一枚の特選フォト⌈海 & 船⌋
長崎海軍伝習所と出島 [墨田区 勝海舟生誕之地]
墨田区の「勝海舟生誕之地」碑には「幕末絵巻 勝海舟の歩みと様々な出会い、鳶が鷹を生んだ 勝海舟誕生 文政6年 (1823年)」
と題する絵巻調パネルが添えられている。そこに「長崎海軍伝習所絵図」(公益財団法人鍋島報効会所蔵)が記されている。
絵図には江戸幕府が1855年に長崎に創建した海軍伝習所、そのそばには出島が描写されている。図絵には次のような説明が
添えられる。
ウイキペディアを参考に略史を綴る。 ・ 幕府は、1638年春に、島原半島と天草諸島のキリシタン百姓が起こした、いわゆる島原の乱を鎮圧した。 以降、幕府はキリシタンの摘発をさらに強化し、禁教の徹底のためにカトリック国であるポルトガルとの関係を 断絶しようとした。 ・ 1639年、幕府はポルトガル人を出島から退去させる。 ・ 1641年、オランダ東インド会社の商館を平戸(ひらど、現在の平戸市)から出島へ移すように幕府から求められた オランダ(商館長カロン)はこれを受け入れる。オランダ東インド会社社員等のオランダ人は、それ以降約200年間にわたり、 武装や宗教活動の規制下、幕府の監視に置かれながら出島に居住した。 ・ 1854日の米和親条約締結によって日本は開国する。翌1855年(安政2年)における日蘭和親条約の締結によって、オランダ人の 長崎市街への出入りが許可された。 ・ 1856年の出島開放令と共に、出島の日本人役人が廃止される。3年後の1859年に出島にあったオランダ商館も閉鎖される。 これによって事実上「出島」としての機能と存在意義は失われた。 [2017.6.20 東京都墨田区・勝海舟生誕地之碑にて][拡大画像: x27848.jpg][拡大画像: x27847.jpg] |