かくして次の旅では、新たな視点をもってア首連を目指した。一度目は2006年1月、次いで同年4月と7月に弾丸ツアーを行った。
サウジに赴任中、アルコールの欠乏症や異次元生活からくる酸欠症の解消のためにという一途の想いで真っ先に向かった先は
ア首連のドバイであった。サウジには気晴らしになる娯楽的要素がほとんどなく、また映画鑑賞もできず、さらに活力の素であるアル
コール切れを起こし、赴任して半年もすると徐々に蓄積されいたストレスが限界を迎えるようになった。息が詰まるような「酸欠」を感じ、
数ヶ月に一回程度金・土曜日の週末にドバイに出掛けた。だが、アラビア半島を時計回りで旅し、未だ見ぬ半島諸国を探訪すること
を閃いていたので、日中に訪ね歩く関心どころは、歴史文化の知的宝庫である博物館、要塞などの史跡、文化ヘリテージ村、
クリークのダウ船溜り、魚市場、スークなどであった。酸欠解消のためのビールや映画は夜だけの楽しみにした。
20数年前(1980年代初め)のJICA水産室勤務時代に、「UAE水産増養殖センター建設計画」の概略設計調査のため、アブダビを起点に、
ドバイ、シャルジャを経由して、ウム・アル・クウェイン首長国へ出張した。その時に見たドバイの風景とは全く様変わりをしていた。
その頃と比較すると、近代的高層ビルがクリークやペルシャ湾岸沿いに林立し、見違えるような風景にただ驚くばかりで、
浦島太郎のような心境に襲われた。クリークへの入り口近傍には広大な埋め立て地が造成され、巨大コンテナヤードや大型クルーズ船
の埠頭ができ、その変貌ぶりは凄まじかった。特に湾岸沿いの超近代的な高層ビル群が見せる余り人工的な風景にどことなく異様さ
を感じてしまうほどであった。私的には、遠い惑星からやってきた「異邦人」であるかのような錯覚に陥った。
ドバイの湾岸沿いのジュメイラビーチ辺りには、パーム型に埋め立てられる巨大な人工島の造成計画が急ピッチで進められている
ようであったが、工事のためオフリミットであった。遠くからでも人工島の端くれでも眺めたいというアドレナリンも湧いてこず、
その探訪の優先順位は低かった。
先ず市街地中心部「バール・ドバイ地区」の「ドバイ博物館」をじっくり見学することに注力した。博物館は
「アル・ファヒディ・フォート」という要塞が活用されている。要塞は1787年に建造されたもので、ドバイの中で現存する建造物
としては最古とされる。城門をくぐり、四辺の陵塁に囲まれた中庭に入ると、小型ダウ船を含む3、4隻の伝統的な木造小型船の
実物が展示されている。それがはじめてのフォート見学であった。
フォート探訪の最大の目途は、館内をじっくり巡覧しながら、出来るだけ遠い昔のドバイを写した写真を探すことであった。
特に、ドバイの海辺風景、漁撈風景、クリークでのダウ船の貨物積み下ろし風景などの古い写真を探すことであった。
それによって、ドバイがその昔どんな港町・漁村であり、どのように発展してきたのか、その村の歴史を辿って見たかった。
第二の目的は、クリークをまるでアメーバのように往来する「アブラ」と称される渡し船、いわば水上乗合バスに乗船して
クリークの両岸を行き来して船遊びをすること、そして水面からドバイの別風景を眺め、別の顔を発見することであった。
それは初めての体験であった。それに水上バスが往来するクリーク風景を存分に活写したかった。第三に数多のダウ船が
クリークの埠頭に横付けされ、そこで港湾労働者が渡し板を通って貨物を積み降ろしする、躍動感あふれる港風景などを活写する
ことであった。第四に、首長国シャルジャーにある「海洋博物館」を訪ねることであった。その昔幾度かドバイを訪問したが、
これらは一度も体験しなかったことである。
クリークの西側の「バスタキア地区」は昔の伝統的な住居や街並みが遺される歴史文化保存地区であった。旧市街の狭い路地を散策すれば、
まるで昔のアラブ世界にタイムスリップしたような気分になる。湾岸地域では近代的高層ビルの建設ラッシュが進み、摩天楼が生まれつつあった。だがそんな
風景よりも、昔のドバイの実相を教えてくれる史跡や古写真などに関心があった。
ドバイ博物館ではドバイの歴史、文化、社会、産業(漁業・工芸など)を学ぶことができた。民族衣装に身を包んだ蝋人形をはじめ、
昔の職人・庶民の生活やスークなどがジオラマ風にリアルに再現されている。ダウ船の造船所や天然真珠貝を採取する潜水漁師などを再現した迫真のジオラマ
もある。特に真珠採取のジオラマ展示には魅了された。片や、ドバイの100年前の姿を写す古写真はいずこにありやと探し回した。
さて、「ドバイ博物館」では、ドバイの成り立ちや都市形成を理解する上での助けになるような古写真を見い出すことはできなかった。
しかし、唯一枚の写真だけはその想像を掻き立てくれた。その写真は少なくとも半世紀以上前のドバイを空撮したものであった。
ドバイの町全体を真上から写した白黒の平面的航空写真であった。クリークを中心にしたもので、両岸の市街風景や湾口をはっきり
と写し出していたが、画像上下の大半の部分には砂漠が写っていた。
日干し煉瓦で築かれ、ウインドタワーを備えた住居がはっきりと見て取れた。住宅が密集する市街地はクリークに沿ってそれにへばり
つくように狭くて細長く伸びていた。その外延のすぐ際まで砂漠が迫っていた。丸で動物の群れがぎゅーと身を寄せ合うかのように、
住居は主にクリークの西側にへばりつき砂漠から防御しているかのようであった。
この古写真はドバイの成り立ちをいろいろ想像させてくれた。現在摩天楼がクリークの岸沿いに林立する情景からは想像も出来ないが、
ドバイはどこを見渡しても砂漠の世界であったが、ペルシャ湾から砂漠の陸地に深く入り込んだクリークが存在したがゆえに、
その入り口付近にて自然発生的に形成された小さい集落であったに間違いない。恐らくは、黎明期の村民は漁労や天然真珠採取で
もって生計を営んだのであろう。ペルシャ湾岸は水産資源が豊富であり、また特にアコヤ貝などは天然真珠という「金を産む貝」
であり、人々を寄せ付けたに間違いない。また奥行きの深いクリークは、昔からダウ船の避難地・停泊地として、また荷物の積み
降ろしや積み替えの港として最適であったに違いない。かくしてドバイは、沿岸零細漁業に依存する自然発生的なこじんまりとした集落から、
天然真珠採りの一大拠点として、また海上貨物の中継貿易港として繁栄していたのではないかと推察した。ローマ時代から大航海時代に
かけてのドバイの港町・漁村の実相はどうだったのか、興味が尽きない。
沿岸漁業や真珠採取業に従事する住民の他に、ドバイにはダウ船で物や人を運ぶ海上輸送に従事する船乗りや、大勢の波止場労働
者たちが住みつき、町は徐々に拡大していったとも見て取れる。ドバイはその地の利を生かして、ペルシャ湾岸、インドや東アフリカ
方面の諸都市との海上交易の一大中継地として発展してきたのは間違いない。ドバイが地下水に恵まれていたこと、クリークと呼ばれる
奥深い入り江があったことが、その発展の基礎となり、また原動力となり、必然的に海上交易中継拠点として繁栄したといえる。
多くのステベドア(港湾人夫)や商人らも住みつき、小さな漁民集落から港湾貿易都市へと大きく変貌してきたのであろう。
そして、ドバイの政治経済社会を取り仕切る有力な部族長が現われ、ついにドバイ地域を支配する王侯や王族が君臨する世界
へと変貌してきたのであろう。ドバイの発展をざっくりと言えばそういうことに違いない。現在では7つの首長国家が連邦を形成
している。
クリークには「アブラ」という乗合船が市民らのための水上バスとして、クリーク両岸のあちこちに設けられた発着場をひっきり
なしに行き交っている。観光客の足である。クリークの中程2ヶ所に大橋が架かるが、遠回りであり不便この上ない。何度もその
アブラに乗船してみたが、余り変わりばえしないルートを行き来するのに飽きて、ついに一艘のアブラをタイム・チャーターする
ことにした。クリークの最奥近くまで辿ったり、クリークがペルシャ湾と接する湾口付近(入り口の地区: シンダグハ)まで、
のんびりとクルージングした。クリークの水面から見上げれば、ドバイの街並みを別のアングルや目線で活写でき感動的であった。
ドバイにもアフリカ・中近東や南西アジアなどから出稼ぎに来ている。そんな多文化を背負う乗船者らと共に、無数の
アメーバのようにアブラが縦横に行き交う様を沢山活写した。ある時、乗客を載せず空船で疾走するアブラに気が付いて、
思わずカメラを向けた。船頭は操縦席のリクライニングシートを深々と倒し、まるで仰向けに寝っ転がっるような格好で、足だけで
舵を操縦していた。あっけにとられながら、飛沫を巻き上げながら目の前を疾走していく風景を切り撮った。
チャーターしたアブラの船頭にクリーク湾口からペルシャ湾の外洋に出てみたいと頼んだ。湾口付近の形状は、あたかも港湾労働者が
用いる手鉤のように鉤状に曲がっている。だから、外洋が大荒れになっても、クリーク内はほとんど風波の影響を受けず静穏に保たれる。
クリーク湾口付近のクリーク内側にはちょっとした埠頭があり、ダウ船の船溜まりができている。そこにはクリークへのダウ船の
出入りを監視する港湾当局の建物も見て取れた。湾口から外洋に出たすぐの海沿いには、埋立によって外貿用のコンテナ・ターミナルが
整備されている。その埠頭にはキリンのような形をしたコンテナ積み下ろし用巨大ガントリー・クレーンが幾つも林立する。
ペルシャ湾に出て海側から港湾を眺めてみたかったが、「アブラはクリークから外洋には出られない」と、船頭に制止されてしまった。
さて、クリーク東岸の「アル・ラス地区」の海岸沿いには数㎞にわたりダウ船専用の大岸壁がある。総延長1km近くあるかも知れない。
そこには数え切れないほど多くのダウ船が、縦列だけでは物足りず、イワシの串刺しのように5~6隻のダウ船が、舷側を接し合って
横列に停泊している。縦横列をなして居並ぶダウ船の船溜まり風景は圧巻であり、昔の「船乗りシンドバッド」のアラブ世界にタイム
スリップしたかのようである。彼もこんな船溜まりから海に乗り出したかのように思えてくる。まさに「アラビアン・ナイト (千夜
一夜物語)」 のシンドバッドの海洋冒険譚を彷彿とさせる。埠頭には、自動車やそのタイア、家電製品や冷蔵庫などの
白物電気製品、食料品、セメントやその他の建築資材、日用雑貨品などあらゆる商品が足の踏み場もなく、うず高く積まれ、積み込
みを待っていた。
ダウとの積み降ろしは今でもニンフによる人力によってなされている。岸壁から長い厚板がダウ船に渡され、人夫が担いで積み
降ろしている。ダウ船は木造船がほとんどであるが、中にはFRP製のダウ船もある。はるか昔から、マストに巨大な縦帆を張って、
ペルシャ湾周辺国諸や遠くはパキスタン、インド、東アフリカ諸国へと航海した。今日でも頻繁に行き交い、海上輸送の重要な
一翼を担っている。昨今ではダウ船のほとんどが機帆船である。強い良風が吹けば、燃料節約のためエンジンを使わずに帆走だけで
航海するという。時代により運ぶ対象の品物は変わっても、ダウ船で海上輸送する姿は、イスラム教が台頭し布教され出した時代から
千年以上も変わっていないのかもしれない。埠頭を散策し渡し板をまたぎながら、ダウ船や荷物の積み降ろし風景やクリークの
水辺風景などを活写した。
ドバイではその他、これまで一度も探訪しなかった「シェイク・サイード邸」、つまり現在の首長の祖父にあたるシェイク・サイード
の住居を訪ねた。アラブの伝統的建築様式を色濃く遺す近代的な館である。また、近くには「ヘリティッジ・ビリッジ」がある。
昔の伝統的建築様式の住居を再現した博物館には当時の家具調度品も展示されていた。「アル・ラス地区」という旧市街では、魚や
野菜のスーク、金銀宝飾品を扱う「ゴールドスーク」、さらに「デイラ・オールド・スーク」という「スパイススーク」など、
ドバイを象徴するスークを初めてじっくり渡り歩きいろいろ覗き込んだ。スパイススークのどの店にもありとあらゆる香辛料が
麻袋やガラス・ケースなどに容れて並べられ、ミックスした強烈な香りを漂わせていた。ドバイに初めて足を踏み入れた40年前と
全く異なった風景に見えたのは、歳のせいでも何でもない。当時はアラブの世界にほとんど関心がない異邦人の眼をして、それも
街を大急ぎで通過したためであろう。
ドバイでの思いがけない成果は、「フィッシュ・マーケット」を訪ねた時であった。魚市場を10数年ぶりに訪ねたが、
市場はすっかり新装され、何よりも、以前に比べてずっと清潔さが感じられるものとなっていた。魚を陳列する白タイルと、ふんだんの
砕氷の使用が印象的であった。そして、買い物客に魚介類の新鮮さを随分強烈に訴えているところがあった。また、そもそも魚を
買い求める客の圧倒的な多さにも驚かされた。魚貝類への需要の高まりを感じさせた。さて、市場には、ペルシャ湾で獲れる魚をはじめ、漁具漁法
に関する展示館が新たに併設されていることを、その場で初めて知った。また、各種のダウ漁船の写真とともに、その解説が添え
られて学ぶことが多かった。館内のそれらの資料を活写したことは言うまでもない。
もう一つの大きな目的地はシャルジャー首長国であった。ガイドブックでたまたまシャルジャーに「海洋博物館」があること
を知り、是が非でも訪れたいと楽しみにしていた。シャルジャはドバイから100㎞ほどで、それほど遠くはなかった。シャルジャーの
港の埠頭には大小のダウ船や漁船が係留され、そこそこの賑わいを見せていた。さて海洋博物館へ先を急いだ。館内には、
ダウ船の大小模型が陳列され、漁具漁法などが紹介されている他、巨大なダウ船の滑車、天然真珠を選別するために底に小穴を開けて
ふるいにかけ粒揃いにするための容器、真珠選別の天秤と分銅、その品質判定のためのブック、世界最古といわれる
真珠、潜水ウェイト、ダウ船建造のための大工道具などが展示される。
博物館で切り撮った画像を改めてよく見てみた。アラブ諸国の中で、規模は小さいが海洋博物館と称する展示館があるのは大変
珍しいことであった。シャルジャーはその昔、19世紀前半アラビア半島を代表する港として栄えたという。市内には「シャルジャー水族館」も
その近傍に存在していたが、時間の都合で割愛を余儀なくされた。近傍の「ヘリテージ・エリア」も散策した。はるか昔の
シャルジャーと海との関わり合いを学べる。シャルジャーの港では、はからずも数基のジャッキアップ式石油掘削リグが鎮座するところに
遭遇した。着底型ジャッキアップ式にしろ半潜水型にしろ、日本でははるか沖合でごく少数のリグが稼働してきたために、めったに
巨大掘削リグにお目にかかることはなく、印象的であった。
さてオマーンへと日を改めて時計回りに旅を続けた。いよいよ目指すは、「千夜一夜物語」に語られる船乗りシンドバッドの故郷と
いわれるオマーンであった。オマーンの首都マスカットから北西数百㎞ほどにある、オマーン湾に面したソハールの港は、7世紀
以降アラビア半島随一の規模を誇る港であったという。シンドバッドはそのソハールの港から出航したとされる。オマーンは
7-15世紀までソハールを中心にペルシャ、インド、東南アジア、中国とアラブ世界とを結ぶ海上貿易で栄え、当時のオマーンの
隆盛ぶりを今に伝えるとわれるが、1507年以降ポルトガルの統治を受けることになった。
「海のシルクロード」の主幹ルート上の拠点の一つとなり、東アフリカから中国・広東にかけ広く交易し当時の繁栄の面影を残す
ソハールを垣間見たかったが、残念ながらソハールに立ち寄る機会をもてなかった。翻って、ソハールとは真逆方向の同国最南端の
アデン湾に面するドファール地方の中心地サラーサを訪ねたかった。サラーサはその昔黄金と同等の価値をもっていた儀式用香料
の「乳香」の産地として知られる。だがしかし日程が許さず、結局ずっと手前のスール(マスカットから200kmほどの距離にある)
という港町を目指すことにした。
さて、首都マスカットではごつごつした岩山があちこちにそそりたつ。それらの谷間には平坦地が少なからず散在し、市街地が
形成されているような印象である。インド洋・アラビア海からペルシャ湾に至る際の、アラビア半島東岸の玄関口として、マスカット
もソハールも古くから栄えた。だが、1507年から1650年までポルトガルの支配下にあったマスカットは、1650年には時の
スルタンが、マスカットをポルトガル支配から取り戻し、東アフリカにも植民地を広げ、その最盛期を迎えることになった歴史をもつ。
その当時のオマーンは英国と並ぶ海洋国家と位置づけられるほどであったという。
マスカットは大きく3地区に分けられる。「グレート・マスカット」、「マトラ」、「オールド・マスカット地区」である。
グレート・マスカットの西域には「自然史博物館」があって、そこを訪ねた。クジラやイルカの骨格標本、貝類のコレクションなどの展示室もある。
グレート・マスカットの中のルイ地区は内陸部に少し入った山あいの商業地であるが、そこに「オマーン国軍博物館」があり、オマーンの歴史、
国軍の発展史、陸海空軍の各種模型、制服、武器の他、実物の戦車・戦闘機・ジープ・大砲・小型艦船などが展示される。
マトラ地区は弓なりに伸びる海岸通り(コルニーシュ)に沿って発展した市街地で、地先沖には国内外の貨物船などが停泊する
「カブース港」がある。コルニーシュ界隈には、いかにもアラブ風の古い街並みが広がり、その一角に迷路だらけの「マトラ・スーク」
がある。魚市場のあるウォーターフロントに立つと、半円形状の湾が大きく開けていて、マスカットの美しい海や港風景を眺める
ことができる。
マトラ地区の背後にある岩山の頂部にはアラビア半島随一の城塞「マトラ・フォート」がそびえる。ポルトガルが16世紀に最初
から築いた人工構造物はこのフォートだけである。マトラ地区のスークや魚市場を散策すると
昔の船乗りシンドバッドの世界にタイムスリップしたような錯覚をおぼえる。オールド・マスカットには、宮殿アラム・パレスや
ポルトガル統治時代の歴史を感じさせる「ミラニ・フォート」と「ジャラリ・フォート」が宮殿の両サイドの岩山にそびえる。
宮殿からそう遠くないところに「国立博物館」があり、オマーンの歴史、工芸・美術品、古銭、幾つもののフォートの立体模型などが
展示される。「ベイト・アル・ズベール邸」は伝統工芸品などを展示する博物館となっている。同地区の南には日本政府の水産無償
資金協力で建設された「海洋科学センター(Marine Science and Fisheries Centre)」がある。JICA水産室勤務時代の直属上司で
あった佐伯室長が退職後に専門家として赴任されていたところである。若干の展示室があるようだ。メインは魚貝類の生物学的調査
および養殖研究である。
さて、マスカットのほぼ南東方向100㎞ほどのアラビア海(オマーン湾)岸沿いの町スールへレンタカーを借りてドライブした。数時間
内陸部の土漠を走行した後は、山が迫りくる荒々しい海岸線沿いに、土煙を上げながら進んだ。途中幾つもの小さな漁村を通過した。
その度に浜辺に立って、アラビア海をぼんやりと眺めた。幾艘もの漁撈用ボートが干出浜に打ち上げられていた。
途中、水無し川の谷筋(涸れ沢・ワジ)が海に向かってほっかりと口を開けた渓谷に立ち寄った。またスールの少し手前の沿岸では、
LNGコンビナート基地に出会った。沖に向け細長く突き出しているLNG積出桟橋(バース)では、LNG船が停泊し液化天然ガスを
積み込んでいた。そのLNG船は、オマーンの飛び地の「ムサンダム半島」と、アジア大陸側のイランとの間にある「ホルムズ海峡」
を航行する必要がないので、船舶安全と経済安全保障上優位に立っている。
漁港町でもあるスールは、アフリカ東部や紅海諸港との貿易で6世紀頃から栄えた港町である。また、ダウ船がペルシャ
湾諸港と西アジア・インド西海岸諸港などとを結ぶ「海のシルクロード」の中継地でもあったはずである。
スールの町はずれの浜辺には、奥行きの深い入り江に通じる狭い水路があり、そこに歴史を感じさせる小さな要塞があり、その
城塞下には数多くの小型漁撈船が係留されていた。ハイライトとして、その浜辺には何の囲いもないダウ造船所があった。
作りかけの大きなダウ船から小型漁船まで、所狭しと並べられていた。まさにオマーンで見たかったダウ船風景であった。囲いも塀もない屋外空間に無造作に
鎮座した数多くのダウ船を時間を忘れてじっくり見学した。船の外板に手でさわり、その感触を確かめることもできた。
槇皮を外板の隙間に楔型のみとハンマーで埋める船大工、ペンキを船体に塗る作業員、釘を打ち込んだ後の小さな穴にコルク栓のような
木片を埋める大工、整形された船材を組み立てる船大工や作業員らが忙しく動き回る。そんな風景を活写した後、入り江の岸に沿って
さらに湾奥へと進み、他の造船所や船溜まり風景を求めて散策した。そこでもダウ船づくりに勤しむ人々に巡り会えた。満足度は100%であった。
その帰途に町はずれにある漁港に立ち寄った。波止場には多くのダウ船が泊していた。港のすぐ近くに小さい郷土
民俗資料館のような施設があり、漁業関連コーナーを巡覧することができた。眼前のアラビア海を偏西風と海流とをうまく捉まえて
東に向かえば、自然とインド西岸のマラバール海岸に辿り着ける。余談だが、オマーン領土の飛び地「ムサンダム半島」を探訪し、
幅員24海里(1海里=1,842m)もない、石油ガス海上輸送の大動脈のチョークポイント「ホルムズ海峡」を遠望したがったが、
特別許可がいるようでもあった。ドバイから陸路で200kmほどの距離であるが、一度も探訪しないままサウジから帰国することに
なってしまった。後で思い起こせば、もっと真剣にチャレンジすべきであったが、またの楽しみに取って置くことにしようと思い直した。
次の時計回りの旅先としてイエメンを楽しみにしていた。特に「海のシルクロード」のルート上にあるアデンを探訪し、
紅海の入り口の「バブ・エル・マンデブ海峡」を眺望する岸壁に立ちたかった。アデン港はスパイス、乳香、アラビカ・コーヒーなど
を扱う重要な貿易中継・積み出し基地であった。しかし、治安上の理由から、JICA職員は、海外赴任中
にあっては業務以外の私的渡航は禁止であった。アラビア半島の時計回りの「海とダウ船をたどる旅」は、バーレーン、カタール、UAE/ドバイとシャルジャ、
オマーンへと続き、その後はイエメン、アフリカ側のジプチ、エリトリア、スーダン、エチオピアなどへと目標地は定まっていた。
だが、イエメン以下のそれらの諸国への渡航は、在外に赴任する限りJICA職員には渡航禁止令が敷かれていた。
本部の特別許可の下で公務にて赴くことはできるが、私的な渡航は御法度であった。
特にイエメンへの旅においては、首都のサヌアよりも、「バブ・エル・マンデブ海峡」に臨み「海のシルクロード」上の港町である
アデンの他、シバームという旧城塞都市にも足を踏み入れたかった。日干し泥レンガ造りで高さ約30メートル、5~6階建ての高層
住宅建築が昔の姿のままで500棟ほど遺され、今も住居として使用されているという。シバームは
「砂漠のマンハッタン」とも呼ばれるが、スパイスや乳香などの交易ルート上にあって、かつては大いに繁栄していた。そもそもシバー
ムは乳香の大産地でもあった。乳香を産する樹木が自然に生えている姿をこの目に焼き付けたかった。それにしても当時の私は好奇心が
旺盛であった。地図を眺めては探訪を掻き立てられていた。
さてイエメンを諦め、ジプチを目標としたが、そこも公務以外渡航は不可であった。イエメンのアデンや「バブ・エル・
マンデブ海峡」の対岸にはジプチがあった。そして、可能ならばアラビア半島と「アフリカの角」との間にあるアデン湾を横断
してソマリアなどへも、週末に有給休暇1~2日をプラスして弾丸トラベルをしたかった。
しかし、私的な渡航は禁止されていたので、如何ともしがたかった。ジプチには大地溝帯が走り、大洋底の中央海嶺と同じ地殻構造を擁
しており、マグマが地下から湧き上り、地殻プレートが左右へ拡大する地学的景観と地形を、その陸上域で見られるという。その壮大な
自然を一目眺めることを期待してのことであった。しかし、そこも渡航禁止であった。エチオピアはエリトリアが独立して以来紅海に
面する海をもたない。更に時計回りをすればスーダンだが、ここも禁止である。かくして、選択の余地がなく、時計回りのずっと
先にあったのは、エジプトであった。
ナイル川で「ファルーカ」という一本マストの縦帆の川船に乗って船遊びの真似事をしてみたい。ナイル川の水位計(ナイロメータ―)
も覗いて見たかった。「太陽の船博物館」もぜひ訪ねたい。バラバラに崩れた数千年前のファラオの木船の残骸が発掘され、組み立て
られた。本物の古代エジブト船は圧倒的な歴史の重みを感じさせてくれるに違いなかった。そして、最たる希望は、スエズ運河を
この目に焼き付け、カメラで活写することであった。
友人が紹介してくれたカイロ在住で旅行代理店を営む日本人社長にコンタクトして、レンタカーとドライバーの手配に万全を期すこと
にした。そして、物事はついでということで、エジプトから一気に西方へ「行程線」を伸ばし、モロッコへ向かうことにした。目途は、かつてJICSに出向していた時の
同僚が、水資源開発・水利専門家としてモロッコの首都ラバトに赴任していた。モロッコは同じイスラム国でも社会・宗教的規制は
比較にならないほど緩やかであるという。彼の便りによれば日頃からサウジでの抑制的生活に同情してくれていた。モロッコ生活を
謳歌する彼は、時にそれを自慢げにしていた。その彼が近いうちに帰任するというので、その前に現地に赴き「逆慰問の接遇」を
受けたいとチャンスを窺っていた。
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