海洋総合辞典 Comprehensive Ocean Dictionary, 特選フォト・ギャラリーPhoto Gallery, 奈良・平城京歴史館・遣唐使船Kentoushi Ship, Heijoukyou historical pavillion, Nara

一枚の特選フォト⌈海 & 船⌋


One Selected Photo "Oceans & Ships"

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遣唐使船 (5)/朱雀門&網代帆

「網代帆」(あじろほ)と題する説明パネルには次のように記されている。
    「「吉備大臣入唐絵詞」(きびだいじんにっとうえことば)には帆が描かれていませんが、他の絵巻物では 遣唐使船には網代帆を描いています。網代帆は竹や葦(あし)を薄く削った物を平らに編んで作った網代を竹で縛って 継(つな)ぎ合わせた帆です。
    網代帆は堅い帆ですから意外に性能が良いのですが、風が編目から抜けるのと重いのが欠点です。中国では19世紀頃まで 長い間使われ続けました。 布の帆は風を受けると袋のようになりますので、布製が普及しても中国では帆に竹を結びつけて帆が袋のようになるのを 防いでいました。
    日本では網代帆を使わず藁(わら)を編んだ筵(むしろ)を継ぎ合わせた帆を使いましたが、遣唐使船や江戸時代の朱印船 (しゅいんせん)などの絵画では網代帆で描かれています。」
[2010.09.18 平城京歴史館/遣唐使船(復原)にて][拡大画像: x22777.jpg]

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1. 帆柱 (右側から前檣、後檣) &網代帆。 [拡大画像: x22778.jpg]
2. 後檣&網代帆。船側に沿って取り付けられた竹の束の上部に細長く厚板が施されている。これは「艫棚(ろだな)」と 称される。 [拡大画像: x22779.jpg]
3. 甲板風景(船首から船尾方向をのぞむ)。右手前の屋形は「雑居部屋」、その後方に帆柱(後檣)がある。 [拡大画像: x22780.jpg]
4. 後檣の後方に「賄い部屋」(下記の「参考 1」を参照)があり、その後方に「遣唐大使の部屋」(下記の「参考 2」を参照)、 さらに船尾へと続く。 [拡大画像: x22781.jpg]

[参考 1] 「賄い部屋」と題する説明パネルには次のように記されている。
「「吉備大臣入唐絵詞」などの遣唐使船の絵には、甲板の上に三つの屋形があります。船尾の屋形は遣唐大使の部屋として、 真ん中の少し小型の屋形は竈(かまど)を据えて火を扱っていたのではないかと想像しています。
遣唐使船では航海中に何を食べていたのか正確な記録はありませんが、1日あたり干飯(ほしいい)(ご飯を乾かしたもの) 1升と水1升を支給した記述がありますから、これが主食でそれに何かの干物などを食べていたと考えられます。 干飯に水をかけてもなかなか柔らかくなりません、多分お湯を沸かして皆に配ったのでしよう。
航海中に火事を出した記録もあります。夜に明かりを灯したのかもしれませんが、お湯位は沸かしたと思います。」

[参考 2] 「遣唐大使の部屋」と題する説明パネルには次のように記されている。

「帆船では船尾に近い所に位の高い人の部屋を設けていました。この遣唐使船でも、三つある屋形の一番 後ろの屋形が遣唐大使の居室だったのではないかと思います。大使は高位の貴族であったため、大使だけは一人で一つの 居室を使っていたでしよう。
ただし、三つの屋形とも甲板の下に空気や光を入れるため甲板を大きく切り抜いていたはずですから、少なくとも 昼間は明り取りのために蓋を開けていたに違いありません。そう考えるとたいして広かったとは言えないかも知れません。
絵巻物ではこの上に太鼓を描いている絵があります。艪(ろ)を漕ぐ時に太鼓を叩いて合図したのでしよう。 頭の上で太鼓を叩かれてはと少々気の毒になります。」

関連サイト: 世界の海洋博物館-日本


1  「遣唐使船/平安時代」
(展示:広島県因島の因島 水軍城に所在する広島県因島市史料館-海の歴史民族資料展)[2010.09.20][拡大画像: x22754.jpg]

2   「7世紀の遣唐使船」
(展示:同上の因島水軍城に所在する水軍資料館/船の史料館)[2010.09.20][拡大画像: x22755.jpg]

3   遣唐使船の模型
(展示:名古屋海洋博物館)[2010.09.21][拡大画像: x22753.jpg]


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