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浦賀港は、神奈川県三浦半島のほぼ先端にある。その地先にある海は浦賀水道と呼ばれる東京湾へのほぼ入り口に当たる。
浦賀港のある入り江の西岸中程の岸辺に、その昔江戸幕府・浦賀奉行所の出先機関である船番所が置かれていた。
番所による公務は、1721年(享保6年)から1872年(明治5年)までの約150年間続いた。
船番所は江戸湾へ出入りする全ての船の乗組員と積み荷を検査する、所謂「船改め(ふなあらため)」を行なっていた。
現在その番所の跡地に初の案内板が立てられている。その一つは「浦賀行政センター市民協議事業・浦賀探訪くらぶ」によって設置された
「船番所跡」と題するパネルである。上段の画像はそのパネルを背景にして切り撮った海辺(港口辺り)の寸景である。
もう一つは、同じく「船番所跡」と題して浦賀観光協会によって設置された案内板である。因みに、下段の画像は、同協会設置のパネルに
掲示された「異国船を取り巻く船番所の警備船」である。それらの説明書きをベースにして、船番所について紹介する。
18世紀に入る頃から、関西方面からだけでなく東北や南関東方面からも江戸へ大量の物資が運ばれて来るようになった。
幕府はこの流通変化に対応するため、1720年(享保5年)12月、伊豆下田にあった奉行所を浦賀に移転させ、江戸湾へ出入りする全ての船の
乗組員と積み荷を厳しく管理した。この船の検査、即ち「船改め」を行なったのがこの番所である。
「入り鉄砲に出女」を取り締まる海の関所、船の関所として重要な役割を果たした。
浦賀奉行所は、積み荷の中でも、生活必需品の米、塩、味噌、木綿 (もめん)、薪 (まき) など11品目につき、3か月毎に集計したものを
幕府の勘定奉行に提出していた。1日に50隻にも及ぶ船が出入りしていたので、船改めの公務は浦賀奉行所の役人だけでは人手が足りず、
廻船問屋の人たちにも業務が委託された。与力 (よりき)、同心 (どうしん) の監督の下、「三方 (さんぽう) 問屋」と呼ばれる下田と
東西浦賀の廻船問屋100軒余が、昼夜を通して実務をこなした。
なお、この頃になると外国船が日本近海に出現するようになり、1837年浦賀沖にも現われた。
船番所はそうした外国船にも対応をしなければならなくなった。
[注] 与力とは、江戸時代に奉行所などに属した役人。与力は自身の部下である同心を指揮して警察などの任務についた。
船改めの活動は、江戸における経済の安定化、因みに需給を掌握した上で物価の安定化を図る上でも極めて重要なものであった。
江戸の経済を動かすほどと言われた所以である。また、廻船問屋による大掛かりな公務補佐活動は、港町・浦賀の繁栄にもつながった。
なお、1868年慶応4年閏4月に浦賀奉行所がなくなっても、船改めは継続され、その業務が閉じられたのは1872年(明治5年)3月であった。
[2014.10.29. 神奈川県・三浦半島、浦賀港にて]
1. 遠くに房総半島と浦賀水道辺りを望む。手前は浦賀港入り口付近の水域。 [拡大画像: x26460.jpg][拡大画像: x26461.jpg]
2. [拡大画像: x26464.jpg][拡大画像: x26463.jpg: 説明書き「船番所跡」/浦賀観光協会設置の案内パネル]
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