2008年12月暮れに実現したメキシコの首都メキシコ・シティとベラクルスへの旅について綴る前に、隣国のコスタリカへの旅について少し触れておきたい。
米国西海岸から帰国してわずか3か月後の同年11月には、コスタリカへ、週末土日と祭日を使って、わずか2泊3日の弾丸トラベルを敢行
した。確かに国外の旅であるが、ニカラグア国内の旅とほぼ変わらないものである。真にお隣の国なので、フライトは1時間余りであり、気軽にナップ
サック一つ担いで機上の人になった。陸路で行っても、パンアメリカン・ハイウェーを行き来する国際定期路線バスに乗れば、首都マナグアから4時間ほどで
国境をまたぐほどの近さである。
コスタリカには是非とも再訪したい太平洋沿岸の港町があった。プンタレーナスという。30年ほど昔のこと、農業投融資案件のカカオ栽培試験事業調査で
そこに出張した。コスタリカは、大西洋・太平洋両沿岸の平野部に広がる亜熱帯・熱帯気候帯から、海抜数千メートルの山岳に広がる
寒冷気候帯まで、わずかな地理的範囲内において大きな変化を見せる自然環境、特に植生を観察することができる。大西洋側低地のバナナ栽培地、
中央部の山岳・高原地帯に広がるコーヒー栽培地を通り抜け、太平洋岸沿い平野部にあるカカオ栽培予定地まで一気に踏査を行い、プンタレーナスと
言う港町で投宿した。
夕食後、調査団員で海岸沿いのプロムナードを散歩する途上でたまたま見つけたバール(居酒屋)に立ち寄った。場末のうらぶれたバール兼ダンス
ホールであった。皆でビールを飲みながら、店の女の子たちと談笑し始めたところ、「この店のオーナーは日本人だ」と聞かされた。半信半疑であったが、
暫くして日本人青年が現われ、そのうちに身の上のことに話題が及んだ。「店を早く畳んで日本に帰りたい」と、真剣なまなざしで
語り始めた。中米を転々としていたようで、彼には何故か大きな借金があって帰国できないという。何となく同情を誘う話であったが、あの店は今頃
どうなっているのか、何故かやけに気になるところであった。
さて、今回の旅の第一の目的である、「プンタレナス市立海洋歴史博物館」へ先ず足を運んだ。プンタレーナス市街中心部にあった。だが、週末にもかかわらず
閉館のようで、愕然とした。しかも、よく見ると看板から「海洋」の文字が消し去られ、「市立歴史博物館」と名称変更されていた。看板にはその消し跡が
残されていた。それでも、開館していれば海洋歴史文化にまつわる何がしかの展示品が遺され拝観できたかも知れない。だが、閉館ではそれさえも叶わなかった。
博物館見学の当てが外れて、急に時間が余ってしまった。そこで、当地に来て初めて存在を知った水族館を訪ねることにした。敷地は広かったが、水族館の
規模は小さそうであった。しかし、コスタリカで初めて見学する水族館であり、他では見られない何か面白い展示を期待して隅々まで散策した。自然環境保全、海洋生物の
保護などに重点をおいたパネル展示が充実していたと記憶する。さすが、自国の自然環境の多様性を観光の目玉にしているだけの事はあるとの印象であった。
時間に随分余裕があったところ、例のバールのことを思い出し、「どこだったかな」と言う目線をもちながら、市街をぶらぶらと散歩し始めた。
はっきりとバールの位置を記憶していた訳ではなく、ほぼあてずっぽうに歩き回った。結局見つけられず、ほとんど諦めそうになっていた。
そんな時のこと、大型豪華クルーズ船が発着する大桟橋から直進し、街に入ったところの最初の交差点で信号待ちをした。通りをはさんで対面の
風景にはっとした。どこかで見たような建物が目に入った。バールが四つ角に所在していたのは覚えていた。だが、夜のことで近隣風景など全く覚えて
いなかった。ただ、バールの建物のある特徴だけは脳に記録されていた。四つ角に面した店は、豆腐の角をナイフで切り落としたような形をしていた。
しかも、その切り落とした部分に入り口があった。
今では店の外装はすっかり変わり、全く別のフード店となっていたが、入り口部の特徴だけは変わっていなかった。「あった、これだ」
と気付いた。店員に尋ねると、そのバールは無くなったという。だが、団員皆で夜な夜な楽しく談笑し、身の上話を聴かされた場景が懐かしく
思い出された。私的には、若い時にブラジルやアルゼンチンなどに憧れていたが、あの当時勢い余って日本を飛び出していれば、同じような運命をたどっ
ていたかもしれないと思う時がある。面白い人生となったのか、そうでないのか。同時に二つの人生を選択できないので、その結末は分からないが、
彼の人生に半ば同情しながら、今頃彼はまだ放浪の身の上だろうかと気にしながら、首都サン・ホセに戻った。
サン・ホセ郊外のエレディアという町に「ナショナル大学」があり、その海洋生物学科附属の海洋生物を展示する「自然科学展示室」があるという。
事前のネット情報を頼りに、路線バスにて大学を訪ねた。だが、既に廃止されたことをその場で知り、再び愕然とした。ネットではそんな情報
はなかった。訪問目的の当てが全て外れてしまい無駄足となった。
目途にしたことの達成度がほぼゼロでは余りに寂しいので、当初予定にしていなかった「自然史博物館」を地図上で探し出し強引に訪ねることに
した。農牧水産関連省庁の附属らしく、海洋哺乳動物の骨格標本やホルマリン漬け魚類標本なども展示され、それなりに充実した博物館であった。この見学で
旅の満足度はかなり高まった。その後、通りがかった「メトロポリタン公園」内を散歩するうちに、偶然にも巨大なクジラの骨格をモチーフにした
屋外アート作品を「発見」し、カメラワークのよい被写体となった。そして、他にもそんな作品が転がっていることを期待して、のんびりと園内を歩き回った。
海洋歴史文化にまつわる旅の成果は乏しくがっかりであったが、それも時にはありなんと諦め、ほろ苦いセンチメンタル・ジャーニーとなってし
まったことを思い、自笑してしまった。
休題閑話。コスタリカの旅からわずか、2か月弱後の年末休暇にメキシコに出掛けた。何故、メキシコのカリブ海に臨む港町ベラクルスへ出掛ける
ことにしたのか。実のところ、メキシコではなくキューバに3,4日でも弾丸トラベルをしたいと
想い描いていた。だが、キューバへの渡航ではビザ取得に手間取りそうなので、後回しにしてベラクルスを探訪することにした。
旧スペイン王国の「ヌエバ・エスパーニャ副王領」の行政府はメキシコ・シティにあったが、ベラクルスは本国スペインからシティに向かうルート上
にあり、交易上最重要なゲートウェイをなす港市であり、地政学的な要衝であった。
いずれにせよ、中米・カリブ海地域の旅では、パナマ運河やキューバに次いで訪れてみたいと長年思い続けてきた町であった。
2008年7月敢行の米国西海岸の旅からほぼ5か月後の、同年の年末休暇のみを利用しての5日間の弾丸ツアーとなった。
旅の目的は大きく2つあった。一つは、いろいろ調べた結果、メキシコ・シティというメキシコの内陸部のど真ん中に位置する都市に海洋にまつわる博物館が
所在することをつかみ、ぜひ訪ねてみたかった。何故メキシコ・シティのような内陸部の都市に海洋博物館があるのか、不思議に感じていた。
かつてヌエバ・エスパーニャ副王領の総督府が置かれ、ガレオン船がアカプルコとマニラの間を行き来し、フィリピンを植民地支配下におきつつ、
アジアに富を求めた。また、カリブ海側のベラクルスと本国の間を行き来し、アジアや副王領の富を「通商院」のあるセビージャに輸送し続けた。
メキシコ・シティは2つの大洋航海ルートを結びつけ、いわばそのランド・ブリッジのど真ん中に位置する政治・行政の中核であった。
本国スペインとアジアとの交易の丁度中間にあることから、「海事博物館」が内陸都市にあるのもあながち摩訶不思議
という訳でなく、うなずける事と自己流に解釈をした。そして、海事博物館には他では見られないユニークな海洋歴史文化に関わる展示がなされて
いるものと勝手に思い込み、大いに興味がそそられた。余談だが、当時、スペインとマニラを西廻りでつなぐルートは余りにも遠距離であり過ぎるのが難点であった。
このことから、アジア進出において、スペインは、英国・フランス・オランダのような後発の海洋諸国に遅れをとった面があるのかもしれない。
もう一つの目的はベラクルス探訪であった。旧スペイン王国による征服当時やヌエバ・エスパーニャ副王領下での植民地時代には、本国との海上輸送ルート上最重要な軍事・交易中継
拠点であったベラクルス。ニカラグア赴任中には、そんな港町を是非とも一度は訪れてみたいと秘かに探訪のチャンスを窺っていた。
もちろん、その歴史的な港町にも「海事歴史博物館」なるものがあった。港近くにある堅牢な「サン・フアン・デ・ウルア要塞」も訪ねる価値がありそうであった。
さて、2008年の年末12月27日メキシコ・シティに到着し、国際空港のすぐ近くのホテルにチェックインした後、荷物をベッドの上に広げ、
必要な物を素早く拾い上げ、すぐにテオティワカンへと出掛けた。過去に何度かメキシコ・シティに足を踏み入れてはいたが、一度も
そこを訪れたことがなかった。いつしか、古代歴史遺産の「太陽のピラミッド」の頂上に立って、360度の風景
を見渡してみたいと思っていた。かくして、古代ピラミッドがそびえる地に足を踏み入れ、それを見上げた時には感激し大いに興奮した。喜び勇んで、
大勢の観光客に混じり数珠つなぎの列に加わって、ピラミッドを登り始めた。
ところがである。石段を100段ばかり登った時点で、妙に息切れがして、いつもとは全く違う息苦しさや胸の痛みを感じた。だが、そのうち
登り坂に身体が慣れてくるだろうと我慢して登り続けた。胸苦しさは一向に治まる気配がなく、これでは到底頂上に辿り着けそうにもないと悟り、登頂を
諦めることにした。過去何十年か、あれほど楽しみにしていたピラミッド登頂でありながら、途中で断念するという悔しい思いで一杯で
あった。だがしかし、ここで無理をして本当に心臓発作でも起こせば、それこそ一大事と思い登頂を棄権した。
平地に下りぶらぶら歩き回るうちに、胸苦しさは落ち着き一安心して、旅を続けることができた。
思い起こせば、これを絶好の機会と捉え、ニカラグアに帰国後固い決意をもって早期に病院で精密検査を受診するなどして、健康管理に真剣な注意を払って
生活し続けていれば、あの心臓発作の悲劇はなかったのではないかと、心底から悔やまれた。だが、それは後の祭りであった。ニカラグアの「オヤテ川源流奥地での悲劇」
のことはもう少し後で綴りたい。
翌日、メキシコ・シティの旧市街中心部ソカロのランドマークである「アルマス広場」と、そこに面して建つ荘厳な歴史的建造物「カテドラル・
メトロポリターナ」に足を運んだ。すぐ隣には、地下から発掘されたアステカ宮殿の遺構「テンプロ・マヨール」を一通り見学した。
その後、広場からから歩いて10分ほどにある「海事博物館」を訪れた。メキシコで初めて海洋歴史文化施設を訪ね、じっくり見学する
というのは、私的には大変刺激的であった。海事博物館が何故シティのような内陸都市に所在するのか、館内をじっくり隅々まで見学してみて、
初めて理解したような気がした。
ところで、スペインのコンキスタドール(征服者)のエルナン・コルテス率いるスペイン人がユカタン半島、さらにベラクルスに到来した1519年当時
におけるアステカ帝国の首都テノチティトランの人口は数十万人に達し、中心部には神殿や宮殿が立ち並び、当時世界最大級の都市であった。
アステカの勢力は絶頂に達していて、メキシコ中部をほぼ統一する強大な帝国をなしていたとされる。
1519年2月、キューバ総督ディエゴ・ベラスケスの配下にあったコルテスは、大砲・小銃などで武装した500人の部下と馬を引き連れ、
ユカタン半島に向け出立した。時を経て、サン・フアン・デ・ウルア島に上陸したコルテスは、対岸にベラクルスを建設し、300人で内陸部へと進軍した。
書を紐解くと、コルテスが1519年4月に新大陸に到達し、実質的な第一歩を印した地は、現在のベラクルス市沿岸にある「サクリフィシオス」という島であったという。
彼はその後北米大陸初のヨーロッパ人の町をベラクルスに建設した。それが現在のベラクルスの始まりである。労働力を補うためにアフリカから
奴隷を輸入し、キューバからも移民が入植してきた。
さて、1519年11月にはコルテス軍はテノチティトランに到達した。他方、1520年5月ベラスケス総督は部下のナルバエスにコルテス追討を命じ、
ベラクルスに軍隊を派遣したが、これに対し、コルテスはナルバエスを急襲して勝利した。
その後、コルテスは、テノチティトランでの大規模な反乱に巻き込まれ苦戦を強いられたが、紆余曲折を経て対決の態勢を強化した。そして、1521年4月、
コルテスはテテスコ湖畔に13隻のベルガンティン船を用意し、数万の同盟軍とともに湖上に浮かぶテノチティトランを包囲した。
1521年8月、コルテスは即位していた帝国最後の皇帝クアウテモク王を捕らえ、アステカ帝国を滅ぼすに至った。
クアウテモックは勇敢に抗し、一度はスペイン軍を撤退させたが、同年テノチティトランは陥落した。アステカ王国の神殿などの
先住民の諸施設や文化は徹底的に破壊され、キリスト教、スペイン語などのスペインの宗教と文化が押し付けられて行った。
さて、海事博物館での展示品で最も興味を注がれたのは、テテスコ湖上を舞台にして、コルテス軍のベルガンティン船(二本マストの小型帆船)とアステカ側の伝統的な刳り舟のような
数多の小舟による戦いを模した大きな「湖戦ジオラマ模型」であった。これぞ、この海事博物館でしか見られない貴重な展示品と感激した。
アステカ帝国首都テノチティトランは山地に囲まれた盆地内のテテスコ湖上に築かれた都市であった。
コルテス派遣の分隊によるテノチティトランとの最初の湖戦が、同湖上で行われ、征服を決定づけることになった。
スペインが植民地にするとテスココ湖は埋立てられ、現在のような盆地になった。テノチティトランに対する征服を描写した8双の屏風絵も
また貴重な展示品である。
館内にはフランシスコ・ヘルナンデス・デ・コルドバらによる数々の探検ルート図が展示される。
例えば、キューバ総督ディエゴ・ベラスケスにより組織され、1517年に派遣されたコルドバの最初の探検ルート図 (ユカタン半島沿岸探検のルート図)
がある。それには、1518年にフアン・デ・グリハルバが、コルドバのルートをなぞって行なった2回目の探検ルートも示されている。
1519年に、コルテスは第3回目の探検に参加し、既述のとおり彼が率いる軍隊がベラクルスに上陸し、1521年テノチティトランの征服で最高潮に達し、
アステカ帝国を陥落させた。館内にはルート図とともにコルテスの肖像画が飾られている。
その他、海事博物館でしか見られない貴重な展示品としては、ヌエバ・エスパーニャ副王領の各地に築かれた幾つもの堅牢な要塞の
模型である。特に、1600年代中期から要塞化が始まったベラクルスの砦や港市全体の立体模型が展示される。
また、歴史・文化的に価値のある陳列としては、ベラクルスの町全体や1590年建設の「サン・フアン・デ・ウルア要塞」の16~18世紀のいろいろな年代の
地図や見取り図であろう。歴史的な図絵として、1838年フランス艦隊によるウルア要塞攻撃の海戦画、スペイン人の命令でアテンパンで
ベルガンティン船を建造するインディヘナを描いた絵などが展示される。
植民地支配当時の数多くの帆船や戦列艦などの模型も興味深い。例えば、16-17世紀のガレオン船「San Antonio」の模型、4-5層の
甲板と船首尾に船楼をもつカラッカ船模型、ゴレータ船模型、コロンブスの旗艦「サンタ・マリア号」などの3隻の精巧な模型など。
その他、船と航海の進化について模型をもって説明している。例えば、バルサ筏、竹製筏、イグサのカヌー、皮袋舟、
エジプトの埋葬用の舟、ヴァイキング船、中国船、亀甲船、外輪蒸気軍艦、川蒸気、空母「エンタープライズ」"、クリッパー、コルベット練習艦、
19世紀の砲艦などの模型。その他、メキシコで開発されたサカテカスなどの銀山、コロンブス、バスコ・ダ・ガマ、マゼラン、エルカーノなどの
「地理的発見の歴史」を体現した英雄たちの解説パネル。16世紀の鎧・甲冑・武具のレプリカなど。
さて、翌日ベラクルスへ飛んだ。そして市内を足が棒になるまで探索して回った。ベラクルスがどんな歴史をもつ港市なのか、海賊との関わり、
特に英国人海賊ドレークとの接点などほとんど知らなかった。第一の訪問目途は「海事歴史博物館」であった。見学を終えた後の感想としては、
メキシコ・シティーの海事博物館とコンセプトが非常に似ているとの印象をもった。テスココ湖でのスペイン征服軍のベルガンティン船とアステカ
側の数多の小舟との湖上の戦いを模したジオラマ、湖上戦を描く8双の屏風絵の他、ウルア、アカプルコ、ユカタン、カンペチェなどの要塞の
模型、海賊に関する展示、大航海時代を生き抜いたコロンブス、バルボア、バスコ・ダ・ガマ、マゼラン、1510年新大陸に初めて
スペインの町を創建したバルボアなどの探検航海にかかるパネル展示、
フランスによるウルア要塞攻撃画、戦列艦や「サンタ・マリア号」等の精巧な船模型、いろいろな古地図など、かなり重複する展示があった。
その他、昔の各種の航海計器、例えばクロススタッフやアストロラーベなどの天体高度測定器、四分儀・六分儀、速力測程器などを拝観した。また。
特にフリゲート艦「チャプルテペック号」の大型模型や、マゼラン船団がマゼラン海峡を通過する情景を模すジオラマ模型はユニークに思えた。
その後は、「マレコン」と称される海岸通りなどのウオータフロント界隈を行きつ戻りつしながら散策した。港地区にある「海事博物館」の近く
には、ひと際高くそびえるファーロ・カランサ(ファーロは灯台のこと)という白亜の灯台が建ち、古い港町の面影とどめている。灯台はベラクルス
のもう一つのランドマークでもある。旧市街の中心は港から近い「アルマス広場」界隈であり、歴史を感じさせる街並みが遺される。
ベラクルスでは、既に16世紀から海賊の襲撃にさらされ、街を守る必要があった。そのため街を取り巻くように九つもの砦や要塞が築かれた。
現在ほとんど姿を消したが、1635年に建造された「サンチャゴ要塞」は今でも市街地に遺され、当時の面影を偲ぶことができる。
ベラクルスは、副王領のなかでもスペイン本国と貿易を許された唯一の港であった。そのベラクルス港の地先沖合にサン・ファン・デ・
ウルアという島が浮かび、そこに要塞が築かれ、堅牢化が重ねられてきた。マレコンから港内を見渡せば、ほぼ正面にいかにも堅牢そうな
サン・ファン・デ・ウルア要塞がどっしりと威容を誇っている。当初はサンゴや砂などで固めた四角形の壁のみであったが、1582年に要塞が
築かれた。現在みられる要塞の原型は、18世紀頃になって出来上がったという。荘厳にして重厚な要塞の内部を飽きるほどじっくりと見学した。
英国人海賊ドレークやホーキンスとウルア要塞との関わり合いをずっと後になって知ることになったが、事前にそれを知っていれば、要塞
をもっと興味深く巡覧できたであろう。
さて、旧市街地ソカロから数キロメートルの距離にある「プラサ・ビージャ・デル・マール」というショッピングモール内に「ベラクルス水族館」
があり、初めてメキシコの水族館を見学した。メキシコ湾に棲息する3千種ものの生物を飼育展示する大水族館である。その後、当地でたまたま
得た船舶博物館情報を頼りに、ベラクルス郊外のボカ・デル・リオ市に足を伸ばした。ベラクルス中心部から南東に12㎞ほどのハンバ川河口にある
ビーチリゾートの町である。そこに所在する「砲艦グアナフアート号博物館」を訪問した。同艦はスペインで建造され、1936年にメキシコ
海軍に編入された。全長80m、船幅12m、喫水4m、排水量1,250トンである。当初は蒸気機関であったが、後にディーゼル機関に切り換えられた。
かくして、タイトな弾丸ツアーであったが、メキシコの海洋歴史文化の一端を現地にて学ぶことができ、満たされた面持でベラクルスを後にした。
特にスペイン植民地時代におけるメキシコやヌエバ・エスパーニャ副王領と海との関わり合いの一端を知りえたこと、そして大航海時代以降の
海洋覇権をめぐる世界史への興味をますます膨らませることができたことが、何よりも嬉しいことであった。
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