製鉄所建設の系譜
横須賀製鉄所(後に横須賀造船所、海軍工廠などと改名される)の建設には2人の人物が中心的役割を果たした。一人は江戸幕府の幕臣で
あった小栗上野介忠順 (おぐりこうずけのすけただまさ) である。もう一人はフランス人フランソワ・レオン・ヴェルニーである。
江戸幕府は、1853年のペリー来航後横浜などを開港したものの、欧米列強と伍していくためには諸々の近代化を推進する
必要があった。その一つが軍艦船を建造するための近代的な造船所を建設することであり、海軍力を増強することであった。
そのための計画を推し進めた人物こそが江戸時代末期を駆け抜けた小栗忠順あった。彼は幕府の勘定奉行、外国奉行などを
歴任した。
小栗は当初造船所建設と技術指導への協力を米国に要請したが、米国は国内で南北戦争が起きていたため拒まれた。
他方、小栗の親友の助力を得て、駐日フランス公使ロッシュと交渉し建設を依頼する。その結果、当時中国・上海に勤務していたフランス人
技師ヴェルニーが招聘され、必要な現地調査を横須賀で行なった。その後、ヴェルニー所長以下多くのフランス人技術者に
その建設、運営が委ねられた。
製鉄所は艦船の修理と造船を主な目的として建設された。建設は江戸末期に幕府によって手掛けられたが、江戸城の無血開城後は
明治政府によって引き継がれた。所内では国内各地の工場用機械なども製造した。端的に言えば、製鉄所は日本の工業近代化
を歩み始める起点となり、日本の殖産、工業力の向上を支えた。
小栗上野介忠順の略史
・ 1927年(文政10年)、江戸に生まれる。
・ 1853年(嘉永6年)、ペリーが日本に開国を求めて浦賀・久里浜に来航する。翌年には開国する。
・ 1858年(安政5年)6月、勅許をえないまま江戸幕府大老井伊直弼 (いいなおすけ) によって日米修好通商条約が調印される。
翌年1859年、同通称条約の批准書交換のため幕府は米国に外交使節団を派遣することになった。正使・新見豊前守正興 (しんみぶぜんのかみ
まさおき)、副使・村垣淡路守範正 (むらがきあわじのかみのりまさ)、目付・小栗忠順 (おぐりただまさ) らであった。約9か月にわたる
海外視察を経て、近代化のために何が必要とされるかなど多くのことを学び取った。
・ 1860年11月、小栗外国奉行に就任。
・ 1861年3月、ロシア軍艦が対馬を占拠する。当時外国奉行の小栗が外交交渉を行うも退去に失敗する。
・ 1862年6月、再び勘定奉行に任じられ、上野介と改める。小栗36歳。
・ 1865年(慶応元年)、幕府とフランス公使との間で、横須賀製鉄所 (後に造船所) の建設計画が合意される。同年11月鍬入れ式
(起工式) 実施。明治時代に入っても建設事業は継続された。
・ 1868年(慶応4年)4月1日、本格的な洋式造船施設として、横須賀製鉄所が新政府に引き継がれる。
・ 同年4月6日、現在の群馬県高崎市において、小栗斬首される。享年42歳。
・ 1871年(明治4年)、第1号ドックが完成する。それと共に横須賀造船所と改称される。ドックは現在も米海軍横須賀基地内
にあって、かつ現役で使用されるドライドックとしては日本最古である。
その後幾度かの改編や改称を経て、1903年 (明治36年) から1945年 (昭和20年) までは横須賀海軍工廠となり、施設の拡張が続いた。
ヴェルニーの略史
1837-1908年。1856年パリのエコール・ポリテクニク入学。1858年海軍造船大学校へ進学。
フランス海軍の技師。ブルターニュ地方のブレスト市で造船技師を務める。造船技術者として中国寧波(にんぽー)で
造船業務に従事。28歳で来日。12年間、横須賀製鉄所建設と運営に従事する。1876年 (明治9年) 帰国する。
欧米の先進技術の日本への移転と人材育成に貢献する。
記念館に展示される実物のスチーム・ハンマー
0.5トンおよび3.0トン・スチーム・ハンマー (steam forge hammer)。1865年オランダで製造され、翌年幕府が輸入した。
製鉄所に設置され、船舶部品を製造するなどに用いられた。設置以降130年使用された。
蒸気のパワーでハンマーを持ち上げた後に自然落下させ、金属の鍛造作業を行う。一種の金属加工機械である。
[画像撮影 2016.6.15 ヴェルニー記念館 (Verny Commemorative Museum) にて]
|