一枚の特選フォト「海 & 船」


One Selected Photo "Oceans & Ships"

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京都・高瀬川の舟入址と高瀬舟の舟曳風景(古写真)(その 3)

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京都・高瀬川の「七之舟入址」は、京都市街地をほぼ南北に流れる高瀬川に架かる「たこやくしはし」 (蛸薬師橋) のすぐ傍にある。 言い換えれば、高瀬川と平行する木屋町通と、それと直交する蛸薬師通との交点にある。画像1-3は、その舟入址に掲示された、 明治時代の高瀬川において高瀬舟を曳く風景写真である。画像4は高瀬舟の掲示写真である。

「高瀬川七之舟入址」と題する史跡立札によれば、その舟溜り場を「一之舟入」 (いちのふないり) という。舟入とは船荷の積み下ろしや船の 方向転換を行なう場所である。二条から四条の間に9か所造作されたが、「一之舟入」を除いて全ての舟入が埋め立てられた。 古文書などによれば、寛永~元禄年間のうち凡そ50年間使用されたという記録があり、寛永年間には間口7間、奥行32間の広さがあった。

高瀬川は保津峡の開発などで有名な江戸時代初期の豪商・角倉了以 (すみくらりょうい)・素庵 (そあん) 父子が、慶長16年 (1611年) に一之舟入 付近を起点にして着工、同19年 (1614年) に伏見まで開通させた、物流用の運河である。この一之舟入辺りを起点にして 鴨川から取水し、鴨川に平行して東九条まで南下し、鴨川を横断し伏見に通じていた。水深が浅いことから、底が平らな高瀬舟という 船が使われ、そのことから川の名前が付けられた。盛時には百数十艘の舟が上下し、大阪などからの物資が伏見を経て運び込まれ、京都の 経済生活を支える重要な機能を果たした。木屋町筋には「木屋町」という町名の由来となった材木屋をはじめ、多くの問屋が建ち並んで 賑わっていた。明治以降、高瀬川は次第に舟運の機能を失い、大正9年 (1920年) に舟運は廃止された。

画像1-2: 京都府立総合資料館 京都府民の暮らし百年 378ページ
画像3: 森安正 京都絵葉書100年のおどろき 絵葉書文化を楽しむ会 2010、90ページ
画像4: 著者不詳 意外と知らない京都 京都新聞出版センター 2012、266ページ
[撮影年月日:2019.6.12/撮影場所: 京都市街・高瀬川沿いの七之舟入址 (木屋町通と蛸薬師通の交点) The 7th basin & berth for takase-bune boats along the Takase-gawa, Kyoto]

1. [拡大画像: x28504.jpg]
2. [拡大画像: x28505.jpg]


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