2018年9月の70歳になる直前のこと、欧州はポルトガル、スペイン、スイス、ギリシャなどへ旅に出掛けることになった。長女は主に海外の風景
をスケッチする画家・イラストレーターを生業にしてきた。スケッチのキャンバスは洋書の古本のページなどであった。
私からすれば孫娘が5歳となり、旅に出るにもさほど手がかからなかったが、旅中にスケッチに専念するには、誰かがベビーシッター
をしていなければならなかった。ちょっと目を放すと、突然走り回ったり、危険なことをしたり、とてもじっとしてはいない年頃で
あった。かくして、子守り役を仰せつかった。旅費は折半を基本とした。旅の1/3は娘婿が旅を共にし、
私とは別行動を取ることができた。その後半の2/3は、娘婿が帰国するため、同一行動であった。子どもを少しは大きくなり、そろそろ海外で絵を
描いてビジネスを再開できる頃になったという訳である。同一行動の行程については、長女と手分けしてフライトや宿泊先の予約などした。
先ず、ローマに飛んだ。ローマ中央駅前の安ホテルに宿を取った。お上りさんになって、例のコロッシアムに出掛けた。絵を描いている間
孫をベビーカーに乗せてその界隈を散策した。翌日、娘婿がローマに着いたので、私は単独行動ができた。電車を乗り継いでローマ
近郊のアルバノ・タツィアレへ、そこから路線バスでジェンツアノ・ディ・ローマへ、そこからタクシーを使ってネミ湖湖畔にある
「ネミ湖ローマ船博物館」へ出向いた。道中では田舎の素晴らしい田園風景に出会うことができた。さて、
館内に入って初めて分かったことがある。湖底から発掘された大きな古代ローマ船は、すごくミニのローマ船2隻に取って代わっていた。
最初はこれが例の発掘船と思って見学した。それにしても随分小さなローマ船と思った。だが、館内を巡覧し展示パネルを通覧してようやく理解できた。
オリジナルのローマ船は火災のため焼失していたのだ。焼失を免れたほんの少しの遺物や火災後に創出され展示される模型の展示物
などを見学した。湖底現場からの発掘の当時の様子などを写した写真、発掘のため湖から水抜きするための地下トンネルの建設、
ローマ船の船尾やラダー(舵部)などの実物大レプリカなど見学した。
さて、翌日長女夫婦と孫に別れてポルトガルへと向かった。彼らは3人は長距離夜行列車でシチリア島へスケッチの旅に出掛けた。
私は、列車でフィミチーノ国際空港に向かった。リスボンまでは格安航空で1万円ほどであった。とにかく安かった。さて、空港駅で下車後計画通り、
徒歩で「ローマ船博物館」に向かった。ネットで事前にその場所を詳しく調べておいたので、ほぼ順調にその博物館へ辿り着いた。
だが、様子が何かおかしかった。何と館の正面玄関は閉じられていた。閉館したか、どこかへ移転したらしい。何の説明書きもなかった。ネットではそんな案内はなかった。
悔しい思いを引きずりながら、空港へ戻り、リスボンへの機上の人となった。
リスボンに夜遅く到着し、空港でいつもの通り、クレジットカードで現地通貨をATMからキャッシングし、その足で地下鉄にて市街地
にある「インデペンデンテ駅」へ向かった。学生寮のようなホステルは大通りに面して
いたので、一度訊ねただけで、ほとんど迷うことなく辿り着いた。学生寮のような様相で、しかも応対してくれるフロントマンもいな
かった。事前のメールのやりとりに従ってネットでの情報を基に、玄関のキーボックスを開錠し入館し、玄関ホールで部屋鍵を
得て自室へと向かった。ネットで安宿を予約すると、ほとんどこういうタイプの宿泊所が多かった。例えば、かつて旅した英国では、
玄関に着くとドアに貼られた紙をもって指示された。それによれば電話をよこすよう指示され、そこで電話すると女性に玄関脇の
ボックスの開錠番号と部屋番号が指示されたこともあった。当時携帯電話をもたないため、公衆電話を探すために右往左往するという
憂き目にあうこと必定となった。今回では少しは慣れていたので、驚きはしなかったが、これがネット予約での安宿の「ノーマル」な入館入室
のための方法であった。
初めてのリスボン宿泊ということで興奮していたが、翌日朝早く目が覚め、地下鉄とトラムを乗り継いでベレン駅へ。
少し歩いてテーベ川の畔に立った。現実にやっと畔に立つことができた。あの時の思いから20年ほどの時が流れていた。
JICS出向時代アフリカ西岸のコンゴの沖合にあって、それも赤道よりもまだわずかに北側にある(つまりまだ北半球にある)
サントメ・プリンシペという旧ポルトガル領の島国に出張時のこと、イベリア航空でリスボン経由の出張であった。その時
トランジットでリスボンを経由した。搭乗機は着陸直前テーベ川に沿って降下した。リスボンの街をよく眺めることができた。
そして、テーベ川の畔に立つ、リスボンのランドマークである「発見のモニュメント」を機窓から手に取るように眺めたことを思い出す。いつの日かリスボンに戻って
テーベ川の畔に立ち、モニュメントをしっかりと見上げたいと思っていた。それがようやく実現した。万感の思いがこみ上げ感涙であった。
余談であるが、その時初めてサハラ砂漠上空を飛んだ。窓からその砂漠に吸いつけられた。下界には起伏のある砂漠が地平線のはるか
彼方まで続いていた。ラクダの隊商か何か動くもの、人工構造物はないのか食い入るように眺めた。双眼鏡でもあれば、間違いなく砂紋
が見て取れたであろう。オアシスの森や集落はないのかずっと探し続けた。だが、砂ばかりの起伏しか見えなかった。
そのうち見飽きてシートに深々と潜り込んでしまった。2時間ほど飛んでも景色は変わらなかった。大砂漠周辺の至るところ
で砂漠化が拡大することで地球環境が悪化し続ければ、生物が暮らす世界はどうなるのか想像して、寒気をもよおしてしまった。
サントメ・プリンシペはまだごくわずかに赤道より北側にあった。出張の帰途、同国を兼轄する日本大使館のあるガボン共和国の首都
リーブルビルに立ち寄った。それでもまだ赤道を越えることにはならなかった。私はJICAに奉職して34年、その間赴任は3回、数多の
海外出張をしたが、南米大陸や東南アジアでは何度も赤道を越え、南半球に足を踏み入れ南十字星を見上げてきたが、アフリカ大陸に
おいては一度も赤道を越えて業務につくことはなかった。偏ったこの経験はJICA職員
としては肩身の狭いことであった。
休題閑話。シャワー・トイレ共同の大学ドミトリーのようなホステルに投宿した。朝から夕方まで市内をほっつき歩くのが私の
流儀なので、ホテルに帰ればほぼ寝るだけのことなので安宿で十分であった。リスボン訪問の最大の目途は海洋博物館、その他時間
が許せば歴史的史跡を訪ねることであった。早朝に目覚めすぐに出かけた。テーベ川畔に立っている「発見のモニュメント」、さらに「ベレンの塔」
に出向いた。地下鉄でまず「カイス・ド・ソドレ駅」へ。そこで地上の電車に乗り換えて「ベレン駅」で下車。そこは
テーベ川の畔にあり、岸辺は何kmも公園になっていて、早朝のことゆえ、早朝のことゆえジョギングする人くらいで人影もなく静まり返り、空気も爽快であった。
同じ岸沿いのずっと先には例の「発見のモニュメント」が小さく立ち誇っていた。そこをめがけてのんびりと歩いた。
高くそびえる「発見のモニュメント」を見上げて感激感涙であった。人影もない中モニュメントを右から左へと一人占めにして
何度も行き来しては見上げ、「航海のモニュメント」に整列する歴史上の人物像を眺めた。先頭にはヘンリー航海王子が帆船模型をもち、アフリカ大陸
西岸沿いの南下とアジアを目指す探検家たちを率いている。ポルトガルによるインディアス(インド、中国、日本などの東方の国々)
への航路開拓への挑戦を象徴している。王子に次いでバスコ・ダ・ガマやジル・エアネスなど
20人以上が続く。興奮しながら何度も行ったり来たりしつつ、15-16世紀の海洋探検の英雄たちの像を最大限ズームアップして
撮りまくった。
モニュメントの少し上流には「ベレンの塔」が立ち誇っている。畔沿いの小道をしっかり踏みしめるように辿り、塔の真下に
やって来た。石をしっかりと積み上げた頑丈な塔を見上げた。塔の周りは掘割で防御されていて、一本の橋で結ばれていた。
お上りさんになって塔の最上階へ登った。塔の中はほとんど飾り気も展示もなかった。正面にはミルクコーヒーのような色のテーベ川が
流れ、背後にはリスボンの街が広がる。眼下では、鉄路をはさんだ向こう側に「ジェロニモス修道院」や「サンタマリア教会」が
どっしりと控えていた。海洋博物館も修道院の一角にあるはずであった。塔は、その昔テーベ川を行き来する船を監視し、出迎え
また見送ったのであろう。
その後、真っ直ぐ海洋博物館へ向かった。かつて大航海時代を先導した国・ポルトガル、初めて見るその海洋博物館の入り口
を目にした時は大人げなく大いに興奮した。エントランスホールに入るとエンリケ航海王子の巨大な座像がどっしりと据えられて訪問者を
迎え入れる。その周りには、ギル・エアネス、ディアス、バスコ・ダ・ガマなどの、アフリカ大陸西岸を南下しインドへの
航路を開拓した歴史上名高い航海探検家5人ほどの大きな立像が取り囲んでいた。
館内はかつての海洋王国の歴史を誇るかのように、数多の船模型、船画、海景画、6双の南蛮画を初め、ポルトガルの海洋史をなぞるように
展示する。その後、「ジェロニモス修道院」に隣接する「サンタマリア教会」に向かった。そこにはバスコ・ダ・ガマと国民的
詩人カモンイスが眠る2つの壮麗な棺が安置される。
画像:select2600~, 2700~、 2800~??
翌日早朝、「国立自然史博物館」へと向かった。地下鉄の「レスタウラドーレス駅」で下車し、大通りを歩いて博物館へと向かった。
ある細い路地で、図らずもリスボン名物の可愛い、急坂を上り下りする「グロリア・ケーブルカー」のような市電に出くわした。
朝早いのかまだ運行されていなかった。そのレールに沿って急坂を上り切り、再び大通りに出て、リスボンらしい古い街並みを
愛でながら博物館へと散策を続けた。途中、カフェを2度も楽しんだ。大通りは小高い丘の背を走っているようで、時折テーベ川の
水面を遠くに見下ろすことができた。博物館は午後からの開館であることを知り、近くのレストランでランチを取り時間調整をした。
博物館では思いがけず、深海底鉱物資源とその開発をテーマにした特別企画展に遭遇して大いに喜んだ。熱水鉱床などの岩石破片
などの展示、マンガン団塊の採鉱のジオラマ的展示、アゾレス諸島などでの海洋調査、ポルトガルの200海里経済水域などに関する
多くのパネル説明書きなど、予期しなかった海洋関連の展示を巡覧でき大きな成果を得ることができた。博物館などに立ち寄れば
何かしら思いがけない展示に出会うことを、今回も実体験してしまった。
翌日、地下鉄で「カイス・ド・ソドレ駅」へ、そこで乗り換え、別の電車でテーベ川沿いにラスカイスという郊外の町へ向かった。そこはリスボン市民が最も身近に海辺の散歩や海水浴を
楽しむ海洋性リゾート地であった。そこから路線バスでロカ岬へと向かった。そこはヨーロッパ大陸の最西端にある岬であり、
ポルトガルの偉大な詩人であり国民的英雄であるカモンイスの詩の一説、「陸ここに果て海始まる」という詩が刻まれる記念碑の石塔が建つ。
ロカ岬の「ロカ」とはスペイン語、ポルトガル語で「岩」という意味である。岬は正しく岩だらけの、ぞっとするような断崖絶壁
になっており、そこに灯台が建つ。その近くに観光案内所があり、そこで私も記念にと、名前入り「ロカ岬訪問証書」を作成してもらった。
4日間のリスボン滞在は余りにも短かった。後ろ髪を引かれながら長距離列車で、ポルトガル南端近くのラゴスへと向かった。テーベ川の鉄道橋を渡り一路
南下した。到着したラゴスは陽光がさんさんと降り注ぐ、南欧の地中海風海洋性リゾート都市であった。小さな要塞や昔の「奴隷市場」など
をぶらぶらと散策した。城壁内の旧市街地に足を踏み入れてみると面白い光景にであった。漁師なのであろうか、初老の男性が上半身裸で、
しかも路地の道端で七輪に炭火を起こして、四角い金網でサンマを焼いていた。かつて日本で見られたのどかな街風景と重ね合わせた。
ラゴスでそんなレトロな風景を見れるとは、大いに感激して彼には写真タイトル「初老の漁師」として被写体になってもらった。
その後、路線バスでビラ・ド・ビスポという、国道からそれてザグレス岬へのゲートウェイとなっている小さな町に出向き、ネットで予約
しておいた民宿に投宿した。かなり迷ってしまい、もう少しで民宿を探し当てられず、野宿するところであった。
翌日、再びバスで、エンリケ航海王子が15世紀に「航海学校」を開き、航海術、天文学、造船学など航海探検家に研究させ、アジアへの航路を
切り拓こうとしたサグレス岬へ。便数が少なくラゴスに戻るバルの時刻には留意を要する。早朝からゴミ収集のため街中を動き回る
清掃車に出会った。若く陽気な運転手は、徒歩で街を行く私を乗せてくれ市街地を一周してくれた。その後、岬へ通じている城壁の入り口
の前まで送り届けてもらった。そして、ついに目途であった王子の航海学校があったとされる敷地内に入った。
そこは、いわば大航海時代の黎明期に立ち会った人物たちが出入りした場所であった。そう思うと
鼓動の高まる一方であった。広大な敷地はほぼ三角形をしていて、その底辺にその城壁が存し、他の2辺には断崖
絶壁の海岸線となっている。古びた教会、地上に描かれた半径50メートルほどの日時計、極小さな灯台などがあった。断崖沿いに荒涼とした平坦な敷地内
を一周した。敷地の西方4㎞ほど離れた先には「サン・ビセンテ岬」が望める。そこへも足を伸ばした。大航海時代数多の航海探検家が
サグレスやサンビセンテ岬を後方に見ながら、アフリカ西岸のボジャドール岬、コンゴ川、さらにはアフリカ大陸回航などをめざして、南下して行った。
それを最初に先導したのはエンリケ航海王子であった。
その後、ラゴスに戻った。電車でファーロという港町に移動する前に、ラゴス鉄道駅舎近くにあった「発見の蝋人形博物館」という
歴史文化施設に立ち寄った。大航海時代の節目節目の出来事を何10体もの蝋人形を配したジオラマが展示されている。
その後電車でファーロへ向かった。到着したのは夜のとばりが下りた頃で、駅周辺を歩き回ってようやくホテルにあり付いた。
翌日目標にしていた海洋博物館を訊ねた。博物館はホテルからほど近くにある掘り込み式の港の埠頭に面していた。
ファーロの地先には遠浅の海岸や沼地が広がっていて、海から水路をもってが市街地中心ブラジルにある港へと通じていた。
博物館はポルトガル海洋警察(コーストガード)付属であり、この海域を管轄するファーロ支所の建物の2階にあった。
当日の海洋博物館の開館は何と午後1時からであった。午前中に見学を終えて、午後には国境を越えてスペインのウェルバまで行き着きたかった。
そこで、支所兼博物館の入り口に立つ当直士官に事情を話して何とか特別に入館を許可してもらいたいと、無理筋なことを百も
承知で交渉した。
日本からわざわざこの博物館を見学したいが故にやって来たこと、午後にはどうしても国境を越えてウェルバに行きたいことなどを何度も説明し、
懇願した。だが、無理の一点張り。止む無く諦め、その場を離れようとした。その時に、ある年配の女性が登庁してきた。玄関前の
階段上で、士官は何やらその女性と立ち話を始めた。想像するに恐らく、日本から来たあの男性が入館の特別許可を求めていた
ことをさらりと報告でもしているのだろう、と横目で見ながら立ち去ろうとした。その直後、後ろから女性に呼び止められた。
そして、事情を知った女性は、特別に展示室を開ける
ので、見学して行くようにという。何とその女性はその支所の責任者であった。彼女は私を2階まで導き、自分の執務室から
鍵を持ち出して来て、その対面にある博物館のドアを開錠し、照明のスイッチを入れ、少しの間だが館内を自ら案内してくれた。誠に有り難いことであった。
お陰で、午後一番のウェルバ経由セビーリャ行きのバスに搭乗することができた。館内にはさまざまな漁船、漁具の模型などが数多く
展示されている。それらの主だった陳列品をしっかり切り撮ることができた。
バスは定刻通り出発した。バスターミナルの時刻表を見て、ウェルバには午後4時頃に到着するものと記憶した。バスはファーロ国際
空港に立ち寄った後、快調に国道を疾走した。国境をいつ越えたのか、全く気付くことなく通過した。午後4時少し前、そろそろ
ウェルバで降りようと支度をした。だが町の様子が変であった。それに乗客の多くが降りる支度をはじめていた。ウェルバの田舎町の
ターミナルにしては何十レーンもある大きなターミナルであった。ここはどこかとまごついているうちに、乗客は皆降りてしまった。
私も降りざるをえず、最後に運転手にここはどこかと、訊ねてしまった。「セビーリャだ。」という。そこで初めて思い出した。
ファーロのターミナルの時刻表に小さく「両国間に1時間の時差がある」と記載されていたことを。ポルトガルでの4時はスペインでは
5時であった。ウェルバはすでに1時間前に通過していた。止む無く明日出直すことにした。とっくに日が暮れたバスターミナルの周辺を
ほっつき歩きながら、訊ね訊ねてホテル情報を掻き集めた。ようやく安ホステルに居場所を見つけた。フロントの受付係は、普段であれば
一般客に提供しないという、取って置きのアパートの一室、いわば非常時の「隠し部屋」を提供してくれることになった。
翌朝早起きしてウェルバに向かった。そこでローカル路線バスに乗り換えさらに田舎のパロスに向かった。目指すはコロンブスが
息子ディエゴとともに世話になったある修道院であった。大西洋を西航しインディアス(インド、中国、日本などの東方にあるアジア)
に到達する航海計画への支援について、コロンブスがポルトガル王に断られた
ために、リスボンからスペインのセビーリャへ旅し、スペイン王へその航海への支援を願い出ようとした。その旅の道中に立ち寄り、
息子ディエゴのために水一杯を乞うた、その「ララビダ修道院」である。私はてっきり訪れる人もまばらな小さな修道院と思い込んでいた。
だがさにあらず、さすがコロンブスである。大勢の観光客が訪れる一大観光地になっていることにびっくり仰天、感嘆した。神父がコロンブスと
話し込んだという、修道院の内奥の片隅にある小さな部屋にも立ち入った。さすが、その時は鳥肌が一斉に立ったのを今でも思い出す。
修道院のすぐ近くにはグアダキルビル川が流れ、その少し上流にパロスがある。コロンブスはそのパロスから3隻からなる船団を組んで1492年に船出した。
修道院の少し先の同河川岸沿いに「カラベラ船の桟橋」という博物館があるのを知り、是非見学したいと立ち寄った。博物館は素晴らしいものであった。
川岸に掘り込み式の停泊所が設けられ、そこに「サンタ・マリア」、「ピンタ」、「ニーニャ」の3隻の木造復元船が係留されている。
模型3隻を陳列する博物館は全く珍しくはないが、3隻の実物大の精巧な復元船が揃って野外に公開されているのは、恐らくこの
博物館だけであるに違いない。何か新しい発見にありつけないかと大人げなく、3隻の歴史的帆船を隅々までまじまじと見学し、
写真を撮りまくった。
その後逆ルートでセビーリャに戻った。当初予定では、この日はセビーリャの南50㎞ほどにあるカディスという航海の歴史を刻んできた
港町へ旅するつもりであった。前章で語ったように、JICA同期の私の友人が、学生時代このカディスで日本籍船を見つけて食べ物
にありつこうと波止場をうろつき、偶然親切な当直員の特別の配慮で飯にありついた。その時の当直員であった彼が、その10年後に
アルゼンチン漁業学校「航海学」専門家として赴任した。そして、同期の友人と当直員の彼は、地球の裏側のアルゼンチンで、私の
眼前で再会を果たした。その起点となったカディスである。カディスも大航海時代や中南米植民地時代の最盛期の頃
には華々しく発展していた港町であり、歴史上いろいろな出来事があった。故に旧港と旧市街地の史跡などを歴史散策したかったが、
結局一日ロスしたために行きそびれてしまった。それにセビーリャにおいてさえ市内見物する時間が少なくなり、中心街を駆け足で
散策する羽目になってしまった。とはいえ、セビーリャやカディスにいつしかまた舞い戻ってくるための夢と口実ができた、とあきら
めざるをえなかった。カディスに出掛けるよりも、セビーリャの町を歴史散歩することの方が最優先であった。
まず真っ先に、内部が「海洋博物館」となっている、グアダキルビル川の畔にそびえる円形の石造りの「黄金の塔」を
めがけて急いだ。コロンブス、バルボアを初め、スペインが関わった多くの航海探検家の紹介、スペインと海洋との関わり、ポルトガル
や英仏オランダなどとの海洋覇権をめぐる歴史など、多くのパネル史料・模型・絵画・遺物などをもって展示する。セビーリャと「新大陸」
との間を行き来した数多のガレオン船などを見送り出迎え監視したに違いない。もう一つ是非とも訪ねたかったのは「インディアス
古文書館」であった。
市街地中央にある「セビーリャ大聖堂」のすぐ隣にある「インディアス古文書館」には、16世紀から19世紀の中南米植民地独立まで
、中米の副王領ヌエバ・エスパーニャ総督府、南米大陸のペルーやラ・プラタの副王領総督府などから本国スペインへ送られてきた
膨大な量の公式報告書を初め、航海記録、古地図や絵図などが数多と収められている。今でもそれらの分析・研究に余念がない古文書
保存館である。ポルトガルとスペインとの間で世界を二分割し分け合ったことを約す「トルデシリャス協定」をはじめ、数多の
歴史的重要文書が公開展示される。2階の書架に収納公開される文書収納箱の縦横列は圧巻という他ない。見学者はそれらの古文書に
記された文字・絵図がもつ歴史の重みで押しつぶされそうである。
2階の古文書展示史料のなかに、偶然ではあるが、ニカラグアの古地図が素描的に描かれていることを発見した。ニカラグアに
2007年から赴任当時、レアレホという太平洋に面する入り江奥にある村を訪れた。植民地時代は、大型帆船を建造する造船所があった
とされる村である。その入り江の形状や村を素描的に描いた地図を見つけた。こんなところで、16世紀頃の古地図を拝することができて、
大興奮と感涙ものであった。かくして、セビーリャを1日足らずで、大航海時代・スペイン植民地統治にゆかりのある史跡・遺品など
を探索し、スペインの海洋歴史文化に一通り触れようというのは余りにも無謀という他なかった。何時にセビーリャに戻って来れる
のか分からないが、これからも関連書物を通読し紐解きながらその歴史文化を学び追い続けたい。
さて、ホステルに預けていた荷物をピックアップして、バスで空港へ、その後空路バルセロナへと向かった。
バルセロナ市街地中心部を貫く有名な「ランブラス大通り」と十字に交わる細い路地を少し入ったところにあるホステルを探した。
そこが立ち合わせ場所であった。中々入り口が見つけられなかった。工事中のビルの周りを取り囲む板塀に、工事現場に通じる
ようなドア一枚が付いていた。まさか工事現場内にホステルがあるわけないと思いながらもドアノブを回して入った。
すぐに急な階段が控えていて、見上げるとホステルの雰囲気が伝わって来た。ホステル内は意外とモダンで快適そうであったので
安心した。娘夫婦と孫が元気にシチリア島を旅し、スケッチも順調であったと聞いて安堵した。
翌日は予備日にしてあったので多少はのんびりと過ごしたが、時間がもったいないと、私は3度目となる「バルセロナ海洋博物館」
へ出向き、新たな視点で館内を巡覧し、新たな発見にチャレンジすることにした。
その後、娘婿は翌早朝日本に帰国し、再び3人となった我々は空路イタリアへと向かった。目的地はミラノであった。我々を含む
大勢の乗客の預け入れ荷物がロストとなり、2時間もかけて今後1週間の滞在先予定などを申告してバッゲージ・クレームを行なった。
手持ちの所持品は貴重品などを入れたリュックサックやスケッチ用の「商売道具」を入れたバッグだけであったので、ダウンジャ
ケットなどを買い求めようと街を駆けずり回り、スイスでの寒さ対策をした。ミラノから電車でティラーノという、スイスとの国境に近い
町に移動した。そこで「ベルニナ・エキスプレス」という、天井部分まで総ガラス張りの山岳観光列車で、アルブスの山々や高原風景
を見上げながらサンモリッツを目指した。天気は快晴で素晴らしく、ブルースカイをキャンバスにして、緑の山々と牧場風景が四方
八方に広がり、絵葉書に見る以上の美しさであった。列車はどんどん高度を上げて行き、眼下に広がるアルプス山岳風景に魅了され続けた。
サンモリッツから一駅戻った町にあるヒュッテ風ホステルに投宿した。
翌日、サンモリッツからロープウェイで「コルビグリア山 (Corviglia) 」の標高2,500mほどにある展望台まで空中散歩を楽しんだ。
長女はその展望台に腰を落ち着けてスケッチ三昧となった。私と孫娘は近くの残雪で戯れ、四方八方に広がるアルプスの山々の絶景
を楽しんだ。展望台からの帰りは、今は残雪も消えてないゲレンデや、急な山道を転げるようにして下った。まさに、アルプス山岳風景
に囲まれ、それをわしづかみにしながら、アルプスでのワンデリングを楽しんだ。アルプスの自然道を自分の足で辿り、高度200mほど
下山するというのはまたとない思い出深い体験となった。そこからロープウェイで再び空中散歩しつつ、下界の村に着地した。
さて、翌日再びアルプスを駆け抜ける「氷河特急」で、半日ほどかけてツエルトマットまで移動した。
翌日ケーブルカーで標高2,300mの「スネガ展望台」へ上った。標高4,500mのマッターホルンが天に楔を打ち込むようにそびえ立つ
雄姿を間近に眺めながら、アルプス山中での空中散歩を堪能した。四方どこを向いても素晴らしいアルプスの眺めに感嘆するばかりで
あった。長女は太陽の光がさんさんと降り注ぐ屋外の展望台のテーブルに陣取り、腰を落ち着かせじっくりとスケッチに励んだ。
私と孫は展望台の周りを行ったり来たり、上ったり下ったりして、私自身何の弱音も吐くことなく孫と戯れ続けた。70歳という
限界の壁に達しようとしていたが、気持ちだけはまだまだ若かった。
ところで、展望台を少し下ったところに小さな池があった。その水面が鏡となり、そこに逆さのマッターホルンが映っていた。観光
ポスターなどでよく見かける「スイス・アルプスのとっておきのマッターホルンの最高の風景」はここにあった、ことに気付いた。
まさにそこで切り撮られた、絵葉書以上の絶景のマッターホルン風景はそこにあった。余談だが、池には丸太を組んだ小さな筏が
浮かべられていた。両岸にロープが渡されている。子供たちがそのロープを引っ張り、筏で両岸を行き来して「天空でのプチ冒険」
を楽しんでいた。我々親子も天空での筏遊びに興じてみた。
ホテルに戻ると、ロスト・バッゲージがチューリッヒ空港に送り届けられたという報に接した。急遽ホテルを引き払い、当初の
計画通りその日のうちにチューリッヒに向かい、そこで一泊することにした。既にチェックインしホテル代金を支払っていた。その
払い戻しを諦め、チューリッヒ行きの電車に飛び乗ったという訳である。翌日、アテネ行きのフライトへの搭乗手続き直前に
ロスト・バッゲージを受け取り、その足でアテネに向かうことができた。ロストして5日目にして、ようやくアテネのホステルで
着替えることができた。この程度のロストでよかったのかもしれない。格安航空便の荷物は正規便と比較して相対的にぞんざいに扱われる
ような気がするので、ロストの場合の対処策を予め心しておいたほうがよさそうである。
アテネ空港から地下鉄で市街地中心部の「モナスティラキ駅」で乗り換え、ホステルのある「オモニア駅」へ向かった。
モナスティラキ駅はアテネの中で最も混雑する駅であった。ところが、その駅で路線を乗り換える時のこと、災難にあった。夕方の
ラッシュアワー時のことで、ホームには大勢の乗り換え客がいた。いざ乗り込もうとすると、やたらと我々を後ろから無理やり
押しながら乗り込もうとする客がいた。乗り込んでもまだ押してくる客に気付き、「これはやばい」と思い、少しは抵抗をしたらおさまった。
一駅先の目的地のオモニア駅で下車した。そして、すぐに後ろポケットを探ったら、やはりしてやられていた。
クレジットカードや現金少々をスリ・グループにしてやられていた。情けない。乗車直前に用心して財布・パスポートなどは
リュックの奥深くにしまい込む時間があった。だが、後ろからぎゅーと押されていたので、カードなど幾つかを小分けにして
後ろポケットに入れたままにして乗り込まざるをえなかった。電車に乗り込む直前にその
ことに気付いていたので何とか対処したかったが、それをする暇もなく押し込まれてしまった。懸念した通りであった。後の祭りであった。
こうしてアテネの地下鉄でスリの洗礼を受けてしまった。長女の携帯電話ですぐに国際電話、日本のカード会社に連絡し、支払いをその日
からストップしてもらった。ホステルにチェックイン後、最寄りの警察署に出向き、念のため盗難の被害証明書をもらっておくことにした。
件数が余りに多いのであろう、当直警察官がすぐに一枚のフォームを手渡してくれた。最低限の必要事項を書き込んだら、彼はすぐに
フォームに押印署名し証明書として発行してくれた。スリ集団も手慣れたもので「お見事!」と言う他なかったが、警察官も手慣れた
もので、何も聴取することもなく、押印署名するだけのことであった。彼にとっては片手間以下のどうでもよい、いつものルーティン
的事務の一つであったようだ。
エーゲ海のクルージング旅程だけは、日本を出る前から未定であり、何の手配もできていなかった。翌日、モナスティラキ駅周辺
の繁華街をのんびりと散策するうちに運よく旅行代理店を見つけたので、これ幸いと早速立ち寄った。宿泊地としたい島嶼、そこでの
滞在日数、ホテルのクラスなど幾つかの条件を提示しながら、明日以降のエーゲ海巡りの旅程を代理店側からいろいろと提案をしてもらった。
先ずアテネから日帰りで3島嶼巡りをする最もポピュラーで簡便な遊覧船ツアーに参加することにした。その後、ミコノス島、
サントリーニ島、ナクソス島を巡り、それらの3島で2泊ずつすることにし、その定期航路フェリーのルート、フェリー船室クラス
やホテルのクラスなどをほとんど代理店任せで決めたところで、バウチャーを発行してもらい、
エメラルドグリーンのエーゲ海に船出する準備を手際よく整えることができた。
意外と早く島巡りのスケジュールをフィックスすることができ時間的に余裕ができたので、私は真っ先に「ヘレニック海洋博物館」へ
出向いた。地下鉄で「ピレウス港」へ。そこから「ゼア港」へ歩き出したが、方角を少し見誤った。そのお陰で遠回りになってしまったが、
両港の間にあるアテネ郊外の別の顔というべき高級住宅街のそぞろ歩きを楽しむことができた。「ゼア港」はさほど大きくないが
奥行きのあるほぼ円形の高級ヨットハーバーで、コートダジュールのカンヌの入り江で眺めた美しいマリーナを連想させた。
海洋博物館はその湾口を外洋側に少し回り込んだところにあった。ギリシャで初めての本格的な海洋博物館の見学、わくわくしながら
館内に足を踏み入れた。想像していた通り、玄関ホール脇の特別展示室には、歴史にしっかりと刻まれたペルシャ軍船とギリシャ
軍船との大海戦「サラミスの海戦」の戦いについて解説するパネルや、幾つかのトレリーム(三段櫂船)といわれるガレー船の精巧な模型
などが展示されていた。館内にはその他、数多くの古代や近現代の艦船模型、ギリシャ海軍の歴史を示す遺物などが所狭しと陳列され
ている。
翌日10月10日、ピレウス港から少し離れた「フリスヴォス港」から、アテネ近海に浮かぶ「サロニコス諸島」の「イドラ島」、
「ポロス島」、「エギナ島」の3島嶼の日帰りクルージングに出掛けた。エーゲ海島巡りツアーの中で最もポピュラーといえるもので、
最初に立ち寄るイドラ島が最も印象深い。クルージング船が横付けされた埠頭は半円形の小湾の湾口部にあり、その背後には緑豊かな
山々が迫り、その斜面には白亜の住宅が山頂に向かって連なっている。湾岸沿いにはブティック、装飾品店、土産物店、レストランや
カフェなどが密集して軒を連ねる。フェリー甲板から眺める風景は南欧のコートダジュールの景色、またはそれ以上のエーゲ海風景が
広がる。澄み渡ったブルースカイ、エメラルドグリーンの海、背後に緑の山々、斜面に連なる白亜の家々、その屋根にはオレンジ色に統一
された瓦が色を添える。空、海、陸の最高のコラボレーションを醸し出す。どこを切り撮っても絵葉書にしたい風景が広がる。
岸壁沿いの空地にはカラフルなビーチパラソルが花のように咲き乱れる。フェリー出航までの暫しの間隙を縫って、大勢の旅人が
テーブルを囲みカフェを楽しんでいる。今日は絶好のクルージング日和であった。
我々は時間を惜しんで細い路地を山に向かって進み行き、スケッチの「被写体」を探索した。長女は路地の片隅に腰を降ろして、
気に入った路地風景をスケッチするのに余念がない。後日スケッチを完成させるために、記録用の写真を撮っておくことも重要な
仕事である。私はその路地と海岸との間を何度も往復しながら、時に波止場沿いにベビーカーを押して子守りをした。時に何頭もの
ロバの隊列とすれ違った。狭く急な山道を登って宅配するのであろう。埠頭では小型貨物フェリーから日用品や食料、飲料水などを
ロバに背負わせ、狭い路地へと消えてゆく。ロバの首には鈴がぶら下げられ、チリンチリンと音色を響かせながら路地を上がって行く。
5歳の孫娘には楽しい動物観察となった。その後ポロス、エギナの2島巡りをして、明日からのエーゲ海への本格的クルージングに向けて
目と足腰を鍛えた。良いウオーミングアップとなった。そして、旅行代理店で設計してもらった通り、翌日からは定期大型フェリー
を乗り継ぎながら、島から島へと旅した。
さて、早朝我々は「シロス島」さらに「ディロス島」を経由して、「ミコノス島」へと向かった。今日も快晴でフェリーはブルースカイ
と紺碧の海を突き進んで行った。ホテルは大型船が寄港する港と町との中間にあって、窓からはブルーオーシャンとブルースカイが
溶け合う穏やかな空と海風景が広がっていた。翌日にも、町に出掛けた。旧港を取り巻くように白亜の住宅が密集し、細い路地が
迷路のように入り組んでいた。両側にはいろいろなショップやカフェなどが建ち並ぶ。その中に、目当てにしていたミニ「海洋博物館」
があった。古い舶用品を所狭しと並べ、まるで船具店のようであった。さらに路地を進むとカフェテラスに出た。カフェのテーブルに
座るとすぐ脇まで海が迫り、手を伸ばせば海水をすくい上げれそうであった。「足湯」ならぬ「足の海浴」ができそうであった。
運悪く高潮ともなれば、カフェテラスは浸水の憂き目に曝されそうであった。カフェテラスから行く手にある丘を眺めると、4基ほどの
巨大な白亜の風車がそびえ立っている。羽根が回っている様子はなかったが、「ミコノス島」のランドマーク的原風景である。
翌日、次のフェリーで「ディロス、パロス、ナクソス、イオス島」を経由して、「サントリーニ島(ティラ島)」へと向かった。
「ティラ港」で下船後、ミニバスで絶壁をはうように九十九折の急坂を上り、島の北端にある町「イア」へ向かった。部屋に落ち着いた後、夕暮れ時になって
町へ散歩に出て初めて見る光景にびっくり仰天した。断崖絶壁の頂上とその斜面上部に、フジツボが岩に張り付くように、数多の
白亜の家々が建ち並び、オレンジ色の街灯が家々から淡い光を放っていた。
それは絶景の中の絶景と表現するほかないものであった。幻想的な風景でもあった。ここでしか見れないエーゲ海の絶景に放心状態と
なった。
眼下には、巨大な火口湖を見下ろすが如く、群青の地中海が広がる。大昔、火山の大爆発で島の中央部が吹き飛び、周囲の山裾
だけが残ったような島の一つがこの「サントリーニ島」のように見える。例えて見れば、阿蘇山が大爆発を起こし、中岳など中央部
の山々が全て吹き飛び、さらに周囲の外輪山も「大観峰」に絶壁だけを残して他はほとんど没してしまい、
そこに太平洋の海水がなだれ込み、大観峰の周囲だけが島として海に取り残されたといえばよいであろうか。そして、大観峰の山頂
やその急斜面に白亜の家々がへばりついたような様相に例えることができよう。
「サントリーニ島」の「イア」の、そんな白亜の家々が絶壁にへばりつく風景は観光ポスターでよく見かけるものである。
現実にその絶壁に立って眺める白亜の家々、紺碧の海とそこに浮かぶ外輪山のような幾つかの島々の光景は、この世の風景とは
とても思えぬほどの絶景に圧倒される。人生の後先において、これほどの絶景にお目にかかったことはないと自信をもって言える。
翌日、「イア」の街をくまなく散策した。長女は早朝から陽が高く昇るまでスケッチに没頭した。私はベビーカーを押しながら、
そんな絶景を眼下に観ながら、何時間も行ったり来たりして子守りをした。同じ子守りでも、サントリーニ島の絶景を前にしての
子守りであり、これ以上の自然環境での孫娘との楽しい過ごし方はなかった。午後には子守りを交代をして、私は立ち寄りたかった
「海洋博物館」を目指してイアの町はずれに出掛けた。一軒家の小さな博物館には船模型、海や船の絵画、古い船用具などびっしりと
詰め込まれ、何か掘り出し物を探すかのようにじっくり巡覧して回った。
さて、「ティラ港」から大型フェリーに乗り「ナクソス島」へ移動した。港の背後には小高い丘があり、そこに城塞がそびえ
立っていた。お上りさんになって市街地から急坂の路地を辿り、頂上にある城塞内へ足を踏み入れた。路地に沿って密集する住宅街
にところどころアート作品を売るショップなどに立ち寄りながら散策した。頂上で、朝作りおいた手製の弁当を3人で食した後、
丘を下り港周辺の市街地へと戻り、その足で港の先の岩場に立つ「アポロ神殿」を訪ねた。最後は港を見下ろせるカフェテリアで、
今回の船旅における最後のカフェを飲みながら、沈みゆく太陽が地中海の穏やかな海面に映し出す光の長い柱を眺めた。
明日はいよいよアテネの「プレウス港」へ戻る最後の船旅であり、万感の思いが込み上げてきた。
実は初日に「サロニコス諸島」の「イドラ島」などの3島嶼を周遊した後に「フリヴォス港」に帰港した折、同港内に「船舶博物館」
らしきものがあるのを視認して、アテネ滞在中に是非とも見学しようと決めていた。ようやく、そのチャンスが巡って来た。
電車を乗り継ぎ、最寄の「トロカデロ駅」で下車し、「プリスヴォス港」まで歩いた。
そこにはガレー船の一種である三段櫂船「オリンピアス号」(復元船)などが係留されていた。博物館にはその他、世界で唯一現存
する装甲巡洋艦、その他客船などが係留展示されていた。乗船できたのは巡洋艦のみであった。三段櫂船の実物大復元船はバルセロナや
ジェノバの海洋博物館で見たことはあるが、実際に海に浮かべられ、漕ぎ手さえいればいつでも衝角で水を切って進むことが
できるガレー船を見るのは初めてであり、感慨ひとしおであった。
帰国前日になって正に駆け込みで、「国立歴史民俗学博物館」へ出向いた。そこで見たものはギリシャ時代の神々の大理石の立像、
古代エジプトの王墓から発掘された副葬品としてのエジプト船模型とその漕ぎ人などである。さらに「軍事博物館」へも急いで駆け付けた。
そこで、「サラミスの海戦」の歴史的資料、古代ギリシャのガレー船などの数多くの模型、ギリシャ海軍の歴史を解説するパネル展示など、
巡覧時間が少なくて到底見終わらず、後ろ髪を引かれながら博物館を後にした。いつの日か「軍事博物館」再訪できることを心から祈った。
同博物館におけるガレー船やサラミス海戦などの展示内容が事前に分かっていれば、もう少し見学時間を工夫できたものと後悔をした。
翌日アテネからカタール航空でドーハへ向かった。しかし、フライトが遅れたために、乗り継ぎが間に合わず、カタール
航空の配慮の下、ドーハで期せずして五つ星ホテルで一泊というおまけが付いた。久々にドーハの旧市街地をたむろした。長女にとっては
初めて体験するアラブの世界であった。8年ほど前にたむろした旧市街地区が少し廃れているようで寂しい限りであった。町を見渡すと
以前よりも増して、超近代的ガラス張りの高層オフィスビルなどが海岸線に沿って建ち並ぶ。まるでア首連のドバイを追いかける
ように見える摩天楼風景であった。さすが猛烈な太陽の照りには脱帽し、冷房の効いたローカルな安食堂で休んだ後、コルニッシュ
大通りから湾に突き出て海上宮殿のように見える「イスラミック・アート博物館」を訪ねた。モロッコなどの北アフリカから、
中近東、中央アジア、インドにまたがる広大なイスラム文化圏から収集された、7世紀頃から現代までの貴金属、陶器、象牙細工、
装飾品、絵画、絨毯、織物、コーラン写本などの芸術美術品などのコレクションが展示される。そこで思いがけない珍しい展示品
に遭遇した。イスラム圏で使われていた、1ダース以上の数の、天体高度を測る古代のアストロラーベのコレクションが展示されていた。
こんな陳列はイスラム圏ならではであり大変貴重であった。
かくして、翌日ドーハから帰国の途に就いた。振り返れば、ほぼ30日間5か国を巡る「倹約旅行」にとなった。ギリシャに
着いた頃より、3人はホームシックにかかっていた。歳のせいなのか、今回ばかりは、かなりホームシックに悩まされた。
今後は旅はいくら長くても2週間以内とすることにした。贅沢な話ではあるが、自分たちの見たい景色と展示品ばかりを追いかける
旅でありながら、30日間という旅は余りにも長く感じてしまった。昔の旅人が何年も何十年も故郷を離れて旅を続けることの
忍耐力、好奇心などの精神構造をどう理解すればいいのか。昔の旅人の偉大さに敬意を表するとともに、我が旅については最長2週間
にすることにした。
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