一枚の特選フォト⌈海 & 船⌋


One Selected Photo "Oceans & Ships"

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北前船の艤装や各部名称

画像は敦賀市街地の港地区に所在する「きらきらみなと館」の前に設置された、北前船に関する案内パネル(1999年に敦賀港開港100周年 記念として整備されたもの)から切り撮ったものである。

「北前船とは」と題する説明書きには概略次のように記される。

    1. 船の成り立ち
    江戸時代、大坂などの上方 (かみがた) の人たちは北国 (ほっこく) 地方の廻船を北前船 (きたまえぶね) と呼んでいた。
    はじめは、「北国船」(ほっこくぶね) と呼ばれ、筵 (むしろ) を帆に用いたが、風がない時は櫓 (ろ) で漕いだ。そのため大勢の水主 (かこ) (船員) を必要とした。
    「ハガセ船 (せん)」といわれる船は、船尾が鳥の「羽交」(はがい) に似ていることからその名が付けられた。この船も櫓で漕ぐために、 水主らは大変疲労を余儀なくされた。
    他方、「弁才船」(べざいせん) は木綿の帆で風の力を最大限に利用しているので、水主も余り多く必要とせず、また荷物も多く積める ということで、北前船として多用されるようになった。

    2. 航路と荷物の輸送
    寛文12年(1672年)河村瑞軒 (かわむらずいけん) によって開拓された西廻り航路によって、蝦夷地 (ほっかいどう) と上方 (大坂) との間を 往復することができた。
    酒・紙・米・木綿・塩・筵などを船に積み、5月下旬に蝦夷地に着き、帰りには鯡 (にしん)・昆布・数の子・ 白子などの海産物を積んで11月に大坂へ戻るという交易を行なっていた。

    3. 敦賀との関係
    約600年前から、京都の商人によって蝦夷地の昆布を敦賀まで運び、琵琶湖を渡って京都へ運ばれたのが始まりであった。江戸時代に なると、近江商人の活躍によって、敦賀は重要な港町として発展した。
    伊勢茶・美濃茶・近江茶が港から大量に積み出され活気づき、「茶町 (ちゃまち)」が誕生した。また、海産物を輸送するのに筵の需要が 高まり、沓見 (くつみ) では筵の生産が盛んになった。さらに、船の安定と移出 (いしゅつ) のために釘が多く必要とされたことから、 港近くの町には釘づくりの鍛冶職人が集まった。
    船に用いられた船箪笥 (ふなだんす)・机などの唐木細工 (とうぼくざいく) では名人・名工が輩出した。現在敦賀まつりで曳かれる山車 (だし) もその工芸品の名残といえよう。


北前船のような和船の大きさは石 (こく) の単位で表わされる。○○石積み (ごくづみ) と表現される。
千石積み (せんごくづみ) の船とは、千石分の重量 (150トン) を積める船のこと。なお、一般的に700~800石積みでも、 千石船 (せんごくぶね) と呼ばれることが多かった。

* 移出: 一地方から他地方へ貨物を送り出すこと。

[2017.10.14 出典: 敦賀市街区の港地区に所在する「きらきらみなと館」前に設置された、北前船に関する案内パネル (1999年に敦賀港開港100周年記念で整備されたもの)。 [拡大画像: x28082.jpg][拡大画像: x28083.jpg: 全国図「北前船 (きたまえぶね) の 主な寄港地」][x28082-2.html: 説明書き]


北前船の主要な構造各部名称

蝉(せみ)
帆摺(ほずれ)
帆印(ほじるし):四角い主帆に大きく描かれ、他船と区別するための印
帆桁(ほげた)
手縄南蛮(てなわなんば)
手縄(てなわ)
両方綱(りょうほうづな)
身縄(みなわ)(4本)
幟(のぼり)
舵塚(かじづか)
舵(かじ)
帆摺管(ほずれくだ)
弥帆(やほ)
筈緒(はずお)
弥帆柱(やほばしら)
逆南蛮(ぎゃくなんば)
伝馬船(てんまぶね)
碇(いかり)
脇取綱(わきとりつな)


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