必須履修科目の「国際海洋法(パートII)」の研究論文の視座を着想できたものの、世界の全ての沿岸諸国の200海里EEZやその他の
非沿岸諸国を対象にするのは荷が重いので、アフリカ諸国のそれに限定して、実証的に論じることにした。そして、地理的偶然による
200EEZの設定の結果からもたらされると推察される主要海洋資源の偏在性や不均等さについて掘り下げて問いかけることにした。
その目途は、アフリカ諸国間においていかに不合理な資源配分上の結果がもたらすことになるレジームであるかを論証しながら、
それでよいのかを問いかけることである。
早速、キャンパス内に所在する二つの「総合図書館」や他学部の幾つかの専門図書館を歩き回り、
アフリカ関連のさまざまな基礎資料を掻き集めることにした。特に、200EEZの質的・量的な格差を将来発現し浮き彫りにする
であろう主要対象パラメーターをもう一度洗い直すとともに、関連データを比較考量しながら海洋資源ポテンシャルの遍在性を
読み解こうとした。
このデータの分析と平行して、論文の取りまとめ方そのものを模索し、かつ論究の全体的概要(アブストラクト)を検討した。
その後、章立て・節立て(セクション立て)を行ないながら、論点整理や論理構成・組み立て、そして結論と提言について考えた。最後には、
200EEZレジームに対する全面的あるいは部分的な修正案を模索しながら、何がしかの提言にチャレンジすることにした。
大戦後独立を果たした多くの発展途上国は、一方で、「公海自由の原則」の下に資本と技術を投入し利用することで海からの経済的
恩恵を享受してきた海洋先進諸国に抗しアンチテーゼを大上段に振りかざしてきた。そして、途上国は、自国沖の水産資源や海底石油・ガスなどの
潜在的な非生物資源などを囲い込み自らの発展のために資したいとの観点から、少なくとも離岸200海里に及ぶ排他的管轄権水域を
国際社会に認めさせたいと頑なに主張してきた。
他方で、発展途上国はそれ以遠の公海上の深海底に眠るマンガン団塊などの鉱物資源を、「公海自由の原則」の名の下に、先進諸国に
独占的に開発利用させ、経済的利益を享受させたくはなかった。彼らは、同資源を「人類の共同財産」として国際的規制や管理に服さ
せるべきと主張していた。「G77」と称された途上国グループは、これらの二つの大きな「革命的なリーガル・レジーム」の構築を
目指していたといえる。即ち、一方で彼らの国益の出来る限りの最大化と、他方で国際的公益の最大化という、両益の同時的実現を
目指していたといえる。それは、歴史的かつ壮大な主義主張といえるものであった。
休題閑話。アフリカ大陸には50ほどの国があった。海をもたない内陸国は14か国以上存在した。例えば、マリ、
ニジェール、チャド、ルワンダ、ウガンダ、ブルンジ、マラウィ、ザンビア、ジンバブエ、ボツワナなどである。
それらの内陸国は、他地域の内陸国と協同して条約上のさまざまな特別の配慮を強く求めていた。だが、内陸国に隣接する沿岸諸国
の200EEZにおいて、法制上どれほどのアクセス権や経済的恩恵を享受できることになるかは、当時の海洋法会議の議論では鮮明では
なかった。水産資源へのごく限られたアクセスの可能性を除き、内陸国は海底石油・ガス資源等の何らかの適正配分には預かれそうもなかった。
海岸線の長さは世界の他の地域の沿岸諸国と同様に様々である。特に西アフリカの大西洋に面するセネガルからコンゴ民主
共和国までの沿岸諸国の15か国以上が海への間口、即ち海岸線はわずか2~300kmあるかないかであった。因みに、トーゴは26kmしかない。他方、
最長の海岸線をもつ国はマダガスカル(2,155km)で、次いで南ア(1,462km)、モザンビーク(1,352km)であり、その他は500~800km
を有する。日本のそれは35,000kmほどもある。海岸線の長さと200EEZや大陸棚の広さとは、概して比例しており、資源のポテンシャル
を大きく左右することにつながる。
200EEZの面的広さも千差万別である。マダガスカル、南ア、ナミビア、アンゴラ、モザンビーク、ソマリア、モロッコなどの10か国
ほどが大きく大洋に開かれており、EEZも相対的に広い。因みに、当時においては、マダガスカルのEEZ面積は129.2万平方km、南ア101.7万
平方km、アンゴラは50.8万平方kmである。それ以外のアフリカ諸国は相対的に狭く、数万から数10万平方kmほどである。
地理的不利国も8か国に達する。例えば、紅海に面するジプチ、エティオピア、エリトリア、スーダン、紅海と地中海に面するエジプト、
また地中海に面するチュニジア、リビア、アルジェリアなどである。離岸200海里まで最大限に伸長しようにも、相対国や隣接国の
EEZによって袋小路のように押しこめられたりする。かくして、そこでは相対的に狭小な200EEZがモザイク状に
ひしめき合うことになる。
総じていえば、アフリカ大陸を取り巻く水深200m以下の地質学的な意味の大陸棚の幅員は相対的に広くない。強いて挙げれば、
水深200m以浅の大陸棚を最も広く有するのは南アフリカであろう。チュニジアの沖合いにも水深200m以浅の大陸棚
が広がるが、沖合へ余り伸長できずわずか8.6万平方kmと見積もられる。特に地中海や紅海では、200EEZと同じく、相対国や隣接国の大陸棚
同士がお互いに閉ざし合い、陸棚面積は狭いことが多い。
アフリカ大陸周辺での海底石油・ガスの埋蔵の可能性は全ての沿岸水域において見込まれるという。だが、これまでの事実として、
アフリカ沿岸諸国の年間産出量や推定・確認埋蔵量はかなり偏在しているのはデータ上明らかである。産出量が多い諸国は、ナイジェリア、リビア、
アルジェリア、エジプト、ガボンなどで、埋蔵量も相対的に高い。
200EEZにおける水産資源の年間生産実績や潜在的生産可能性についても千差万別である。FAO漁業統計などに依拠しながら、アフリカ
諸国のEEZの海の豊かさやその潜在的な経済的価値を比較考量し、図解化し「見える化」や「可視化」を図ろうと取り組んだ。
主なパラメーターは、沿岸諸国の漁船隊、年間国別・魚種別漁獲実績をはじめ、漁業生産の潜在的可能性を示唆する植物プランクトンの
一日1平方メートル当たりの一次基礎生産量の海域別分布状況、動物プランクトンの1立方メートル当たりの湿重量などである。
200EEZでの漁獲実績や海産品の輸出収益が多いのは、南ア、アンゴラ、ナミビア、モロッコ、モーリタニアなどである。
また一次基礎生産量の海域別分布が顕著に多く見て取れるのは、南部東大西洋域の南ア、ナミビア、アンゴラ沖水域、および
中部東大西洋のモロッコ、モーリタニア、セネガル、およびコートジボアール、ガーナ、ナイジェリア沖水域である。
海洋生物学的観点から、それらのEEZにおける質・量的豊かさはかなり抜きん出ていると見受けられる。そして、それらのEEZの
面積が広いほど、ポテンシャルはより高くなる。
多金属含有の海底鉱物資源が賦存する海域もある。例えば、紅海は細長く伸びその平均的幅員はわずか数100kmであるため、
その沿岸諸国は比較的に狭小なEEZとその海底・地下を分け合うことになる。
だが、紅海中央部の舟状盆地の深淵部には多金属含有泥が賦存している。泥には鉄、マンガン、亜鉛、銅などを含有する。
その他、南ア、ナミビアなどの沿岸域には、ダイヤモンド、砂金などの漂砂鉱床が賦存する。しかしこれらの鉱物資源も顕著に
偏在している。
アフリカの沿岸諸国も、第一義的には、たまたま持ち合わせる「地理的偶然」によって海洋資源が囲い込まれ分割され、
200EEZの潜在的価値、海の豊かさや不均等さが決定づけられることになるのは間違いない。
200EEZを頑なに主張してきたアフリカ諸国としては、それがもたらすであろうあらゆる質量的な格差や不均等な分配につき、第一義的には
甘んじて受認しなければならない。だとしても、アフリカ諸国はそれでよしとするのであろうか。
そもそも、200EEZは、アフリカ諸国の経済的格差の縮減にどう寄与することになるのか。それが、かねがね抱いていたEEZにまつわる
一つの命題であり視座であった。正直なところ、その貢献のあり方については全く未知数である。そして、普通の常識で考えれば、
地理的偶然によって海の富の分配の著しい格差や不均等さを生み出すことになるEEZに合理性や妥当性があるとは到底考えられない。
さて、分厚い専門書を30分や1時間で読めると豪語していたルームメートのリーディング法のことに戻りたい。印象深く目からウロコの
衝撃的な論説であったので、そう簡単に忘れることはなかった。研究論文に取り組み始めた頃には、このリーディング法をライティング
法として生かそうと考えていた。彼は私にほらを吹くことなく真摯に分かりやすく語ってくれた。簡潔に述べればこういう
ことであった。
専門書には大抵その巻頭に、その書全体の論旨を簡潔にまとめた、要約編としてのアブストラクトが添えられている。
先ずそれらのアブストラクトを通読し、概要を全体的に総覧する。それがなければ、章ごとに記されたアブストラクトを第一章から
最後章まで通読する。先ずそれらを通読すれば、当該書の論旨や概要などをかなり理解することができる。
章(チャプター)はいくつかの節(セクション)から構成される。各節は数多くの段落(パラグラフ、以下「パラ」という)
から構成される。先ず読むべきは、各パラの最初の文章と最後の文章である。そのファースト・センテンスには、そのパラで何が論じ
られるのかが的確に記されている。ラスト・センテンスには、そのパラの結論が記されている。そして、両センテンスの行間には
、パラグラフの結論に至る論理やその他の具体的説明などが記される。必要に応じてその行間を読むことにし、不要ならば次のパラの
ファーストとラスト・センテンスへと進む。こうして、各パラの最初と最後のセンテンスを通読しながら、理解をより深めるために
読むべきと判断する行間記述に目を通して行く。
「アフリカ諸国と200EEZ」 での論理の組み立てと論述に当たり、このリーディング法を肝に命じ、ライティングにチャレ
ンジした。ルームメートに教わったのは専門書の読み方であったが、結果的に教わったことは書き方であった。論文作成においてこれほど役に
立ったことはなかった。
専門書や学術論文などを執筆する場合、そういう組み立て方がなされていないと、読者はリーディングに際してつっかえたり、理解に
困難をきたすことになるという。それが、彼が示唆したかったことであった。これはいわば「コロンブスの卵」であった。
目からウロコの学びでもあった。研究論文づくりにおいて真剣に向き合った
これを十分わきまえずして、バーク教授らに理解してもらえる論文に仕上げられないとの思いで、このライティング・ルールに沿う
よう真剣に向き合った。
休題閑話。当時の第三次海洋法会議における世界的潮流を俯瞰して思うこととして、地理的偶然によって諸国間に海洋の富の
大きな不公平性と不均等さをもたらすことを根拠に、「G77」に対して200EEZの制定化の主張を放棄するよう語りかけることはありえた
であろうか。世界の内陸国はもちろんのこと、いずれの沿岸諸国も海洋資源の偏在性や大きな不均等さに甘んじることになることは
明々白々であった。だが、結論的には、200EEZの秩序化は不可逆的であり、またそれを放棄するよう求めることは、もはや到底不可能
な趨勢であったことも明々白々である。
地理的偶然による200EEZの地球的規模での設定、それによる世界の海洋の富の不均衡、不合理、不公正な分割に向かって、国際社会は
歩み出していた。将来のそんな富の偏在固定化を少しでも緩和するため、その幅員を200海里から50海里へ、あるいは100海里へ縮減すべきではないかと
論じたかった。そして、それ以遠の海をこれまで通り公海と位置づけ、海中、海底、その下については「国際区域」と位置づけ、国際
機構の管理にその資源を服させるようにすべきである、という結論に導きたかった。端的に言えば、沿岸国沖の海域を排他的管轄権下
に置くのは、離岸200海里ではなく、せいぜい離岸50あるいは100海里以内に抑制すべきである。可能な限りの広い海域と多くの
海洋資源を国際社会全体の管轄権下に置き、国際的公益として部分還元に資すべきである、というのが視座であった。
だが、国家の既得権益と言う髙い壁がそこに立ちはだかっている。世界の水深200mまでの地質学上の大陸棚の平均離岸距離は75km
(ほぼ40海里)であった。それをEEZの限界にすることも一策ではあった。だが、到底それではすまなかった。当時の成文法であった
「大陸棚条約」では、沿岸国の大陸棚への主権的権利は、水深200mまで、若しくは開発可能なところまで及ぶと、実に曖昧な定義で
あった。実際には既に、その権利はどんどん沖合の大水深へと拡張されていた。
水深200m以下の大陸棚がずっと沖合へ広がるペルシャ湾、北海、メキシコ湾などでは、離岸50~100海里を超えて、海底石油・
ガス資源が現実に開発されつつあった。また、資源の潜在的賦存性は明らかであった。また、資本や技術があろうとなかろうと、
200海里を超えて水深200m以浅の大陸棚を延伸できる沿岸国は、自国陸地の自然の延長をたどって大陸斜面下部(大陸縁辺部)あたりまで、
その主権的権利を要求していた。他方、地質学上の大陸棚が極めて狭い沿岸国は、逆に、水深にかかわらず離岸200海里
までの管轄権を要求していた。海洋法会議での関心事はもはや、EEZの限界を離岸200海里としながら、水深200m以浅の大陸棚がそれを
超えて延びている場合、一体どこまでを限界にするかということであった。趨勢を逆回転させてEEZの幅員を50海里や100海里へ縮減する
という案はもはや非現実的と思われた。200EEZの制度化はもはや押し戻せない世界の潮流にあった。
200海里幅員のEEZはやむ得ないとしても、世界の諸国間における地理的偶然による海洋資源の配分の不公平性や不均等を
和らげるための何がしかの合理的で妥当な法制に関する提言はありえないのか、それが次の論点であった。そこで提言した一つのレジームは、
離岸50から200海里、あるいは離岸100から200海里の間の公海における水産資源や非生物資源の開発・利用から生まれる生産価額の
何パーセントかを、国連機関などを通じて国際社会に「国際税」として還元し、何がしかの国際公益を確保し、途上国の社会経済的発展への
リソースに資するという視点であった。例えば一人当たりGDP2000ドル以下の途上国などへ配分することができよう。
これは200EEZ法制の基本的フレームをほとんど変えるものではなかった。
論文執筆は1975年のことであったが、ここで時間軸を現在に巻き戻して一言触れたい。国連海洋法条約は国連外交会議10年に
して1982年にようやく採択されたが、その条約第82条に重要な規定が盛り込まれている。
離岸200海里を超える大陸棚における非生物資源の開発によって得られた、生産価額または生産量の1%を、現物拠出するか、または
支払うというものである。その資源の純輸入国はその義務は免除される。手続きは「国際海底機構(ISA)」という深海底の鉱物資源の探査・開発・管理を
行なう機関を通じてなされる。徴収額は、後発発展途上国、内陸国の利益と必要に考慮を払って、衡平な分配基準に基づき配分される
と規定される。私は、この規定をずっと後で知った。
ところで、第二学期を振り返れば、大抵は深夜まで研究室に閉じこもり、リーディングや論文作成などに向き合う日々を送った。
前期にマークしてしまったスコア「C」のリカバリーという、強迫観念的な思いが心底にあったことは疑いないが、この論文作成にそれなりの面白さを
感じていた。平日5日間は授業と研究室での勉学に専念した。朝9時頃から研究室に詰め、寮に帰えるのは深夜がほとんどで、
寮には寝るために帰るだけであった。週末の土日は徹底的に気晴らしに務めた。頭を空っぽになるまで勉学意外のことに専心し楽しんで、
気分転換を図るようにした。さもなくば、頭の片隅に、遊び足らなかったことを惜しむような一種の雑念が残り、平日での勉学に完璧なまでに専心
することはできなかった。提出期限が迫る頃には、研究室に毛布を持ち込み、深夜机上に体を横たえて少し仮眠して疲れを和らげたり、
時にはそのまま朝まで泊まり込んだりもした。ある日の早朝に、バーク教授の秘書が研究室に届け物をするためやってきた。
たまたま私が机上で寝ていて目を覚ましたために秘書はびっくり仰天したこともあった。論文の完成に向けて最後の追い込みに入った
時には泊まり込みも日常的となってしまった。
当時、学徒にとって必需の論文執筆ツールは、IBM社製のタイプライターであった。中古品を200ドルほどで買い取ることができた。
タイプライターは思いのほかアームが重々しく、指でしっかり押さないとアームが勢いよく跳ね上らず、明瞭に印字できなかった。
とにかくアームが重くて、長期間打ち込むと指が疲れてきて上半身もくたびれる。片手2本ずつの指でいわば一本打法的にタイプするのが
精一杯であった。ワープロやパソコンがある訳でなく、何度も打ち直しするのは拷問のようであった。それでも、論文仕上げの
目途がたった頃は、気分も晴れ晴れしくなり指の関節痛も肩こりも取るに足らない軽症程度に思えた。
先ずルームメートに初稿の校正を頼んだ。彼は快諾の上、真剣に見てくれありがたかった。100ページほどの論文に目を通しながら、
赤ペンで修正やコメントを入れてもらった。彼としてはいろいろ細かく手を入れたかったかもしれないが、
赤ペン修正は意外と少なくてほっとした。細かく入れすぎると全てのページをリタイプするのが大変とおもんばかったかもしれなかった。
それとも細かくチェックするときりがなく、時間と労力を節約したのか。それは分からないが、赤ペン修正箇所を中心に手直しやリタイプ
のうえ、バーク教授に期限通りに提出し、ほっとした。
1,2週間後に教授室に呼ばれその結果を得た。バーク教授は真面目な面持ちで、スコア「A」だ、と言ってくれた。そして、即座に、
誰かに見てもらったかと、すぐに問われた。正直に「イエス。ルームメートにチェックしてもらった」と答えた。彼はそれについて特に
コメントしなかったが、彼の顔は「そうありなん」と言いたげな表情を読み取った。後で知ったことであるが、その論文はロー・スクール
の「ジュリス・ドクター・コース」の学生たちのリーティング文献リストに入れられた。これで少しは自信になった。
名誉あることで嬉しかった。
他のターム・ペーパーの提出も終えて開放感と虚無感のミックスしたような何とも言えない精神状態が暫く続いた。
そして、何よりも、「国際海洋法」の成績を少しはリカバリーでき、学業を続ける希望と意欲が湧いてきたことが嬉しかった。
留学からドロップアウトして、失意のうちに帰国することになるのではと、前期末時点にあっては人生で最も落ち込んでいた。しかし、
今は、留学を継続し、国連海洋法担当法務官を目指すという、正気の自分を取り戻すことができた。そのことが何よりも自身への
励ましとなった。それに、些細なことだが、少しは語学能力不足の汚名を返上できたことも嬉しいことであった。その頃のことだが、
「海洋総合プログラム」の最初の日本人留学生が私であったことを知った。今回のスコアで、ドロップアウトするような恥をかくことなく、
またそれより何よりも、留学前にお世話になった恩師などにこれまた大恥をかかせるというリスクを何とか回避できそうだと安堵した。
かくして、私的には第二学期を何とか乗り切れたことで胸に迫り来るものがあった。息を吹き返したように晴れ晴れしく、第三学期
には明るい前途が待ち受けているように思え高揚感に満ちていた。
[参考]留学時代におけるターム・ペーパー「Unpublished Academic Papers」 [注]Q: Quarter/学期
1th Q:『Warships and Transit through Territorial Straits: Sould Missile-carrying Nuclear Submarines Pass
Submerged or on the Surface? (軍艦とその領海化された国際海峡の通航:核搭載潜水艦は沈航又は浮上通航すべきか?)』、
Independent research paper、1974年12月 Prof. William T. Burke (Law School, University of Washington)へ提出、p.46
2nd Q:『The African Developing Nations and the 200-mile Exclusive Economic Zone (アフリカ発展途上国と
200海里排他的経済水域)』、米国ワシントン大学ロースクールIndependent Research Paper、1975年3月 Prof.
William T. Burkeへ提出、p.91
3rd Q: 『Japan and the Creation of New International Law of the Ocean Space: Japan and a 200-mile
Exclusive Economic Zone (日本と新海洋法の創造:日本と200海里排他的経済水域)』、米国ワシントン大学ロースクール
Paper for Ocean Resources Seminar、1975年6月 Prof. T. William Burkeへ提出、p.45
『Supertanker, Navigation, Pollution (タンカー、航行及び汚染)』、1975年5月 Prof. Douglas K. Fleming
(Department of Geography, University of Washington)へ提出、p.21
3rd Q or summer Q:『200海里排他的経済水域に基づいた漁業資源の配分』、1975年 Prof. Edward Miles & Prof. Christy (Institute
for Marine Studies, University of Washington)へ提出、p.15
『Deep Seabed Mining, Potential Environmental Impact and Legal Protection of the Marine Environment (深海海底マンガン団塊
開発に伴う海洋環境へのインパクトとその環境の法的保護制度について)』、1975年 Prof. William T. Burkeへ提出、p.60
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