2017年4月に初めて一人で中国本土を旅した。中国には公私にわたり何度か旅をしたが、中国人の友人と
一緒の旅であったり、公務の場合は他の団員や中国側関係者と一緒で、どこに行くにも誰かがガイド役になって引率するという
スタイルであった。だが、初めての一人旅では当然のことだが、何から何まで自らの判断で行動することになり、中国語のできない
私にとってはまさに「冒険」というに等しく、失敗や難儀することが多かった。宿のベッドで寝入る時以外はいつも緊張の連続であった。
さて、幾つかの都市の市街地や近郊で京杭大運河の本流をしっかりとこの目に焼き付けるために旅したが、その運河巡りの
探訪地は主に3都市だけであった。先ず上海では、創始されて間もない「上海航海博物館」を見学した後、鉄路で杭州に移動した。杭州市内の
「栱宸橋 (こうしんきょう・Gongchen Bridge)」(いわば京杭大運河の南の起点ともいえる)に向かった。アーチ形の伝統的
スタイルを有し、歴史の厚みを感じさせる石造りの橋である。橋上から水を満々と湛える大運河本流を初めて眺めた。沢山のはしけが
行き来する雄大な姿があった。また、「京杭大運河博物館」(入り口ホールには「清・南巡道理図(複製品)」という大運河の
古いルート図が展示される) も忘れずに見学した。
南京へ移動後、明の時代に何度もインド洋などの南海方面に航海した中国艦隊提督・鄭和にまつわる寺院や博物館などを見学した。
幅7㎞以上の大河・長江に架かる「南京大橋」(上部は車道、下部は鉄道の2階建て、長さ6.7km、1968年完成)を少し下流に
臨めることができる渡船発着場の桟橋に立った。そして、人と自転車だけを渡す渡船で長江を往復する初体験を楽しんだ。
初めて長江(揚子江)本流をまじまじと眺めながら渡河した。
その後、蘇州に移動し、日本でもよく知られる「寒山寺」の傍を流れる京杭大運河本流を眺めた後、蘇州郊外にある「宝帯橋」
に何とか辿り着き、再び運河本流の畔に立った。橋は同運河の十字路の一角にあった。橋は橋でも運河をまたぐものではない。
その昔、運河を行き交う船には動力がなく帆を推力としていた。その頃、風力が強くても弱くても十字路を90度しっかりと回頭し、
航行し続けられるように、大勢の曳き船人夫らが船にロープを渡し、操船を助ける作業を行なった。その作業を円滑に行なう
目的で造られた「曳船道」としての橋である。そこで飽きるまで行き交うはしけを眺めていた。
かくして、生まれて初めて京杭大運河の十字路の岸辺に立つことができた。だが、わずか3都市における運河眺望であり、
それはほんの「点」に過ぎず、「線」ではない。大運河は北京・杭州間1,800kmほどあり、「運河を踏査した」とは冗談にも言えない
ものであった。
文献によれば1,794㎞とも、2,000km(北京~杭州・寧波)とも、あるいは古代運河も含めて総延長2,700kmとも言われる大運河
に沿って全てを走破することは到底できない。運河沿いに全て道路が敷かれている訳ではないし、北京・杭州間を運河の風景写真
を切り撮りながら車で走破するという「冒険」にチャレンジできるような、そんな年齢ではなくなってしまった。
また、今ではそうすることの意義も余り感じられない。
30歳代の若かりし頃、アルゼンチンのパタゴニアの荒野を3,000kmほど家族と一緒に車で走破したり、50歳代前半の頃アメリカ
東海岸沿いに何千kmかを25日間ほどかけて旅した。若かったので長距離を単独運転して肩こりに悩みながらも走破できた。
昔中国に数年でも赴任し、それなりの運転歴や土地勘があり、語学もできれば、70歳を超える今でも走破できる自信を多少とも
持ち合わせていよう。だが、今になって、運河沿いの道に全く不慣れなままいきなり数千kmの走破にチャレンジする
のはかなり無謀に思えてしまう。単独運転では体力的にも困難であろう。
広大な中国大陸を幹線道路だけ走り続けるのであればまだしも、運河の岸に近づくために支線や田舎道を行くには余りにも
土地不案内である(といっても、運河沿いに走行するに当たり、中国でのカーナビがどの程度有効なものなのか知らない)。
中国では数多の監視カメラが設置される社会であるから、地方の田舎ではともかく、都市部での運河や土木構造物(閘門など)を
集中的に写真撮影するのは、一般市民からもスパイと間違えられそうである。スマホの時代ではすぐに通報され、公安警察が
駆け付け不審人物として扱われるのではないかと憂慮する。前回の運河の旅では、
無数の監視カメラによる「無言の目」や、全ての鉄道駅舎での手荷物検査の物々しさなどを経験した。理由にもならない
理由でいつ何時拘束されかねないと言う恐怖を抱くことがある。考え過ぎだろうか、、、。
英語やスペイン語圏であればほとんど不自由なくコミュニケーションしながら気軽に楽しく旅ができようが、中国語を全く
話せずコミュニケーションできないというのは(多少漢字で筆談はできるか)、何をするにも難儀が付きまとう(今では翻訳機能付きスマホもあるが)。
とは言え、それを「冒険」と捉え楽しむのが独り旅の真髄と言えそうではある。
スマホをそれなりに使いこなせないと、宿も確保できない。宿は外国人宿泊禁止のところも多く、飛び込みでは宿泊困難。
また、旅中において何かと要領が悪いと賢く倹約することも難しい。
日本語専攻学生などに通訳兼ガイドとして旅程に付き添ってもらうとすれば、出費は大きいだろうが、何の心配もなく観たいところ
だけをしっかり観て回り、旅目的を十分完遂できよう。また、独り旅よりも楽しさや中国事情の学びは遥かに増すに違いない。
さて、前回の運河旅で訪問できなかった場所のうち、運河の歴史、仕組み、役割などを実感する上で重要な地点が
数多く残っている。運河沿いの主要都市やそこでの運河本流風景に接し、運河関連博物館・土木構造施設などの全てを観て回ることなど、
広大な中国のことであるから、余程本腰を入れないとできないことである。因みに、特に優先して訪ねてみたい具体的な場所・
施設につき暫定的に次のようにリストアップしたい(優先順位は別にして)。
・ 大運河の最南起点である「寧波(ねいは・ニンポー)」: マルコ・ポーロがイタリアへ帰国する際、大都(北京)から運河を船で
ここまで南下し、さらに泉州までは陸路で南下し、泉州からは外洋船で「海のシルクロード」を辿ったはずである。
杭州から遠いが、泉州の「海上交通博物館」を一度は見学したい。上海-泉州はフライトで往復。
・ 杭州を流れる「銭塘江」と大運河との交点とその近傍の閘門「三堡閘門」。
・ 長江と大運河とが交わる「揚州」(近傍の「鎮江・チェンチアン・やんちょう)」)とその閘門「瓜洲船閘」、その交点南側の「京口」。揚州では
運河沿いに「文峰塔」という八角形で七重の塔が建つ。そこから運河、長江、およびその交点近傍にある鎮江の閘門を見下ろせる
はずである。揚州の「三湾古運河」沿いにある、運河をテーマにした総合的な博物館施設の「揚州中国大運河博物館」の見学。
・ 黄河沿いの運河町「開封」(かいふぉん)(汴州・べんしゅう)。
・ 黄河と大運河(「永済渠(えいさいきょ)」)との交点である「板渚」とその閘門。
・ 淮河(わいが)と大運河との交点である「山陽」とその閘門(山陽は「山陽瀆(さんようとく)」の最北部)。
淮北(ホワイペイ)市には「隋唐大運河博物館」がある。
・ 大都-黄河(板渚)-長江-杭州に至る「く字形」の大運河とは別に、直線的形状の運河の建設により距離短縮化を図るために、
黄河-淮河間の運河が開削された。そのルート上には高地が横たわっていた。そのため、船が昇降するための数10の閘門が建設され
山越えをする土木工事が行われた。その高地の聊城(リャオチョン・りょうじょう)や南旺などにある閘門遺跡などを見学したい。
その昔水源地が確保できてはじめて運河貫通が実現されたものである。
・ 日時的に余裕がありそうなら、黄河上流の、西安(長安)や洛陽にも足を踏み入れたい。洛陽にも「隋唐大運河博物館」
(Luoyang Sui-Tang Dynasties Grand Canal Museum)がある。三峡ダムの閘門を船で通過するために三峡まで足を延ばせるだろうか。
いずれにせよ、訪問地や観たいものを厳選する必要ある。特に大河(黄河、淮河、長江、銭塘江など)と大運河との交点
およびその周辺には、観てみたい運河本流の自然風景や閘門などの被写体が多い。その辺りでは、髙い建築物(例えば
近傍の寺院の仏塔など)から眼下に大運河・閘門や船舶交通風景を見下ろせるところを探したい。
具体的には、寧波(大運河最南の起点)、鎮江や京口(揚州近傍の長江と大運河との交点)、開封、淮北(わいほく・ワイペイ)
などは探訪したい最優先の地である。
今後、大雑把な日程モデル案を練りつつ、さらに情報を積み重ねることで具体案を作成していきたい。
余談であるが、前回の独り旅での失敗や難儀した経験などを通じて気付きや学びが多かった。それらをも踏まえながら、合理的にして
快適・スムーズに、ストレスを抑制しつつ楽しめる様々な旅行術やツールを探り出したい。
・ 自宅パソコン上のグーグルマップでの安宿の位置と、現地での実際の位置との間にかなりのずれがありうるので、それに頼り
過ぎるは避ける。無名の安宿では通りがかりの人に訊ねても場所を特定できないことが多い。少なくとも中国でも展開する国際的な格安ホテルチェーンを
サーチしたい。
・ 中国で問題なく使える日本語仕様のスマホをどこで(羽田・成田や上海空港など)どうレンタルできるか研究する。
WiFi事情の調査。
・ 中国でのスマホ決済・支払い事情について。市内交通機関での切符購入と支払い。食事、切符、タクシー、宿泊、博物館の予約法や
代金支払い(現金やスマホ支払い事情)。
・ 長距離列車の切符購入事情: その方法、現地でのスマホ予約と支払い。
・ 一般旅行代理店・国際旅行社でのサービス提供内容について。
・ コミュニケーションを取る方法を十分研究する: スマホの翻訳通訳アプリ、単体の翻訳機の利用、旅中に必須となる語彙・
単語・文字の指さしノート。
・ 通訳兼ガイドについて: スマホで探せるか、ガイドの見つけ方など。
・ 詳細旅プラン(訪問都市や施設その他条件)を提示し、通訳兼ガイドにつき旅行会社と協議し、見積もり依頼する。
さて、大運河建設の歴史について概略触れておきたい。中国の歴史をひも解けば、特定の皇帝・王朝によって少なくとも3回に渡り
運河の建設・修復などに関わる特筆されるべき大きな取り組みがあったとされる。即ち、主に4つの時代、春秋、隋、元、明の時代に
開削・修復・整備された。先ず、隋・元時代に整備された運河のまとめを記しておきたい。
文帝(隋)の整備した大運河
「広通渠(廣通渠)・こうつうきょ」 黄河〜長安 584年開通
「邗溝・かんこう」 (山陽瀆・さんようとく) 淮河〜長江 587年開通
煬帝の整備した大運河
「通済渠・つうさいきょ」 黄河〜淮河 605年開通
「永済渠・えいさいきょ」 黄河〜涿郡 608年開通
「江南河・こうなんが」 鎮江・ちんこう〜杭州・こうしゅう 610年開通
元代が開いた大運河
「済州河・さいしゅうが」 淮安・わいあん〜大清河・だいせいが
「会通河・かいつうが」 大清河〜永済渠・えいさいきょ
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(1)呉王夫差(ふさ)と邗溝(かんこう)
・ 呉王夫差(紀元前495年?-前473年)は中国春秋時代末期の呉の第7代にして最後の王である。夫差は都を長江南部の蘇州に置いた。
当時長江の北には水路がなかった。夫差は北での覇権を握るためにいわば「戦いの道」として、
春秋時代の紀元前486年、淮河(わいが)と長江とを繫ぐ「邗溝(かんこう)」(または「邗沟(かんこう)」。
後の「山陽瀆(さんようとく)」)と呼ばれる、中国最初の運河を造った。またその他の沟(渠の意味)も造った。
・ なお、魏の惠王は淮河と黄河を結ぶ運河を造った。
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(2)秦・始皇帝と運河
・ 秦の始皇帝は、紀元前221年に初めて中国全土を統一した。そして、秦は黄河支流の渭河(渭水)の下流域にある咸陽(かんよう・シェンヤン)
に都を置いた(なお、漢王朝はその南東対岸の西安(長安)に都を置いた)。秦は、紀元前206年にわずか15年で滅亡した。
・ 秦の運河開削の歴史について言えば、秦の政(始皇帝)の「鄭国渠(ていこくきょ)」に始まる。紀元前247年に13歳にして
政(正とも。後の始皇帝)が秦王となった時、鄭国という人物が、関中の黄土地帯を開拓するために渭水(渭河)の支流の水を
引いて灌漑用水を造ることを献策した。結果、完成した用水は「鄭国渠」と言われ、現在も使われているという。
・ また、始皇帝は、紀元前214年に嶺南(今の広東・広西)にある南越を征服すべく軍を派遣した時、華中と嶺南とを南北に結ぶ
「霊渠」という運河を建設した。結果、南海の象牙や真珠などの産物を華北にもたらすことになった。霊渠も現在も使われている
という。
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(3)隋(紀元後581~618年)・楊堅(帝号は文帝と言い、隋の初代皇帝; 在位581-604年)の大運河
南北2つに分かれていた隋・陳であるが、隋が581年に300年ぶりに中国を国家再統一した。全土を統一した隋は、都圏の人口増加を支える
ために、都・大興城(文帝は都の長安を大興城と改めた)と生産力の豊かな江南地方とを結ぶ大運河の建設を開始した。
そして、大興城から黄河に通じる運河(広通渠)などの建設を行った。
文帝はまた、律令制度の整備、科挙の創始による中央集権体制の確立をも行ったことで知られる。
・ 隋文帝は、584年、長安と黄河とを結ぶ「広通渠(こうつうきょ)」を建設した。隋代で最初に建設された運河である。
隋の都・長安を中心とした関中地方の人口増加に伴う食糧不足を克服するため、黄河につながるこの運河を築造し、
中原(華北平原)で生産される穀物を輸送した。
西安(長安)は13の王朝の都であり、漢・唐の時代に繁栄した。繰り返しだが、長安は人口が多く、また官僚も増えて周辺で作る食糧では不足した
ことから、この問題解決のために、隋の文帝は584年に「広通渠」を造ったもの。
「漕渠」:西安市の新合村にその跡が遺る。「鴻溝」:黄河と淮河の間を斜めに結ぶ。
・ 文帝の587年に、淮水と長江を結ぶ運河「山陽瀆(さんようとく)」を建設した。
・ 隋文帝が整備した大運河
「広通渠(こうつうきょ)」 長安~黄河 584年に開通。
「山陽瀆(さんようとく)」 (邗溝・かんこう) 淮河〜長江 587年に開通。
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(4)隋・煬帝の整備した大運河
「通済渠(つうさいきょ)」 黄河〜淮河(わいが) 605年に開通。
「永済渠(えいさいきょ)」 黄河〜涿郡 608年に開通。
「江南河(こうなんが)」 鎮江(ちんこう)〜杭州(こうしゅう) 610年に開通。
・ 隋第2代皇帝・煬帝は604年に即位し、すぐさま大運河の建設のための大土木工事を命じた。煬帝は605年に、黄河と淮河を結ぶ「通済渠(つうさいきょ)」を建設した。これによって
江南の物産が長江から長安へと物流することになった。華北と江南地方とを結ぶ重要な機能を果たすことになる。
・ 煬帝はさらに、長江の南岸から杭州に至る「江南運河」を完成させた。長江下流域の揚州と浙江省の杭州とを結ぶ運河なので、
これによって長江デルタ地帯と遠く離れた長安とが水路で結ばれることとなった。運河により長安の民は飢えることなしと言われた。
・ また、608年には黄河中流と現在の北京付近とを結ぶ「永済渠」を開いた。
高句麗に遠征軍を派遣するために軍事的物資・食糧の兵站のための輸送路として、都・洛陽から北方へ運河を造ろうとした。他方、穀倉
地帯の江南地方まで食料(糧食は税収の一種であるとされた)や必要物資の調達のため、南方へ運河を造り、洛陽を起点に
「くの字形」または「横Y字形」の大運河を建設しようとした。煬帝は完成の翌年から3回に渡り高句麗に派遣軍をもって侵攻した。
しかし撃退され失敗に終わった。
・ 洛陽を中心点としたこの「横Y字形」の運河網が、長安と杭州・北京地方とを結ぶ大動脈となって中国の経済的統一に大きな
役割を果たした。後の元や明・清王朝も運河の整備に力を入れ、現在においてもこれらの大運河網は活用されている。
洛陽は大運河のお陰で、中原(華北地方)の経済の中心地として栄え、後の宋(北宋)の都となった。
また、洛陽は大運河の起点、即ち北方に伸びる運河(永済渠)と南方へ伸びる
運河(通済渠・山陽瀆・江南河)の分岐点・結節点といえる。洛陽から東へ100kmほどの鄭州(ていしゅう・チョンチョウ)、さらに
東方の開封(カイフォン)へ、さらに南東250㎞ほどの淮北(わいほく・ワイペイ)へと通じる。
黄河・長江を結び、北へ伸ばしては北京へ、南に掘り進んでは杭州に至る全長1800kmの大土木工事をやってのけた。
・ 大運河の建設には多数の人民が徴発された。過酷過ぎる負担が隋王朝の支配への反発や反乱の火種となり、早い滅亡の一因となったとされる。
「開河記」によれば、至る所から、男だけでなく女・老人・子供など543万余人が集められ動員された。労役を逃れようとすれば
親戚に至るまで厳しく処罰された。工事の過酷な労苦で命を落とした者は250万人とも言われる。別の史料によれば、
600kmの長さを半年で完成させ、延べ350万人が動員されたともいわれる。
・ 余りの大工事に民は疲れはて、運河の完成3年後には各地で反乱が勃発し、兵は反乱を起こした。揚州を好んだ煬帝は洛陽から揚州へ逃避し、
長安を追われて都を揚州に移した。そこで放蕩な遊興三昧にふけって評価を落とした。煬帝の慰めは月見の宴だけであったという。
揚州の運河で女性をはべらしながら遊覧し、派手で瀟洒な船遊びに興じた。「二十四橋」というアーチ型の橋上に
24人の女性を並ばせ楽器を演奏させたという(故にその名がある)。揚州の大運河沿いに大きなレリーフが施されているが、
そこには煬帝が女性に囲まれて船遊びや遊興にふける場面が描かれている。
・ 煬帝は618年に腹心の親衛隊長の裏切りに遭い殺害された。隋王朝はその統一後わずか数十年を経た618年に滅亡した。日本では
飛鳥時代である。なお、2013年に、揚州郊外の工事現場で彼の墓(煬帝陵)が発見された。唐時代になって
造営された煬帝陵からは2本の歯も発見され、「揚州博物館」に厳重に保管されている。
・ 煬帝が築いた運河によって、隋王朝に続く唐王朝の礎を築いたといわれる。揚州の繁栄はその運河の中継点たる地の利をえて
初めて成り立ったといえる。そして、揚州はいつの時代でも大運河の一大重要通過点であり、要衝的地位にあった。
・ なお、運河の町・開封は過去7回も都であった。開封を都にした北宋は、画家・張沢端が描いた「清明上河図」のように繁栄した。
その繁栄に最も寄与した一つの運河が隋・煬帝が建設した「通済渠」であった。唐・宋の時代には「汴渠(べんきょ)」と呼ばれ、
大動脈の役割を果たした。江南地方の食料が開封まで運ばれた。隋の時代、大運河を通じて流通した物資の集積地として開封は賑わった。
宋の時代も開封に都が置かれ、国中の物資が集まり繁栄を極めた。
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(4)元(1271-1368年)の大運河
・ 元の時代に運河は現在のような姿となった。大運河は政治・経済・軍事・文化交流を促進し国家を統一を促進した。
金と南宋との対立のために中国全土の経済圏は分断されていたが、元朝の成立によって再び統合されることとなった。
そこで再び脚光注目されたのが大運河であった。なお、10世紀の五代十国時代には運河は荒廃した。時代は、北宋から金・
南宋へ移り、さらに13世紀になって元が成立した。
・ 隋の大運河は、長安・洛陽を結節点として、江南と華北地方を「横Y字形(くの字形)」に結ぶものであったので、元は都・大都(北京)と
江南地方(杭州)をより直接的に結ぶことで、より最短距離で南北縦断する運河の建設を新たに開始した。
1276~1292年の間にそれを完成させ、現在見るような大運河となった。他方で、元は南方の物資を海上輸送で華北へ輸送した。
その理由は、冬期には大都付近の運河が凍結して利用できなくなってしまうからである。
・ 通恵河(つうけいが)の開削: 元時代に都・大都から南東の通州まで開設された大運河の一部を構成する。1291年に、
フビライ・ハンの命で、郭守敬(漢人の技術者)が設計したもので1293年には完成した。
郭守敬は、大都(北京)の北40㎞ほどの「白浮泉」(昌平県; 龍を模した8の流出口から水を吐く)の水源から水路を「甕山泊」に導き、そこから城内の「積水潭」に引き込み、南の水門
から旧運河に合流させた。旧運河にも10数もの水門を設け、91kmほどの運河を完成させた。
これによって、従来は通州で荷揚げされていた穀物輸送船などが大都まで直航できるようになった。大都の
「積水潭」は輸送船で大繁盛となった。なお、「甕山泊」とは、現在の「頤和園」の昆明湖の前身である。白浮泉は大運河の最北端
に当たると言える。その南端は寧波である。
・ 既述の通り、隋王朝は、北京~都・長安(西安)~淮河~長江~杭州間を「横Y字形・くの字形」に結んだが、
1271年に北京に都を置いた元朝は、それをストレートにショートカットして北京と杭州とを最短距離で結ぶ運河を建設しようとした。
即ち、北京~現在の山東省・聊城(りょうじょう・リャオチョン)~淮河~長江~杭州を直線的に南北に繫こうとした。
ところが、高地に阻まれた。そこで、山東省の標高のある高地に幾つもの閘門を建設し「水の階段」を建設し、
高地を越えようとした。だがしかし、越えることができなかった。それをやり遂げようとしたのが明の永楽帝であり、彼は大運河を
蘇させた。
元代が開いた大運河
「済州河(さいしゅうが)」 淮安(わいあん)〜大清河(だいせいが)
「会通河(かいつうが)」 大清河〜永済渠(えいさいきょ)
「通恵河(つうけいが)」 通州~大都
「広済渠(こうさいきょ)」
.............................................................
(5)明・永楽帝(1360-1424年)の大運河
永楽帝。太宗、のちに成祖となる; 父は朱元璋; 永楽帝、北京に紫禁城建設する。
・ 元朝は北京~杭州間を最短距離の運河でもって結ぼうとしたが、高地で阻まれた。かくして、元の滅亡後の14世紀に建国された明は
300年続き、うち第3代皇帝・永楽帝(太宗のちに成祖となる; 父は朱元璋)は元の運河を改修し拡幅し、もって最短距離で北京・
杭州間を南北に結ぶ大動脈を貫通させようとした。
当時、明は南京の都を北京へ遷都したことから、江南から食料を調達する必要があった。
元が失敗した高地を経る最短ルートを永楽帝が完成させるに至った。煬帝以後最も大規模に大運河を改修し蘇らせたのは14世紀のことで、
明の永楽帝である。
・ 聊城(リャオチョン・りょうじょう)の高地で、かつての古閘門が発掘され復元された。現在は大運河の「土橋閘遺址」が設置され
ている。当時高地において水源が開発された結果でもある。
また、永楽帝は、黄河の南の「南旺」と称される最高地点の高地(標高140m)に閘門を建設し運河を切り開いた(「南旺水利工程遺跡」が
残されている)。水源も開発されたことによる。
・ 通州区の運河において紫禁城建設のための巨木(皇木と呼ばれる)が発見された。
通州から紫禁城近郊を経て、城の北側の「什殺海・じゅうさつかい」の「万寧橋」まで運河が開削された。
什殺海は「元の時代に使われていた大運河」の終着地点となった。「万寧橋」はいわば京杭大運河の北の最終地点である。
それ以前の大運河の最終地点は通州であった。
* 中国大運河のNHK録画資料など
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