1853年7月8日(嘉永6年6月3日)、米国マシュー・カーブレイス・ペリー提督が率いる4隻の艦隊 (俗にいう4隻の黒船)が浦賀沖
に来航し、投錨した。
[参考] 黒船4隻(サスケハナ号、ミシシッピー号、プリマス号、サラトガ号)が着達した同年7月8日における、日本での最初の投錨地は、
江戸湾 (東京湾) の湾口に当たる浦賀沖であったが、ペリー提督らの久里浜上陸日の7月14日には4隻とも江戸湾内である現在の本牧沖
辺りまで入り込んだ。更に、ミシシッピー号は翌15日に現在の羽田沖まで歩を進めた。
4隻のうちいずれの船かは不詳であるが、江戸湾内の水深測量を行ったとされている。
当時日本は領海幅員を3海里であると、また、江戸湾を内水であると宣言していた訳ではない。日本が領海幅を3カイリと公式に宣言したのは
明治期になってからである。それも時の明治政府は、海上での距離単位である浬 (1,852メートル) ではなく、陸上での距離単位の里を
用いた。政府は後にこの誤りに気づき、公式に訂正を行なっている。また、内水は領土と同じで、外国船は許可なく入ることはできない。
江戸湾口で最も狭い所は10kmあるかないかの距離にある。当時の欧米諸国による慣習国際法からすれば、領海幅員は3海里であり、江戸
湾口距離が、1.852km×3×2=11.11km以下であれば、江戸湾は内水と認識されたはずである (当時の測量技術で正確に湾口距離が
測量しえたことが前提になる)。米国側において、当時の国際海洋法からすれば、江戸湾は内水であり、
江戸幕府から許可を得ない水深測量は違法であるとの認識あるいは疑義を抱いていたかどうか、興味あることろである。
ペリー提督ら使節団一行は、同年7月14日(嘉永6年6月9日)に、久里浜の野比海岸に上陸した。江戸幕府が建てた臨時の応接所において
接遇されたペリー提督は、米国フィルモア大統領(President Filmore)から幕府に宛てた、開港と通商を求める親書を差し出した。
開港と通商の許可を希求する親書への回答は翌年に実現された。かくして、歴史はまさに動いた。黒船4隻の来航時までには、
ロシア、英国、米国などの幾多の外国船が来航し通商を求めていたが、鎖国政策の大転換を実現させるには至らなかった。
だが、ペリー提督の、外交交渉権を託された人物以外との交渉を拒否するという外交戦術、江戸湾内深くに黒船を進航させるという
威圧戦術は、国是・国策の大転換の発火点へと幕府を追い詰めた。
画像(左)は、ペリー提督の帰国後、写真家ブレイディによって、湿板写真法(ガラス板の感光膜にネガ像を写し撮り、印画紙に焼き付ける技法)
をもって写されたものである。撮影の期日は不明である。展示: 久里浜・ペリー記念館。
画像(右)は、同じくペリー記念館に展示されたペリー提督立像の図である。
[2014.10.29. 久里浜・ペリー記念館にて][拡大画像: x26486.jpg][拡大画像: x26487.jpg]
マシュー・カーブレイス・ペリー提督(Commodore Matthew Calbraith Perry, USN, Commander-in-Chief, the US Naval Forces
East India, China and Japan Seas)
1794年4月10日、ロードアイランド州ニューポートで生まれる。15歳で海軍士官候補生となり、世界の海で士官の経験を積む。
日本遠征から帰国後、「日本遠征記」を編纂する。1858年3月4日、63歳にてニューヨークで没す。
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