 接舷、着岸、接岸、[海][敵船攻撃のための; 攻撃を目的とした他船への] 接舷、横付け、接舷攻撃、[船などの] 衝突、接触、接触事故;
大船の舷側に艀 (はしけ) を付ける操縦; [陸上拠点などの] 攻撃.
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