ニコライ・レザノフについての若干の系譜
Nikolai P. Rezanov; 1764-1807年; ロシア帝国の外交官
・ N.レザノフは、アーダム・ヨハン・フォン・クルーゼンシュテルンによる帝政ロシア初の世界一周航海(1803年に出航)の後押しを
するとともに、自らその遠征艦隊の隊長となり、1804年(文化元年)長崎へ来航した。
1792年におけるアダム・ラクスマンのロシア帝国初の遣日使節に次ぐ第2次遣日使節となった。
・ レザノフは、日本人漂流民の津太夫(つだいゆう)(下記参照) 一行を送還するとの名目で、正式な国交樹立のために、
ロシア皇帝アレクサンドル 1 世の親書を携え、正式の遣日使節団を率いて来航したものである。先にラクスマンに付与されていた
信牌(通航許可証)を携えていた。
クルーゼンシュテルンの世界一周航海の艦隊はペテルブルグから出航し、南米周りで太平洋を航海して、先ずはカムチャツカへ到着した。
クルーゼンシュテルンは艦隊の旗艦である「ナジェージダ号」の艦長を務めた。
レザノフは津太夫と同じ日本人漂流民の仲間であった善六から日本語を学び辞書を作る。
・ 1804年(文化元年)9月、レザノフ一行は長崎の出島に来航する。レザノフらは半年間出島近くに留め置かれる。翌年、長崎奉行所は、
中国・朝鮮・琉球・オランダ (紅毛) 以外の国との通信・通商の関係を保持しないのが国法である、と通告し通商を拒絶した。
1805年4月レザノフは長崎を去り、カムチャツカへ向かった。
・ レザノフは、長崎での交渉の経験から、「日本に対しては武力をもって開国させる以外に手段はない」と上奏したが、後にそれを撤回した。
しかし、部下のニコライ・フォヴォストフが単独で、1806年にカラフトの松前藩番所、1807年に択捉港などの各所を襲撃した
(フォヴォストフ事件、文化露寇)。
・ レザノフは、カムチャツカからペテルブルグに向けてシベリアを横断中であった1807年にクラスノヤルスクで病死する。
日ロ関係は1806-1807年の「フォヴォストフ事件」により緊張する。そして、1811年にゴローニン事件が発生する。
1806年(文化3年)9月、ロシアのフヴォストフらがカラフトに来襲する。
1807年(文化4年)4月、ロシアのフヴォストフらがカラフト・エトロフ島に来襲する。
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