一枚の特選フォト「海 & 船」


One Selected Photo "Oceans & Ships"

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内陸水運をになう平底舟「ひたら舟」 (復元船)

「見沼通船堀」は、「見沼代用水」の東縁と西縁の2本の水路と、それら両水路の間を流れる芝川とを東西に結びつけた運河である。 芝川は荒川へとつながり、さらに江戸・東京湾へと通じる。かくして、芝川は、排水路としての機能だけでなく、見沼田んぼと江戸とを結ぶ 重要な通船路(boat canal)としての機能を担った。見沼代用水も同じく水路縁辺の村々のための通船路の機能を果たした。

さらに、舟運は、見沼代用水周縁から通船堀の「水の階段」を経て芝川へ、さらに江戸へと通じた。その逆の舟運もしかりである。 通船堀はわずか1qで小規模なものであったが、代用水周縁部の村々と江戸との迅速、円滑な大量輸送を担った。

通船堀を利用して江戸に運ばれたものは、年貢米の他野菜、薪炭、酒、柿渋などの代用水縁辺の村々の生産物であり、江戸からは肥料、塩、魚類、 醤油、荒物などが運ばれ、流通経済の発展に大きな貢献を果たした。

「見沼通船堀と船頭」と題する説明パネル (通船堀の差配役・鈴木家の住居内展示) には次のように記されている。

    「見沼通船に使われた船は「ひらた船」と呼ばれる底が平らな小型船で、大きさは記録に残っている天保6年(1835)の船を例にとると、 長さ6間3尺2寸(約12m)、深さ2尺6寸5分(約80p)、幅は最も広いところで7尺7寸(約2m)ありました。船には大小ありましたが、普通、 米俵を100〜200俵を積むことができました。
    かつては八丁河岸に多くの船頭が居住し、現在も八丁橋の脇にある水神社(すいじんじゃ)は水難防止を祈願して祀られたものです。(以下省略) 」

「見沼通船堀と舟運」と題する説明パネル (同上、鈴木家住居内展示) によると、

    「江戸時代中期の享保16年(1731)、見沼通船堀の完成と同時に幕府から見沼通船の許可が出されると、見沼の新田開発に功績のあった鈴木・ 高田両家が見沼通船堀差配役(さはいやく)に任じられ、通船権を与えられました。通船の経営は、初め江戸の通船屋敷で行われていましたが、 文政年間(1818−1830)になると、八丁の会所で事務をとるようになりました」。


[2012.07.28 見沼通船堀にて][拡大画像: x24649.jpg][拡大画像: x24648.jpg: 説明書き「ひらたぶね」]

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1. ひらた舟。 [拡大画像: x24650.jpg]
2. ひらた舟の主要部名称図。船頭などの居室を「セイジ(船室)」、荷物を積むところを「ドウノマ(荷室)」と呼ばれる。   [拡大画像: x24647.jpg][拡大画像: x24652.jpg:  説明書き「鈴木家住宅付属建物」][拡大画像: x24653.jpg:  説明書き「鈴木家住宅」 について]
3. 通船堀の差配役を務めた鈴木家の住居が公開されている(通常、毎週土・日曜日)。復元船・ひらた舟も保管されている。 住居のすぐ裏手に通船堀がある。 [拡大画像: x24651.jpg]


[参照] 江戸時代初期における「見沼溜井」の溜池づくり、「見沼代用水東縁・西縁」の開削(利根川取水口から 約60kmにおよぶ農業灌漑用水路の造作)、さらに 閘門式運河「見沼通船堀」の開削の系譜、閘門構造・通船メカニズムなど、概略取りまとめた。


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