一枚の特選フォト「海 & 船」
ロシア・プチャーチンと戸田号(船体構造模型・系譜) [戸田造船郷土資料博物館・駿河湾深海生物館]
画像は、西伊豆海岸沿いの漁師町・戸田 (へだ) にある「戸田造船郷土資料博物館・駿河湾深海生物館」(Heda shipbuilding & cultural
museum & Suruga-Bay deepsea life museum)に展示される、洋式帆船の戸田号の大型構造模型である。船尾には「戸田号 安政二年三月」
と記される。 説明パネルでは、ヘダ号(縮尺1/10) 全長240㎝ 幅66㎝、高さ260㎝、杉村宗作氏製作、 建造された戸田号は100トン級スクネール型帆船 50人乗り 費用は当時で約3,100両2分、と記される。東海大学博物館所蔵。 博物館では、ロシアの使節エフィーミー・ヴァシーリエヴィチ・プチャーチン(Jevfimij Vasil'jevich Putjatin)の来航、ロシア艦 ディアナ号の破損、戸田号の建造などの史実について詳細な紹介がなされる。以下は展示のプチャーチンの経歴略年史を参照したもの。
・ 1853年(嘉永6年)、軍艦4隻を率いてパルラダ号にて長崎に入港する。 ・ 1854年(嘉永7年)、長崎に再航し、日露修好条約草案を提出したが、幕府から開港をえるにいたらず。 ・ 1854年11月大阪湾天保山沖に来て、翌月に下田に入港する。(11月27日安政に改元) ・ 安政元年12月、日露和親条約、条約附録に調印する。この条約で千島列島の分界をエトロフ、ウルップ両島間に設定し、樺太定界は保留 とされた。 ・ この談判中であった1854年11月4日、大津波に遭遇し、ディアナ号を破損する。このため、伊豆戸田において造船に着手することになる。 ・ 586名のロシア使節のうち、プチャーチン以下40数名が戸田号で帰国し、残りの者たちはドイツ船とアメリカ船にて帰国の途に就く。 かくして、戸田においてロシアから日本に西洋型帆船の造船技術が伝えられる歴史的な機縁となった。 [画像撮影: 2014.11.20 戸田造船郷土資料博物館・駿河湾深海生物館(Heda shipbuilding & cultural museum & Suruga-Bay deepsea life museum)にて][拡大画像: x26541.jpg] |