アルゼンチン「国立漁業学校」プロジェクト3年目の1986年中頃のこと、JICA本部から評価調査団が派遣されてきた。プロジェクト
の実施計画の目標がどの程度達成され成果を上げているのかについて評価し、4年目以降の協力をどうするか、両国関係者で協議
するためである。我々専門家は、オルティス校長をはじめカウンター
パート全員とあれこれ真剣に議論し合い、達成状況などについて数々のデータを揃えて調査団と向き合うための下準備をしてきた。
プロジェクト設立の基本文書で定められた「日ア合同評価委員会」が組織された。「ア」側の正式な委員はオルティス
校長、ジャベドニー副校長、モンテ総務部長ら幹部と各分野のカウンターパート、「ア」海軍教育総局長顧問らであった。
日本側は調査団全員、プロジェクトの長期専門家5名、JICA事務所代表らが正式メンバーであった。また、在「ア」日本大使館員が
オブザーバーとして参加した。プロジェクトサイドから提出された2.5年の実施報告書およびその関連資料
さらに今後半年間の実施見込みに関する資料などに基づき、全体評価と各協力分野ごとの評価につき議論が展開された。
結論として、「漁獲物処理」の分野は当初の計画通りの数値目標を達成しつつあり、残余期間において全て達成しうる見込みである
との意見で双方が一致を見た。他方、「漁具漁法」、「航海」については、未達成の項目が幾つか残されており、残余期間に達成するのは困難な見通しであり、
今後2年間継続して専門家とカウンターパートが協働することが必要かつ適切であるとの見解で双方が合意に達した。かくして、
プロジェクトは2分野につき、1987年4月以降2年間引き続き実施されることが、同委員会で最終合意された。
カウンターパートの日本での技術研修や必要な機材の供与も引き続き実施されることになった。
プロジェクトの実現に向けて交渉していた3年前の1983年に、オルティス校長ら「ア」国関係者は日本からの技術協力を受け入れる意向を
もたないというスタンスから交渉が始まった。その後、粘りに粘って説得を続け、協力期間を「3年プラス評価後に2年延長すること
もありうる」とすることで落ち着いた。当初技術協力を全く受け入れず不要というスタンスであったが、それを3か月間にすることで
「ア」側は歩み寄った。その後さらに交渉の末、3年間にすることで落ち着いた。だがしかし、更に踏み込んで「3年+2年延長も
可能とする」とのウルトラC案への妥協を「ア」側から引き出すという、いわば寝技へと持ち込んだ。今回ついに「3年+さらに2年間」
実施するとの評価に至ったことは、私的には正に
感涙であった。
交渉当時は、「ア」側はプロジェクトの運営がいかなるものか真に想像することができなかったに違いない。初めての海軍との
協力であったので無理もないことであった。「ア」国にとっては、プロジェクトの有益性を十分描き切れなかったことは否めない。
だが、これまでの2.5年間の実施を通して「ア」側もそれなりに学ぶところがあったに違いない。日本との技術協力は、日アの
協働を通じて、(1)「ア」側にとって思い描いていた以上に航海・漁業教育レベルの向上につながること、(2)いろいろ実利的な恩恵
をもたらすものであること、そして(3)何よりもプロジェクトの実施は「ア」国人のプライドを傷つけるもの
ではないことを理解してもらったことを確信する。
アルゼンチンは、漁業学校の施設や実習機材を全面的に刷新するための無償資金協力のみならず、専門家とカウンターパート
との協働による航海・漁業教育の質的レベル向上を図ること、そして「3年+2年間の技術協力」を行なうとの道を選んだ。交渉の最終段階でオルティス
校長と妥協するに至った通りに協力期間を延長することで合意をみた。引き続き2年間実施されることになり、合計5年間にわたること
となった。この中間評価をもって、協力期間の上限を5年間に設定しておいたことの意味をアルゼンチン側に理解してもらえたのではないかと、
プロジェクト設立を交渉した実務担当者としては、熱く胸にこみ上げてくるものがあった。
オルティス校長の胸の内はいかほどであったであろうか。プライドに差し障ってはいけないと、彼の所感を訊ねる
ことはなかった。校長からも延長についての自身の所感を口に出すことはなかった。私的には、3年後はきっとこうなるであろうと、
心の片隅でずっと思い続けていた。4年前の水産室での「独り言」以来、漁業学校の教育向上に何がしか関わることができ本当に嬉しかった。
目標達成が曲がりなりにもここまで漕ぎ着けられたのには幾つかの背景がある。「ア」側の常日頃の真摯かつ迅速な協働への取り組みの努力
があったればこそである。お互いのプライドを傷つけないように努めたことも大きかった。協働のための各目標も明確であったし、
それをやり遂げればその分だけ関係する単元の教育レベルの向上に繋がることが理解された。
学校関係者のほとんどは「ア」海軍で長年勤務し、海軍での規律やしきたりが身に染みついているようであった。
海軍スタイルというか、海軍では上官の命令には絶対的服従が求められるとのスタイルが学校運営にも色濃く持ち込まれていた。
「ノー」とは言わない、また言えない。いつも「イエス・サー」(スペイン語では「シー・セニョール」)の世界であり、指示事項は常に期日内に
やりこなすことが求められたようであった。かくして、海軍退役大佐のひと言の指示で、カウンターパートの教授陣や事務系職員は、
期限を意識しながら真剣になすべき仕事に邁進したと言える。時に日本側が追いていけないほど迅速に対処した。それが
プロジェクトがほぼ目標に近づいたことの背景でもあった。「ア」側のプロジェクトへの真摯な向き合い、理解と協力には感謝する
ばかりである。カウンターパート機関が「暖簾に腕押し」のような組織でなく海軍であったことを本当に良かったと内心思い続けていた。
(かつて、日本の閣議で対「ア」無償資金協力を決定するに際して、ある閣僚から海軍への協力につき疑義が呈されたことがあったと
仄聞したことがあった)。
プロジェクトに1年間の準備期間が制度として正式に組み込まれたことも、着実・安定した運営と成果の発現に繋がったと改めて
再認識させられた。プロジェクトの準備期間は大いに有効であり、その成功のもう一つの遠因であった。JICAではプロジェクトにおける
前代未聞の制度的組み込みであった。それを認めてくれた当時の日本の関係省庁・JICA関係者に感謝してもし切れなかった。スペイン語や生活環境に慣れ、
学校での海技資格制度、航海・漁業などのカリキュラムやそのシラバスなどを把握し、カウンターパートとの意思疎通を図りつつ
プロジェクトの指導・協働計画をしっかりと策定するうえで、1年間はいわば「プロジェクトという卵のふ化」を準備するうえで
大変有効であった。
プロジェクトの延長に当たっては、「漁具漁法」専門家は残留しそのまま引き続き指導に当たることになったが、他の4名は帰国する
ことになった。後に、交替の専門家が順次派遣され、学校で対面方式にて引き継ぎができたことは、その後のプロジェクトの円滑な運営に大いに
役立った。リーダーと調整員は一心同体であるので、二人の席を後任者へ同時に明け渡し、共に帰国することになった。プロジェクトでは、
3年間の実施プロセスを知る者が誰一人として居残らないことになると、新規に運営に当たる専門家がまごつくことになる。また「ア」側に
とっても何かと不都合であり戸惑うことにもなる。漁具漁法専門家の残留はこれまでの活動内容などを伝承する上で大変有意義なことであった。
私も家族も「ア」国文化にどっぷりと浸かっていた。後二年間も「ア」国での生活に一層深く馴染むことになればどうなるのか。
帰国後の日本社会へのスムーズな復帰はさらに難しくなるのではないかと、真面目に不安を抱いていた。このような思考は笑い話のように
思われるかも知れないが、JICA職員としては、合計5年間も南米のラテンスタイルで働き暮らし続けることにはかなりの覚悟が要る
選択である。故に復帰上のリスクを慮って任期延長を希望しなかった。それが正解であった。
アルゼンチンでは家族と共に私生活においても最高にエンジョイし、私的には人生三度目の「青春時代」を過ごしたと思えるほどであった。
最初の青春は高校生時代と、その後ワンダーフォーゲル部にて山歩きに没頭したリアルの大学生時代であった。そして、二度目の青春
はシアトルでの留学時代であった。
後任の専門家への引き継ぎの下準備も視野に入れ始めていた3年目の後半期のこと、オルティス校長から将来ありえるかもしれない
二度目の無償資金協力についての相談に預かっていた。国連海洋法条約が1982年に採択され4年ほど経過していた1986年当時は、諸国は順次その
批准の準備段階にあった。世界では「200海里排他的経済水域(200海里EEZ)」を設定する国々が増えつつあった。世界でも有数の
広大な大陸棚と経済水域をもちうるアルゼンチンにおいて何とかして漁業権益を確保したい、そのために特別枠の水産無償資金協力
予算を有効に活用したい、というのは日本政府の自明の外交的欲求であった。
「ア」側はそれを見透かすかのように次の水産無償協力の候補案件を内々に思い描き模索していても不思議ではなかった。オルティス校長は、
漁業学校を対象とした無償資金協力と技術協力プロジェクトの設立段階での交渉とその後の実施に何年も関与してきた。日本のODA
やプロジェクトの意義、また「ア」国の国益への寄与などについての認識を、同国関係者の誰よりも強く保持していたのは間違いなかった。
また、そのプロセスにおいて思いもよらない多くの学びや発見をしたに違いなかった。校長は、プロジェクト
の実利的な恩恵を再認識するなかで、次の無償資金協力の可能性を視野に入れながら具体的案件を模索しようとしていた。
初回の無償援助対象となった漁業学校プロジェクトは、確かに漁船の航海士・機関士の海技資格の付与や水産教育に関連するものであった。だが、
協力対象となった政府機関は「海軍」であり、その「教育総局」であった。「ア」政府の水産行政に直接的携わる機関は「農牧省」傘下の
「漁業次官房」(Subsecretaria de Pesca)であった。日本としては、その漁業次官房に直接的に向き合い、関わり合いをもちたいに違いなかった。
従って、次のプロジェクトの対象について言えば、誰もが容易に思い描ける機関があった。即ち、広大な大陸棚・経済水域の水産資源の
調査研究に従事する次官房の傘下にある「国立水産調査開発研究所」(略称「イニデップ」(INIDEP; Instituto Nacional de Investigación y
Desarollo de Pesca)であった。マル・デル・プラタにその研究所の本拠地があった。目途はその施設と資機材の刷新のための
協力であった。私的には、それをおいて他にないとの確信をもってイニデップへの無償協力を要請するようアドバイスした。
「INIDEP」はマル・デル・プラタ港の一角を占める海軍基地のすぐ傍の海岸沿いに建っていた。研究所はかつて観光用レストラン
に用いられていた年代物の古い建物の中に収容されていた。誰が見ても漁業調査研究を機能的に遂行するには最適な施設のようには見え
なかった。その他、海洋漁業調査船の供与というアイデアもあったが、すでにドイツ政府による援助によって5,000トン級の「オカ
バルダ号」という近代的大型調査船が稼動していた。
「将来、無償資金協力を要請するのであれば、それはINIDEPの施設の全面的刷新であり、それは漁業当局への全面的かつストレートな
協力となり、水産分野での日ア関係の強化に大きく寄与する」ものとなろうと、オルティス校長に助言した。さらに、「日本の無償資金協力
システムを経験し、最も深く理解する者は貴方しかいない。漁業次官房に対して、その協力要請段階からプロジェクトの完工に至るまで
のあらゆるノウハウを伝授するベスト・アドバイザーとなりうる立ち位置にいる」と、ノウハウの今後の生かし方についても示唆した。
アルゼンチンの実利に繋がることはそれだけではなかった。「ア」国ならびに漁業学校自身が、JICAとの繋がりにおいて、他国への技術
協力に貢献できる可能性があることを幾度か説いた。そして、オルティス校長からのその後の相談にも乗った。即ちJICAの
「第三国研修」制度の存在とその活用の可能性について期待を込めて説明した。
技術協力プロジェクトの延長期間(2年間)が終了した後において、漁業学校の施設・機材のハード的資源と人的資源(学校の教授・
実務関係者など)、さらにこれまでのプロジェクト
運営に関するノウハウを活用して、南米諸国を対象にした第三国向けの「沿岸漁業研修コース」
を数か月間実施するというものである。ペルー、チリ、エクアドル、ウルグアイ、ブラジル、コロンビアなどの南米沿岸諸国の水産教育従事者、
漁業指導者・普及員などを一か国当たり毎年1~2名を漁業学校に招聘し、研修に参加してもらうというものである。
研修経費については、日ア両国折半となる。「ア」側の経費負担分については、現物負担や実際的な諸々の便宜供与によることも可能である。
いずれにせよ、研修内容や経費折半の在り方などの詳細については、海軍・漁業学校とJICAとの間でじっくり協議することになる。
この「第三国研修」には、初期段階から漁業次官房からの何らかの協力上の関与を組み込んでおくことは、「ア」国海軍・漁業次官房と日本の
水産庁・JICAの4者間の関係強化をもたらし、日本側から大いに歓迎されるはずである。早い段階からJICA事務所との交渉を始めることを促した。
アルゼンチンは、日本とのこれまでの水産協力プロジェクトの成果を南米諸国との間でシェアすることができる。
また、「ア」国は自らがホスト国になって実施する対南米諸国向けの水産技術協力について国際的に強くアピールし、外交関係を
強化する機会を得ることができよう。さらに、「ア」国にとっては南米地域で国威を発揚する機会にもなると「ア」側のプライドを
くすぐった。日本とアルゼンチン2か国にとっても、ウイン・ウインの一般的外交関係の積み上げのみならず、水産分野における
協力関係の強化を図ることができよう。
研修には、現在のさまざまな施設(ドミトリーを含め)・実習機材、その他過去に培ったプロジェクトの運営管理ノウハウを
100%生かすことができる。かくして、第三国研修が実現されれば、JICAとの協力関係は、何と1984年から10年間も
つながる。漁業学校を基点(あるいは起点)にしながら、日ア両国が再び手を携えて南米諸国の漁業教育レベルを向上させるために
地域的国際協力を推し進めることになる。本来のプロジェクトの期間が5年となるだけでなく、第三国研修5年間(プラスその延長)を
見据えながら、新たな日ア水産協力の道が切り拓かれようとしていた。他方、漁業次官房は別建ての新たな水産援助(INIDEPへの協力)
を模索することになろう。かくして、日ア協力関係のさらなる強化へのロードを切り拓き、そのゲートウェイへと案内できた
とすれば望外の喜びである。
「ア」国から帰国して5年ほど後のことであったと記憶するが、日本の「会計検査院」が漁業学校に現地会計監査のために訪れた。学校への無償資金協力・
技術協力は所期の成果を上げた最も優れたプロジェクトであるとの高い評価を得たという。そのことを、ずっと後で仄聞することになった。
それが本当であればこれに勝る喜びはない。日アの全関係者の努力の賜物であるが、何よりもオルティス校長らの「ア」側関係者が
ずっとこれまで日本側関係者並びに漁業学校教育に真摯に向き合い、学校施設を大事に維持管理し続けてきた努力の賜物であろう。
私が知る彼らの真摯な取り組みの努力を顧みれば、「その髙い評価はさもありなん」と思われる。「ア」海軍と歴代の校長ら関係者が、
自らの威信と名誉を背負って長く運営管理してきただけのことはあると、彼らの努力を高く評価するとともに、改めて彼らに感謝したい。
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