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    [参考資料] テルナテ島等資料


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       第32章・目次
      第1節: 中国の京杭大運河を再び訪ね歩く(揚州・開封など)
       [参考資料] 「中国大運河」NHK録画資料など
      第2節: アフリカ大陸最南端の喜望峰と「ガーデンルート」の海を訪ねて
      第3節: インドネシアのモルッカ諸島(香料諸島)、スパイスと古要塞を訪ねて
       [参考資料] テルナテ島等資料
      第4節: 世界にも日本にも魅力ある旅に溢れている [作成中/Under Construction]


略 史
●ポルトガル人セラン1512年すでにテルナテ島に来ていた、1575年ポルトガル人テルナテ島から追放される。セランとマゼランとの関係。
●1521.11エルカーノ、ティドレ島に入港。だが、テルナテのポルトガルの貿易拠点は放棄されていた。
●テルナテ島に、1522年にポルトガル人が、そして後に1605年にはオランダ人が砦を築き、島を占領した。
●1546年に、ザビエルはアンボン島、テルナテ島、、モロタイ島を訪れ布教活動をしている。
●オランダ人は、1599年にモルッカ諸島に進出していたが、○オランダ人は1607年にはテルナテ島の一部を占領した。
その後○1663年にスペインがテルナテ島から撤退するまで、テルナテ島はオランダ領とスペイン領に二分された。
●ティドレ島に拠点を置いていたスペイン人が、1606年に、ポルトガル人がテルナテ島に築いた砦を占拠し、スルタンを捕まえ マニラに移送した。
●スペインは1663年にはティドレ島およびテルナテ島から撤退した。

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・   16世紀1500後半から17世紀1600にかけてティドレは、テルナテに対抗するヨーロッパ勢を支持している。テルナテが1575年に ポルトガル人を追い出した時、ティドレはポルトガル人を迎い入れて、要塞の建設を認めた。 このポルトガルの要塞は1606年にはスペイン人によって奪取され、ティドレはオランダと敵対関係にあるスペインを迎えたが、 スペインは1663年にはティドレ島およびテルナテ島から撤退した。 その後オランダ東インド会社がティドレを支配するが、ティドレのスルタンは抵抗を続け、18世紀後半まで独立した王国の 地位を維持していった。その後もオランダの支配下でスルタン王国は存続するが、1905年に最後のスルタンが亡くなった後、 22代続いたティドレのスルタン王国は幕を閉じたのである。

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・ 因みに、イエズス会のフランシスコ・ザビエルは日本を訪れる3年前の1546年にアンボン島、テルナテ島、モロタイ島を訪れ 布教活動をしている。 15世紀ポルトガルは香辛料を求めてアフリカ大陸を回航しインド洋、アジアへの航路を開拓すべく南下続ける。その航路の地理的発見 の情報は極秘中の極秘。「灼熱の地獄」と考えられていた海を次々と通過し、さらに南下して行った。 ついにバートロミュー・ディアスは?東にアフリカ大陸視認、西に陸地を視認。アフリカ大陸最南端を回航した歴史的発見。 その後、バスコダガマはパイロットを雇いインドを目指す。マラバール海岸カリカット?へ着帰国する。ポルトガルはマラッカ、スパイスアイランドへ。 しかし、マゼランも西廻りで到達。ポルトガルとスペインとの領土境界が不明争いになる。 マゼランは、友人セラーンのいるテルナテ??を目指したが、、、セブで落命ス。 マゼランはテルナテをめざし?。

木材 (黒檀,チークなど) ,コプラ,香料 (ナツメグ,コショウ,チョウジ) などを産する。それらのプランテーション植生地みたい。 。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

歴史

オランダ人が19世紀にモルッカ諸島を植民地化するまで、テルナテ王国は現在のインドネシア東部の広い範囲を統治していた。 16世紀末のスルタン・バブラ(Baabullah)はスラウェシ島の東部から、モルッカ諸島全体、小スンダ列島、パプアの一部に まで影響力を持ち、この時期がテルナテ王国の最盛期だった。

テルナテ島は丁子の数少ない産地として知られ、ヨーロッパ人が到達する以前から中国人やマレー人の商人が訪れていた。 現在まで48代続くスルタンの家系は13世紀にマレー人によって建国されたといわれている。その後イスラム教が交易ルートに 乗ってもたらされると、王家や住民の改宗が進んだ。

初めてテルナテ島を訪れたのはマラッカから来たポルトガルの探検家、フランシスコ・セラン(Francisco Serrão)らだった。 彼らはモルッカ諸島探検航海中にセラム島の近くで難破し地元の住民に救助されていた。テルナテのスルタン・Abu Laisは 彼らの困窮ぶりを耳にすると、1512年にテルナテ島まで連れて来させた。これを機にスルタンはポルトガル人と同盟を結び、 島に砦を作ることを許可した。しかしポルトガル人のスルタン廃立への関与や宣教師たちの強引な布教活動などで住民の怒りを買い、 1575年に島から追放された。

スペイン人はポルトガル人に対抗してティドレ島に拠点を置いていたが、1606年にテルナテ島のポルトガル人が築いた砦を占拠し、 スルタンを捕まえてマニラに移送した。オランダ人は1599年にモルッカ諸島に進出していたが、1607年にはテルナテ島の 一部を占領した。その後1663年にスペインが撤退するまでテルナテ島はオランダ領とスペイン領に二分された。

オランダは丁子の生産拠点をアンボン島など管理しやすい島に移したため、丁子貿易で栄えたテルナテ島はモルッカ諸島の政治 経済の中心をアンボンに譲り渡した。

イエズス会のフランシスコ・ザビエルは日本を訪れる3年前の1546年にアンボン島、テルナテ島、モロタイ島を訪れ布教活動をしている。 イギリスの博物学者アルフレッド・ラッセル・ウォレスは1858年に自然選択説を独自に作り上げ、意見を聞こうとして論文を チャールズ・ダーウィンに宛てて送った。ダーウィンは自分の20年来の研究と極めて似通っていることに驚き、あわてて自分も 論文を書き上げ、ウォレスの論文と同時発表という形にした。このダーウィンに宛てて送られた論文はテルナテ島で投函された ことから俗にテルナテ論文と呼ばれている。

テルナテ島 チョウジの産地として知られたため,1522年にポルトガル人,1605年にはオランダ人が砦を築き,島を占領。住民の反乱が 起きたが,83年のスルタンの降伏により,オランダ東インド会社の支配が確立した。木材 (黒檀,チークなど) , コプラ,香料 (ナツメグ,コショウ,チョウジ) などを産する。


テルナテ島からティドレ島に渡る日の朝、朝食前にホテルの山側を散歩する。天候も良く、風も爽やか。ガマラマ山の頂上が くっきりと見える。裾野がなだらかに広がる典型的なコニーデ型の火山だ。 ほんの1カ月前に空港を閉鎖させるほどの噴火があったのだが、この日は穏やかな表情を見せてくれている。

各種スパイスの樹木オリジナル、「名古屋海洋博物館」などでのスパイスの写真添付。  テルナテでは2日間で4カ所の要塞跡を訪れた。オラニエ要塞、カラマタ要塞、トルッコ要塞、それにガマラマ要塞である。 周囲44キロという小さな島にこれだけの要塞があるということは、それだけこの島が、ポルトガル、スペイン、オランダそして イギリスの植民地政策にとって重要であり、丁子という香料を手に入れたいとする欲望が強かったかを示している。 しかもこれらの要塞の主が、その時の力関係によって目まぐるしく変わっていったのである。

 今はいずれも廃墟として静かにたたずんでおり、我が一行を除いて訪れる人も極めて少ない。遥か故郷を離れた多くの人々が、 夢と欲望に支えられ、命をかけた航海や敵との戦いのみならず、慣れない土地での日々の生活を乗り越えてきたかを思うと、 果てしない欲望を追い求める人間の行動力、そしてその背後にある苦しみや悲しみを感じざるを得ない。

■常にライバル関係  ティドレには1450年から1904年まで続いたスルタン王国があり、最盛期には、ハルマヘラ南部や、一時はブル島、 アンボン島の他にニューギニア沖の島々まで支配下に置いていた。隣接するテルナテとは常にライバル関係にあり、 争いも絶えなかった。

 16世紀後半から17世紀にかけてティドレは、テルナテに対抗するヨーロッパ勢を支持している。テルナテが1575年に ポルトガル人を追い出した時、ティドレはポルトガル人を迎い入れて、要塞の建設を認めた。このポルトガルの要塞は 1606年にはスペイン人によって奪取され、ティドレはオランダと敵対関係にあるスペインを迎えたが、スペインは1663年 にはティドレ島およびテルナテ島から撤退した。

 その後オランダ東インド会社がティドレを支配するが、ティドレのスルタンは抵抗を続け、18世紀後半まで独立した王国の 地位を維持していった。その後もオランダの支配下でスルタン王国は存続するが、1905年に最後のスルタンが亡くなった後、 22代続いたティドレのスルタン王国は幕を閉じたのである。
 正午時にテルナテ中心部のバスティオン港発のフェリーに乗る予定だったが、実際に乗り込めたのは午後1時を過ぎてからであった。 待ち時間を利用しフェリー乗り場でパンをかじり昼食にする。朝方晴れていたガマラマ山の頂上付近は、既に雲に覆われている。 船上からのテルナテの市街やティドレ島、その間にある小さなマイタラ島の景色を楽しんでいるうち、あっという間の30分 ほどで到着した。それもそのはず、テルナテ、ティドレの両島の距離は、直線距離ではわずか1キロ程度なのである。 この二つの島が、それぞれ王国を持ち、お互い憎み争い合っていたというのが不思議に思われるほどの近さである。 (「インドネシア香料諸島」=宮崎衛夫著=より)


マゼラン”世界一周”から500年 ~いま明らかにされる光と影~、 2022.9。3.、 No.228.

・ 1519.9マゼラン出発。マゼランはセビーリャを出て大西洋を横断し南米大陸を回ってアジアを目指した。そこに莫大な富を 約束する香料諸島があった。当時クローブ、ナツメグなどの香料は極めて高価であった。
・ マゼランの取ったルートはヨーロッパ人には未知のルート、悲劇に襲われる中マゼランの情熱が乗組員を新たな地平へと導く。 同時にそれは植民地時代の幕開けでもあった。
・ 大航海博物館3年にもおよび再びスペインの土を踏むことができたのはほんの一握りの乗組員。史上初の世界一周の大航海は セビーリャから始まった。マゼランは元々ポルトガルの軍人、しかしポルトガル王は彼の提案した大西洋横断してアジアへ向かう 計画を認めず。マゼランは敵対していたスペイン王と掛け合いスペイン王は支援を約束。スペイン船団を率いて大航海へでる ことになった。

・ コペルニクスは地球が宇宙の中心ではなく太陽系の一部であることを見い出し、人々は未知の世界があることに気付いていた。しかし、それを 発見できるかは権力と財力にかかっていた。
・ マゼランは南米大陸を越えて太平洋へと抜ける未知の航路を見つけられると確信していた。当時船が航海から戻るたびに 海図は書き加えられ地球の全貌が明らかになりつつあった。
・ アジアへの航路の新たな開拓は大きな兆戦であったが、航路を支配した支配した者は大きな富をえることになる。 スペイン王はこのチャンスを逃さなかった。
・ 香料諸島として知られる島々の一つがモルッカ諸島、ヨーロッパの人々にとって希少なクローブの産地、テルナテ島とティドレ 島の2つの島が交易の中核となっていた。この地は争いや陰謀の地となって来た。

・ マゼランはセビーリャで5隻の船の装備を整えた。その中に腕利きの船乗りがいた。セバスチャン・エルカーノ。バスク出身。 彼こそ最後まで生き残り無事に帰国を果たして世界一周を達成した人物。エルカーノは船を所有し海洋貿易を行なうこのバスク 地方の有力な一家の出身であった。この地域は古くから造船業が盛んであった。スペイン・ポルトガルの船で新大陸に向かった船の8 割りはバスク地方で作られたもの。
・ 「アルバオラ・バスク海洋遺産協会」

・ 1519.9.20、5隻の船団が出立した。マゼランはスペイン王に利益をもちかえることを約束、ポルトガル人ながら総司令官に 任命された。大半がスペイン人の乗組員とは最初から緊張関係に漂っていた。 マゼランは計画の詳細を誰にも明かさず、香料諸島がどこにあるかはポルトガルの最高機密であった。 スペイン遠征隊がそこをめざすとすればポルトガルに妨害されるに違いなかった。 コロンブスが新大陸に到達してからは1492年、スペイン・ポルトガルは覇権をめぐって熾烈な争い繰り広げていた。 1494年大西洋の真ん中で二分割することを約束した=トルデシリャス条約。分界線によってそれまで発見された土地の所有権が 明確に分けられた。しかし、地球の反対側がどうなっているかは誰も知らなかった。つまり、香料諸島は所有者不明のままでした。 スペイン・ポルトガルのどちらも所有権を主張した。

・ マゼランの使命はスペイン領である西廻りのルートを使って香辛諸島をみつけることであった。ポルトガルの軍人として 現在のマレーシアに遠征していた。その時マレー人のエンリケを奴隷として連れて帰り通訳として生涯同行された。 この時マゼランは香料諸島を見ることなく帰国した。しかし、同諸島に住みつきマゼランと手紙で連絡を取り続けていた人物がいた。 共に戦った友人のフランシスコ・セラーンである。マゼランはセラーンに「そこで待っていてくれ」と書き送っている。 彼はどうやったら辿り着けるかも分からないうちから何としても行くと決めていたようだ。セラーンから伝え聞くモルッカ諸島や 異国の島々の豊かさは楽園の強烈なイメージとなって彼を引きつけたのであろう。

・ 大西洋を南に進んだ彼の船団は2か月後南米に到達した。さらに二か月後ついに西に向かう巨大な海峡と思しきものを発見する。 これこそ太平洋、香料諸島に通じる道なのか。マゼランはこの周辺を15日間も探索した。マゼランにとって、太平洋へ通じる 航路の開拓は悲願であった。しかし、それは海ではなく、ラプラタ河の巨大な河口であった。 水が淡水であり、海ではないことに落胆した。マゼランはさらに南へ海図のない領域へと船を進めた。

・ しかし、西へ向かう航路は見つからず。南半球の冬が始まろうとしていた。ヨーロッパの人々がこれほど南に船を進めたことは なかった。南極からの凍てつく風が吹き付ける。香料諸島に熱帯のビーチはどこへ。さらにマゼランの信頼は失われて行った。 さらにマゼランの容赦のない決定は乗組員を打ちのめした。航海1年目の終わり、船は南米の沿岸のサンフリアン湾に着いた。 乗組員たちは疲れ切り海図のない旅を続けることを恐れていた。

・ しかしマゼランは引き返すのではなく荒涼としたその場所で冬を過ごすことを決意した。彼はリーダーとして厳しくふるまった。 反対する乗組員たちに自分はスペイン王から権限を授かったのだと強調し、命令に逆らう者は処罰すると宣言した。 越冬地のサンフリアン湾で事件が起こった。乗組員の反乱が勃発した。マゼランは容赦なく反乱を鎮圧し、首謀者を処刑した。 40人の反乱者の中にはエルカーノの姿もあった。エルカーノはマゼランにはむかった側に加担していた。

* バスク海事博物館

・ 反乱が鎮圧された後エルカーノは降格になったようです。しかし他の者たちと違って厳しい罰は受けなかった。これは理にかなって いる。マゼランにとって経験豊かな乗組員は必要不可欠の存在であった。エルカーノはまさに腕利きの船乗りで船の操り方を 心得ていた。ですから降格されても殺されはしなかった。しかし当然のことながらマゼランとの関係は冷え込んだ。エルカーノが将来 船団の命運を握ることになるなど誰もこの時には思われなかったであろう。

・ 乗組員たちは冬の5か月弱をサンフリアン湾で耐え忍んだ。マゼランが再び出発してから1年が経とうとしていた。 今度こそ航路を見つけなければ乗組員たちはもはやついてこないであろう。サンフリアン湾を離れて2週間後またも岩だらけの 海峡らしきものが現われた。マゼランは偵察団の船を2隻派遣した。緊張が高まった。マゼランは「最後の審判」が下された。水路を発見した。 マゼラン海峡を発見した瞬間はマゼランにとって幸せの絶頂でした。彼は非常に興奮した。それまではトラブル続きであった。 厳しい自然に翻弄されたり、乗組員による反乱が起こったり。しかしついに正しさが証明された。リーダーとして部下たちに大いなる 富を約束する楽園へのルートを見つけたから。彼らは間違いなく成功を手にしようとしていた。マゼランは大いに喜んだ。 しかし喜びは長くは続かなかった。

・ 船団の中で最大の船であり多くの食料を積んでいたサン・アントニオ号が偵察後離脱した。同号なしでは食料が底を つく。「ここであきらめろというのか」。マゼランは同号が脱走したことは知らなかった。「諦めるなどありえない。さあいなくなった 者のために祈ろう」。この事件でマゼランたちは深刻な食料不足に直面することになる。一方離脱した同号はスペインに戻った。 その時、マゼランの動きはすでにポルトガルによって知られていた。マゼランの船団はポルトガルから追われる身であった。 ポルトガルにとって香料諸島は巨万の富の源である。その秘密を守るためならマゼランたちを皆殺しにすることもいとわなかった。

・ マゼランたちは残った3隻でゆっくり進んでいた。そこは岩だらけで迷路の様でした。乗組員の一人アントニオ・ピガフェッタは その時の様子を書き残した。彼の記述は非常に興味深いもの、そこには南米のパタゴニア北部に居た先住民のことが初めて書かれている。 海峡を通り抜ける際、マゼランは南米大陸の南端の島々に人の気配があることを感じた。火を燃やしている煙の柱が幾つも見えたから。 この場所はティエラ・デル・フエゴ、すなわち「火の土地」と名付けられた。マゼランは海峡の発見者として名を遺した。しかし、この地に 住む先住民たちの運命は大きく揺り動かされていくことになる。

・ 「マゼランがここに来てから500年だそうですが、私たちはそのことを祝うつもりなどない。それはかつてこの地にあった伝統的 文化の滅亡の始まりとなったから。人々は捕らえられ虐待され殺された。民族のアイデンティティが奪われた。マゼランに因む名前が 付けられるずっと前からカウェスカルの先住民たちのものであった。ヨーロッパの人々はここで何も発見していない。一部の人々は 動物園のように見世物にされた。この地域にいた人々は誘拐されヨーロッパに連れて行かれた」

・ 4週間後マゼランはついに迷路のような海峡を抜け穏やかな海に出た。太平洋であった。海峡を発見しついに太平洋に抜け たマゼランは次なる決断に迫られた。南米沿岸にとどまって食料を集めるか、リスクを取ってでも早く船を進めるかという決断です。マゼランは 香料諸島に辿り着けさえすれば友人のセラーンの助けを受けて食料不足は解決できると考えた。そこですぐ出港した。 しかしこの決断は結果的に間違いでした。大勢の命を犠牲にして全滅しそうなところまで追いつめられた。

・ 海峡の出口から目的地までの距離は1万㎞以上、その道のりはマゼランの想像以上であった。船の上は墓場と化して行った。 ピガフェッタの記録によれば乗組員たちは腐った水を飲むほかなかったと記している。誰かが息を引き取るとマゼランは速やかに遺体を 海に葬った。

・ 深刻な食料不足と焼けつくような暑さの中で太平洋を航海すること2カ月。未だに陸地は現れない。「どこにあるんだ。南北の位置は 比較的正確に測定することができた。問題は東西の位置であった。マゼランは世界一広い海を航海しながらしかし見つけられなかった。 来る日も来る日も目的の島々が現われないかと探した。しかし見つけることができなかった」 「陸だ。陸が見える!」1521年3月16日。スペインを出発してから1年半もの月日が流れていた。現われた島々は全員にとってまるで 楽園のように感じられた。

・ 一行は自分たちがどこに上陸したのか分かっていなかった。マゼランに同行していたマレー人のエンリケが重要な手がかりをもたらした。 「信じられないかもしれないが、私はあの者たちの言葉が分かる」それが何を意味するかは明らかであった。そこはフィリピン東部の 島であった。それは同時に一帯の利権を主張するポルトガル人がすぐ近くにいることも意味した。すでに大きさが分かっていた大西洋 は真ん中で分割されたが、分界線がどこに入るかわからないため。トリデシリャス条約に大きな問題があった。問題は地球の反対側です。 香料諸島がどちらに属する海洋分からなかった。両国の争いが続いていた。

・ 乗組員が元気を取り戻すとマゼランは航海を再開し、セブ島へ。セブ島の王と同盟を結んだマゼランは現地の紛争に首を突っ込んだ。 マゼランは自分たちが軍事的に優れていることを示そうと援軍を断り、しかし相手は百戦錬磨のリーダーであった。 1521年4月27日マゼランに続き主だったリーダーたちもこの厳しい状況の中最後まで生き残って故国スペインまで船を率いたのが バスク地方出身のセバスチャン・エルカーノだった。

・ マゼランを含めたリーダーたちの亡き後「聞いてくれ!この忌まわしい場所を離れる」一行はまず残っている3隻のうち物資を 全て移したのち痕跡を残さないために沈めた。残った2隻トリニダード号とビクトリア号は香料諸島への航海を続けた。しかし、半年が経っても 見つけられなかった。1521年11月突然水平線上に目的地が現われた。スペインを出発してから2年以上の月日が流れていた。 記録には香料諸島の一つティドレ島の港に入り錨を下ろした後、礼砲が放たれたとある。

・ スペイン人が到達した記憶は今も島に生きている。それは数世紀にわたる植民地化の始まりであった。トリニダード号とビクトリア 号の乗組員たちはティドレ島に上陸した。ティドレ島にはスルタンが治める国があり、スルタンは両手を挙げて彼らを迎えた。 エルカーノはスルタンに敬意を表するための20発の礼砲を鳴らさせた。 ヨーロッパの人々は特にスペイン人たちは自分たちに繁栄をもたらすと信じていたから。  しかし、実際に富を享受したのはヨーロッパの商人たちでした。

・ 当時香料は仕入れ値の1,000倍もの価格で販売されていた。2つの小さな島は市場の独占をめぐるスペイン人とポルトガル人の争いに 巻き込まれて行った。ポルトガル人は1512年にすでに隣のテルナテ島に来ていた。2つの島は元々強い対抗意識をもっていた。 当時世界の2大強国がにらみ合う舞台となった。テルナテ島に今も残る王族の間では当時の様子が語り継がれてきた。 

・ 香料を求める商人たちは中国やアラブ世界からもテルナテ島を訪ねていた。ところが、ヨーロッパの人々が中国人やアラブ人を 退けて貿易を独占しようとした。それがネシアにおける植民地時代の始まりとなった。 テルナテ島を手に入れたポルトガル人たちは、スペイン人が到達したことでその秘密は破られた。しかもその頃ポルトガルの拠点は 放棄され、マゼランに手紙を送っていたフランシスコ・セラーンも命を落とした。

・ 世界一周という大航海のきっかけを造った2人の主役マゼランとセラーンは二度と出会うことなくともに不幸な最期を迎えた。  スルタンに対する陰謀に巻き込まれマゼランは途中の島で殺され、セラーンも同じ頃死んだともいわれる。 テルナテ島にあるポルトガルの交易拠点が放棄されていたのはエルカーノたちにとっては幸運なことでした。 そこで一行は急いで香料を確保することにした。 しかし、追っ手に追われる身であることは変わりはなかった。 今でも香料は島の重要な収入源の一つである。当時は香料をほんの一握りでもヨーロッパにもちかえることができれば、一生安泰に 暮らしていけた。

・ セラーンたちが目にしたのは予想だにしなかったクローブとナツメグであった。ピガフェッタは記録にこう書いている。2隻の 船トリニダード号とビクトリア号はわずか40日間で積める限りのスパイスを積んだ。この時からティドレ島はスペインの 香料諸島の中心地となった。そして、エルカーノはスルタンと交易関係を確立しようと尽力した。 それは亡くなったマゼランがスペイン王と交わした約束だったのです。一行はいよいよ帰国の途についた。

・ ここで重大な決断が下された。トリニダード号が太平洋を横断する東回りをとる一方で、エルカーノ率いるビクトリア号は インド洋を進む西回りでスペインを目指した。エルカーノも死にもの狂いだったでしょう。エルカーノは世界一周に立ち向かうことになるので。  太平洋を引き返すことの大変さを知り尽くしていたでしょうね。エルカーノはビクトリア号に乗って、西へ進んだ。しかし西は ポルトガルの支配領域です。追跡はすでに始まっていた。一方太平洋を東に進んでいたトリニダード号は激しい嵐に 遭遇した。そこで香料諸島へと引き返すが、そこにはすでにポルトガルの船団が待ち構えていた。

・アルバオラ バスク海洋遺産協会。バスク海洋博物館

・ 嵐で大きな被害を受けたトリニダード号は香料諸島に近づく途中でポルトガル人に拘束された。錨やマスト、船の帆など。 船は砦の近くに運ばれ価値ある物を奪い取られた。その後トリニダード号は海に沈められた。海岸線に近く大体の場所は分かっている ので、見つかれば新たな発見があるかもしれない。エルカーノはトリニダードの悲劇を知らなかった。 ポルトガル人に出くわすのを避けるためにどこにも上陸することなく、ひたすら進んだ。再び飢えと病で多くの乗組員が亡くなった。 船もひどく傷み、入ってくる海水を汲み出し続けねばならない状態であった。

  ・ 1522年9月6日ついにスペインに帰還、世界一周を果たした。18人。香料諸島を出発してから9か月が経っていた。人類史上初の世界一周を成し遂げた人物。 それはセバスチャン・エルカーノでした。数年前バスク地方である文書が見つかった。誰もが失われていたと思っていたエルカーノが 書いた実物である。それはエルカーノが帰国した際にスペイン王に宛てた手紙だった。世界一周を誇らしく伝える文書ではなかった。 返って来たときは彼らの船はボロボロでした。損傷はひどく、あと少しで完全に駄目になっていた。貴重な積荷とともに海に沈んでいたかもしれない。 手紙には彼らが30日以上にわたって水を汲み出しながら船を沈めたことが記されている。到着があと1週間遅れていたら彼らは生き延びられず 世界一周は達成されなかったことが手紙から分かるのです。

・ スペイン王はエルカーノと乗組員たちに褒美をたっぷりと与えた。5隻の船は1隻になり、200人もの命が失われました。 それでもビクトリア号が持ち帰った25トンもの莫大な利益をもたらした。エルカーノは騎士の称号が与えられた。紋章 にはスパイスと地球が描かれその上に「我を一周せし最初の者」という文言が輝いている。しかし、エルカーノの名前はやがて忘れ去られ ていった。エルカーノは忘れ去られた不遇のヒーローだ。 

・ 帰国直後、彼は地球を最初に一周した者として褒美を受けとり注目を集めた。その栄光の時に本を1冊でも書いていれば彼の名前は 広く知れ渡り後世に残ったでしょう。しかし、そんなことより、香料諸島への次なる遠征に心を砕いた。新たに見つけた航路を 永久に確かなものにするためです。 

・ 一方同じく世界一周を達成したアントニオ・ピガフェッタは大航海についての記録を遺した。しかし奇妙なことに彼はその中でエルカーノ については一言も述べていない。4年後エルカーノは香料諸島へ2回目の航海に出発し、その旅の途中で命を落とした。 結局南米周りの航路は余りに危険なため交易のルートとしては確立されることはなかった。それどころか、わずか数年後には香料諸島はポルトガルに安値で 売り渡された。しかしマゼランとエルカーノが成し遂げた大航海は経済的な利益を越えて地球規模の大きな影響を人類に与えた。

・ 地球一周の航海を生き延びた18人の乗組員は日々の出来事や船の位置を丹念に日誌に記していた。帰国した時その日付は1日 ずれていた。これこそ地球が丸いことを証明する貴重な情報であった。この画期的な大航海は16世紀の人々の世界観を変えた。 地球の大きさや宇宙における位置などの研究など地球を大きな視点でとらえるようになった。 それがこの世界一周の最大の遺産かもしれない。史上初の世界一周は人類に光と影をもたらし、グローバリゼーションの先駆けとなった。マゼランの時代から500年、世界の 人と人との距離は少しは縮まっているのだろうか。


資料

● エンリケ航海王子の活躍: 大航海時代、航海学校、サグレス、西アフリカ南下、ディアス、バスコダガマ喜望峰・インド到達

・ 14世紀からの「地理上の発見時代」、あるいは「大航海時代」は、帆船航海技術の大きな発展とともに推し進められて行ったといえよう。 航海技術を大いに進歩させ、大航海時代へのゲートウェイまで導いた立役者の一人は、ポルトガルの「エンリケ(あるいはヘンリー)航海 王子」であることは間違いない。 彼はポルトガル王のジョアン一世と英国ランカスターの王女フィリッパの息子であった。

・ エンリケは、1415年のこと、200隻余の軍船をもってイベリア半島から北アフリカの地セウタを攻略し、ムーア人 (イスラム教徒) からセウタを奪取したこと でもその名を知られる。
[注] セウタ: ジブラルタル海峡に面する、現在のモロッコ北端にある港町タンジールの東方約70kmほどのところにあって、同じく同海峡 に面する。

・ ポルトガル南端のサグレス(イベリア半島南西端のセント・ヴィンセント岬の先端)に天文台や航海学校を設け、 民族・宗教などを問わず学者、航海者らを集め、そこで航海学、帆船の艤装や運用術、造船学、地図製作などの研究に取り 組み始めた。1419年頃のことである。 そして、アフリカ大陸の南を周回してインドへ到達することの可能性を固く信じ、船でアフリカ西岸を南下するという航海・ 探検事業を徹底して推し進めようとした。

・ 1143年、ポルトガルは、隣国のカスティーリャ王国から分離・独立し、アフォンソ・エンリケスが初代国王となる。
・ 1250年、ポルトガルは、国内に残るムーア人に壊滅的打撃を与え、カスティーリャ王国より240年以上も先んじて「レコンキスタ」 (ムーア人に侵攻され征服され続けてきたイベリア半島を奪回するキリスト教徒の戦い。国土回復運動)を終結させる。

・ 1394年、エンリケ航海王子生まれる(~1460年)。
・ 1415年、ポルトガル、北アフリカのムーア人の要衝セウタを攻略・占領する。
・ 1415年、エンリケ航海王子、「ボジャドール岬」に向けて小艦隊を派遣する (カラベル船を使用する)。
・ 1420年、最初のポルトガル遠征隊、マデイラ諸島の一つのポルト・サント島に嵐で打ち上げられる (その後、遠征隊が再派遣され、 マデイラ諸島であることを確認し、サトウキビとブドウの株を移植する)。
・ 1427年、アゾレス諸島を再確認する。
* 当時、「ナン岬(ネバー岬)」以南では、海は沸騰し、怪物が現れ、二度と帰還できないと考えられていた。
・ 1432年、エンリケ航海王子からナン岬以南への航海を命じられたが、それに失敗していたジル・エアンネスはその再挑戦を命じられる。
・ 1434年、ジル・エアンネス、ナン岬から更にその200海里ほど南の「ボジャドール岬」(その沖合には暗礁が突き出る航海の難所で あった)をも越えることに成功する。
* エアンネスのこの成功は中世の人々の迷信打破に絶大な影響をもたらす。

・ 1441年、ヌーノ・トゥリスタン、リオ・デ・ジャネイロに到達した後、ボジャドール岬の遥か南方の「ブランコ岬」に到達する。
・ 1443年、ヌーノ・トゥリスタン、「ブランコ岬」を通過して、その少し南方の「アルギン湾」に達する。
・ 1443年、エンリケ航海王子の実兄ペドロ親王、ボジャドール岬以遠への通航には同航海王子の許可を必要とする旨布告する。 以後、幾つかの新たな布告によって、同航海王子への航海・交易上の特権拡大がなされる。
・ 1445年、ディニス・ディアスが「ヴェルデ岬」に到達する。
* ヴェルデ岬についても、海は沸騰し灼熱の世界といわれていた。
・ 1460年、エンリケ航海王子、没する。

・ かくして、同航海王子が生きた時代におけるアフリカ西岸南下の航海・探検事業は、シェラレオーネ辺りまでの到達で終わりを告げた。 だが、その後20年ほどの間に、南下を続けたポルトガルの航海者たちは、赤道を越え、更にはコンゴ河口に到達し、 ついにはアフリカ南端を周回するにいたるまで、数々の成果をあげるにいたった。
・ 1479年には、ポルトガルとカスティーリャは、カナリア諸島等の領有権、同諸島以南の航海権について合意するにいたり、 「アルカソヴァス条約」を結んだ。

・ 1487年8月、ポルトガル人バルトロメウ・ディアスは二隻のカラベラ船と一隻の輸送船を率いてリスボンを出航し、西アフリカを 一路南下した。同年12月末に嵐に遭遇したことで、15日間も方向を見失ったまま航行した後、アフリカの陸地が船の西側に位置することに気付いた。 アフリカの最南端を回ったことの証左といえるものであった。

・ ディアスはさらに周回継続を主張したが、乗組員らが暴動を起こしたため、南端を少し周回した、南緯33度辺り (現在のダーバン は南緯30度辺りにある) に位置する現在の「グレート・フィッシュ川」付近で反転し引き返した。 そして、1488年12月にリスボンに帰着した。クリストファー・コロンブスはこのディアスの華やかな帰着をその港で見物していたという。

・ ディアスは南端を周回していた頃は激しい嵐に見舞われていたことから「嵐の岬」と名付けた。後に、国王ジョアン2世は、 インドへの道が拓かれたという国運を祝して「喜望峰」と名付け換えた。なお、喜望峰の発見について、往航時には荒天であったため 岬を認めえなかったが、復航時にその岬を認めたとされる。

・ 1497年、ヴァスコ・ダ・ガマがインドに向け出航した(コロンブスが西回り航海に出帆したのは1492年であり、コロンブスがインディアス に到達したとの報をもって帰国したのは翌年1493年3月のことであった。ガマは当然のことながらこのインディアス到達を知った 上での出帆であった。到達したのはインディアスではなくカリブ海諸島であった)。 ガマは南西アフリカの「セントヘレナ湾」に到達後、1498年喜望峰を周回し、インド南西岸のマラバール海岸のカリカットに到達した。
エンリケ航海王子が思い描いていた、インドへの東回り航路、即ちアフリカ周回によるインド航路の開拓にかかる大事業がついに ここに完成した。

ポルトガルは、約80年に及ぶこの大事業の完遂によって、それまでアラビア人、更にはベネッツィア人、ジェノバ人らによって 独占されていた金、香辛料などの東方貿易を自らの手に独占する道を切り拓き、その後の歴史的な国家繁栄へと突き進むことになる。

・ エンリケ航海王子によるインドへの航路開拓事業の創始からまさに80年を経た1498年、そしてポルトガル航海者バルトロメウ (バーソロミュー)・ディアス(Bartolomeu Dias)がアフリカ南端・喜望峰に到達してから10年を経たその年に、 バスコ・ダ・ガマはインド亜大陸の陸地を視認し、着達した。

・ ポルトガル王ジョアン2世は1495年10月に没したが、後継の王マヌエルは1497年バスコ・ダ・ガマを航路開拓に 派遣した。ダ・ガマは1498年5月1日インド亜大陸の陸地を望見し、そしてカリカット近くの港に錨を降ろした。

[ポルトガル語] Vasco da Gama realizou a primeira viagem marítima entre a Europa e o Oriente em 1497-98.
[英語] Vasco da Gama accomplished the first voyage between Europe and the Orient in 1497-98.
・ バスコ・ダ・ガマは1497年から98年にかけて初めてヨーロッパ・東洋間の航海を成し遂げた。


● ポルトガルの航海者バーソロミュー・ディアス (人物図絵)、アフリカ最南端・喜望峰を周回する[マカオ海事博物館]

・ 1418年、ポルトガル・エンリケ航海王子は、イベリア半島のポルトガル領南西端のサグレス岬に航海学校・天文台などを設立し、 地理・航海・造船・天地誌学などに関する研究を行ない、またそれらを学ばせ、航海者を育成し、アジアへの 海上ルート開拓を期して、アフリカ西岸沿いに南下させる探検航海者を本格的に派遣し始めた。 歴史上、後に「大航海時代」と位置づけられる初期の頃のことである。 ポルトガルは、アフリカ最南端周回とインド航路開拓、それに続きアジアでの国勢伸張への道を切り開いた。

・ エンリケ航海王子によるアジアへの航路開拓事業の創始から70年を経た1488年、ポルトガルの航海者バルトロメウ (バーソロミュー)・ディアス(Bartolomeu Dias)はついに、アフリカ大陸最南端を視認するという偉業を果たすにいたった。 ディアスはアフリカ大陸を迂回せんと航海を続けるなか、激しい嵐の中で知らないうちに大陸南端を周回していたことを認識した。 航海の続行は彼の部下の反対で断念せざるをえず、船を反転させ帰国の途についた。 彼は南端を「嵐の岬」と名付けたが、後にポルトガル国ジョアン2世は「喜望峰」と命名した。

画像は四分儀を手にもつディアスの図絵である。説明パネルには次のように記される。
[ポルトガル語]Bartolomeu Dias atinge o extremo sul da costa africana em 1487-88.
[英語]Bartolomew Dias reached the extreme south of the African coast in 1487-88.
・ バーソロミュー・ディアスは1487年から88年にかけてアフリカの南端に到達した。


。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。 ● ポルトガルの航海者ジル・イアネス (立像)、アフリカ西岸ボハドール岬に到達する[マカオ海事博物館]

・ 1415年、ポルトガルのエンリケ航海王子は、アフリカ北西岸のボハドール岬到達をめざして、自国船隊を派遣する。
・ 1418年、エンリケ航海王子は、イベリア半島のポルトガル領南西端のサグレス岬に、航海学校・天文台などを設立し、 地理・航海・造船・天地誌学などに関する研究を行ない、またそれらを学ばせ、航海者を育成し、アジアへの 海上ルート開拓を期して、本格的にアフリカ西岸沿いに南下させるべく、探検航海者を派遣し始める。 歴史上「大航海時代」と位置づけられる初期の頃のことである。かくして、ポルトガルはアフリカ最南端迂回と インド航路開拓、それによるアジアへの国勢伸張の道を切り開いた。

・ ポルトガル航海者ジル・エアンネス(Gil Eanes)は、エンリケ王子の命により、「ナン岬」を越えて南下すべく航海を試み、 一度は失敗していた。彼は、1432年に再び出帆し、ナン岬を越え、1434年にはそのはるか南方の「ボハドール岬」に到達することに 成功した

画像はその航海者ジル・イアネスである。説明パネルには次のように記されている。
[ポルトガル語]Principal obstáculo ao avanço das navegaçãoes portuguesas para o Sul, o Cabo Bojador foi ultrapassado por Gil Eanes em 1434.
[英語]Cape BOJADOR the principal obstacle in the path of the Portuguese navigators heading South was rounded by Gil Eanes in 1434.
ボハドール岬はポルトガル人航海者たちが南方をめざし航路を進める上での第一の障害であったが、1434年ジル・イアネスによって 迂回された。


。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。 ● ポルトガル国王ジョアン2世 (在位1481‐1495年) が在位していた1487年8月、ポルトガル人バルトロメウ・ディアスは 2隻のカラベラ船と1隻の輸送船を率いてリスボンを出航し、西アフリカを一路南下した。同年12月末に嵐に遭遇したことで、 15日間も方向を見失ったまま航行した後、アフリカの陸地が船の西側に位置することに気付いた。

・ アフリカの最南端を回ったことの証左といえるものであった。ディアスはさらに周回することを主張したが、乗組員らが暴動を 起こしたため、南端を少し周回した、南緯33度辺り (現在の「ダーバン」は南緯30度辺りにある) に位置する現在の「グレート・ フィッシュ川」河口付近で反転し引き返した。 そして、1488年12月にリスボンに帰着した。クリストファー・コロンブスはこのディアスの華やかな帰還をその港で見物して いたという。

・ ディアスは南端を周回していた頃激しい嵐に見舞われたことから「嵐の岬」と名付けた。後に、「国王ジョン2世」は、 インドへの道が拓かれたという国運を祝して「喜望峰」と名付け換えた。なお、喜望峰の発見について、往航時には荒天であった ため岬を認めえなかったが、復航時にその岬を認めたとされる。

・ ポルトガルはディアスの帰還後すぐに次の探検船隊を派遣するにはいたらなかった。「ジョアン2世」に代わって王位を継いでいた 「マヌエル1世」は、ようやく1497年になって、ヴァスコ・ダ・ガマを喜望峰回りでインドに向けて出帆させた。 かくして、ポルトガルはスペインよりも早くインドのカリカットへ到着することをめざした。
[参考]コロンブスは、ガマの出帆に先立つ1493年には、自身のいうインド到達の報をもって第1回目の航海から帰還していた (注:実際は インドではなくカリブ海の諸島であった)。更に、コロンブスは1495年に第2回目の西回り航海を果たしていた。

・ 1497年7月8日に、ガマは13隻からなる船隊を率いてリスボン出航した。ヴェルデ岬諸島を経た後、大西洋に大きな半円を描き 迂回するように (画像参照:下) 喜望峰をめざした。同年11月9日喜望峰に近いアフリカ南西部の「セント・ヘレナ湾」に到達した。 11月22日には喜望峰を周回し、11月25日に「サン・ブラス湾」に到着、12月17日には、ディアスが先の航海で到達した最遠地で ある「インファンテ川」(現在のグレート・フィッシュ川)河口で投錨した。

・ その後沿岸沿いに北上し、1498年4月に現在のケニアのマリンディに到達した。ガマはそこでアラブ人でインド洋での航海に 熟達した船乗りイブン・マジードを水先案内人として雇い入れた。ガマはその後首尾よくアラビア海を横断し、翌5月になって インド南西部マラバール海岸のカリカットに到達した。

・ 1498年8月にカリカットから帰国の途に着いたものの、その航海は厳しいものとなった。アラビア海を越えるのにほぼ3か月を要し、 ガマの旗艦「サン・ガブリエル号」がリスボンに帰還したのは、1499年8月29日のことである。結局、ガマはインドとの往復航にほぼ 2年を要し、又約170名の乗組員のうち帰還したのはわずか60余名であった。 また、ガマがもち帰った香辛料の量は見本程度というごくわずかなものであったし、更にはカリカットの王との香辛料の交易取り 決め交渉は成功するにいたらず、通商面での成果はほとんどなかった。

・ だが、エンリケ航海王子が1400年代初頭以来思い描いていた、インドへの東回り航路、即ちアフリカ周回によるインド航路の 開拓にかかる大事業がついにここに完成したことの意義は計り知れない。 ポルトガルは、約80年に及ぶこの大事業の完遂によって、それまでアラビア人、更にはベネッツィア人、ジェノバ人らによって 独占されていた金、香辛料などの東方貿易において新たな海上交易ルートを切り拓き、その後の歴史的な国家繁栄へと突き 進むことになった。翻って、アラビアのイスラム商人らとの熾烈な闘いが始まることになった。


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第20-5節 ビーグル・マゼラン海峡横断する

  余談だが、最後にマゼランの世界周航について触れておきたい。 ポルトガル人航海探検家フェルディナンド・マゼラン(Ferdinando Magellan; 1480?-1521年)の率いる5隻・乗組員277名からなる 船隊が、スペイン王国の支援を受け、1519年9月20日スペインのセビーリャを出港し、西回りで香辛料の産地で有名なモルッカ 諸島をめざした。

南米大陸南方に存在すると憶測されていた、「南の海」へ通ずる海峡を発見し (後のマゼラン海峡)、2か月かかってその海 (後に「太平洋」と名付けられた)を横断し、フィリピン諸島に到達した。マゼランは 1521年、フィリピンのセブ島に隣接する マクタン島で原住民との戦闘のさ中に負傷し不慮の死を遂げた。その後、2隻となっていた船隊は、ついにモルッカ諸島に到達し、 大量の香辛料を買い入れた。出港後浸水してしまった僚船を残して、「ビクトリア号」一隻が、インド洋横断、喜望峰を周回して、1522年 本国に帰還、西回りの史上初の世界周航(1519-1522年)を成し遂げた。生還できたのはわずか18人の乗組員であった。

  マゼランの略史をもう少しひも解けば、1504年、マゼランはインドに航海した。その後マラッカ、モルッカ諸島(香料諸島)など に滞在し、1512年に帰国した。その後、少なくとも2回ポルトガル国王に謁見する機会をもった。先ず、俸給引き上げを直訴したが 却下された。その後、1515年末または翌年初めに、モルッカ諸島への派遣を懇請したが、これも却下された。 ポルトガル王室での将来に見切りをつけて、マゼランはポルトガル北部の港町ポルト(またはオポルト)に移り、そこで天文学者 ルイ・デ・ファレイロ、熟達した船乗りのジョアン・デ・リスボアらと交遊した。

  1517年10月、ポルトから海路でスペインのセビーリャに移った。その後、西回り航路で僚友セラーンが滞在するモルッカ諸島へ 向かう航海計画を立てた。そして、スペイン国王カルロス一世 (国王在位1517~56年; 神聖ローマ帝国皇帝カール5世のこと)  に謁見し、同計画への支援を懇請した。1518年3月22日、カルロス一世とマゼランとの間でモルッカ諸島の発見に関する協約が成立した。

  1519年9月20日、グアダルキビール川(Guadalquivir)河口のサンルカル・デ・バラメダ港(Sanlúcar de Barrameda)で最後の 補給を済ませた「ビクトリア号」他5隻からなる船隊は、277名の乗組員を率いて出帆した。船隊構成は、「トリニダード号」(110トン)、 「サン・アントニオ号」(120トン)、「コンセプシオン号」(90トン)、「ビクトリア号」(85トン)、「サンティアゴ号」 (75トン)であった。マゼラン自身が乗艦する旗艦「トリニダード号」が常に先頭を進み、4隻がその後に続くよう指揮を執った。

  西アフリカのヴェルデ岬諸島を通過した後、1519年12月13日に現在のリオ・デ・ジャネイロがある「サンタ・ルシア湾」に到達した。 その後、海岸沿いに南下し、「サンタ・マリア岬」(現在のウルグアイ首都モンテビデオの200kmほど東方; 最寄の都市は ローチャ Rochaである)に到達した。同地より西方に連なる海岸線沿いに航海を続けたところで山を視認したマゼランは、この地を モンテ・ビディ(「山を見た」という意味)と名付けた。現在のモンテビデオである。 海岸線はなおも西方へ続いていた。航海士ジョアン・デ・リスボアはかつてこの地に到達し、この海岸線を西方に辿れば「南の海」 (現在の太平洋のこと; バルボアがパナマ地峡を横断して、西欧人で初めてその先に海があることを認めた) に出られる海道があり、 モルッカ諸島に到達できることを期待した。マゼランは彼と同様にその期待を抱いて西航した。

  1520年1月10日に現在のラ・プラタ川(río de La Plata; モンテビデオから150kmほど西方に位置する)河口に到達したマゼランは、 最も小型の「サンティアゴ号」をもって内奥へと踏査させたところ、結局河川であることが判明した。マゼランは「ソリス川」 と名付けた。これが、マゼランによるモルッカ諸島に向けた探検航海におけるラ・プラタ川との歴史的な出合いである。 更に南下を続け、「サン・マティアス湾」(Golfo San Matías; バルデス半島Península Valdésの北側にある大湾)を調査した後、 現在のアルゼンチンのサンタ・クルス州にある町サン・フリアン (San Julián)の入り江に錨を降ろして越冬した (1520年3月31日から8月23日まで; 南半球における真冬は6~8月頃である)。 航海再開後、「サンティアゴ号」がサン・フリアンの南80kmほどにあるサンタ・クルス川(río Santa Cruz)の河口付近で難破した。

  1520年10月21日、現在のマゼラン海峡の東口(「一万一千の聖母の岬 Cabo Virgenes」から海岸線は西方へ大きく くびれている)に達した。そして、ついに南米大陸南方に存在すると憶測されていた、「南の海」へ通ずるかもしれない狭水道 (後のマゼラン海峡) を発見した。水路を進む過程で「サン・アントニオ号」が一方的に船隊から離脱し、本国に向けて逆航するという 行動を取った。同号は1521年5月6日にセビーリャに帰着した。3隻となった船隊は、難航を重ね、現在のパタゴニア地域とフエゴ島 (Tierra del Fuego; 「火の大地」という意味)との間にあるマゼラン海峡を西方に向け通過し、ついに11月28日「待望の岬」 (カボ・デセアード Cabo Deseado) と命名した岬を最後に大洋へと抜け出た。

  船隊はチリ沖を北上しながら、針路を徐々に北西から西寄りに転針し、3か月余りかかって、後に「太平洋」と名付けられたその 大洋を横断し、ついに1521年3月6日マリアナ諸島に至った。同諸島の旧称は「ラドロネス諸島」 (Ladorones=Ladrone Islands) である。「ladrones」 (複数形) とはスペイン語で「泥棒」という意味で、当時「泥棒諸島」と呼ばれた。そして、3月16日、フィリピン諸島のセブ(Cebu) 島に 到達した。4月27日、マゼランはセブ島に隣接する「マクタン島(Mactan Island)」における原住民との戦闘の最中に負傷し、それが もとで不慮の死を遂げた。

  マゼランの死後、スペイン人のフアン・セバスティアン・デ・エルカーノ (Juan Sebastián de Elcano; 1476?-1526年) が航海 の指揮を引き継ぎ、「トリニダード号」と「ビクトリア号」の2隻で、1521年11月8日モルッカ諸島ティドール島に辿り着いた。 1521年12月18日2隻は同島を出航したが、直後に「トリニダード号」が浸水したため同船を放棄し、エルカーノの指揮の下、 「ビクトリア号」だけが航海を続けた。インド洋を横切り、喜望峰を周回し、西アフリカ沿岸を北上し、1522年9月6日ついに スペイン・セビーリャへ帰着した。ここに史上初の世界周航(1519-1522年)を成し遂げた。生還できた乗組員はわずか18名であった。

  航海半ばにしてこの世を去ったマゼランには、世界初の世界周航者としてはその名を残すことはなく、一航海をもって人類 史上初めて世界周航を果たすという名誉は与えられなかった。だが、 1519年からの西回り航海と、過去における東回りでのインディアス方面 (マラッカ、モルッカ諸島など) への航海とを合わせれば、 人類史上初めて世界周航を成し遂げた航海者は先ずはマゼランであったと考えられている。 大西洋から、当時「南の海」とされていた太平洋への狭水道、即ち「マゼラン海峡」にその名を残した。そして、南米大陸はその 海峡にて尽きことになる。

訪ねたいところは山ほどあり無限大的ともいえる。下記参照。
・イタリア全土周遊と博物館巡り。
・フランス、ドーバー海峡沿岸、潮力発電、海洋博物館 ・ インド、・ ドミニカ共和国、TTなど ・ 北欧:バルト3国:フィンランド、れニング、すえーでん、デンマーク、ノルウェーなど ・ 運河を行く:タイ・クラ地峡など。英国国内運河、欧州運河、など。

夢の中で旅の続きを見ることにしたい。
第3節 バイキングゆかりの北欧諸国の船舶・史跡・文化施設たずねて、北極 既にスウェーデン・オスロのバイキング博物館、デンマーク・ロスキレのバイキング博物館を訪ねた。 それ以外のバイキング関連の博物館、展示ギャラリー、歴史文化施設を訪ねたい。どこに、どんな郷土館、施設あり? コロンブスよりも早く北米大陸に入植していたのは事実。?その証拠はどこに?
・ スウェーデン ・ ノルウェー ・ デンマーク、バイキングの歴史、フランスにも入植→ イギリス王国を建国、地中海・黒海にも植民地を打ち立てた。

第6節、南米カルタヘナから太平洋岸沿い南下、最南端まで6000kmの縦断の旅、夢の又夢か。
・ カルタヘナ、マラカイボ、スペインの植民地化時代の足跡と海賊の爪痕、要塞を訪ねる。 ・ エクアドル、グアヤキル、海洋博物館など。 ・ ペルー、トルヒージョ、カジャオの海洋施設、北部漁港など、 ・ チリ:アリカ、バルパライソ、海洋博物館、諸港市、 プンタアレナス、海洋博物館、、、。 ・ 船でケープホーン3,4日、ウシュアイアへの船旅?ビーグル海峡、

第9節 東アフリカ、インドマラバール:アラビア海諸港を巡る。アラビア海沿岸を歩く。

・ 成田からドバイへ。 ・ タンザニア、ダルエスサラーム、ザンジバル ・ ケニア:モンバサ ・ ジプチ: 大地溝帯 ・ イエメン:アデン ・ オマーン:サラーサ ・ UAE ・ イラン: ホルムズ海峡、バンダル・アッバース ・ カラチ ・ インド: ムンバイ、ゴア、カリカット、コモリン岬、マドラス ・ バングラデシュ: カルカッタ、ダッカ、 何を観る、訪ねる、なぜそこに想いは?サバイバルゲーム。

第5節 大航海時代・地理的発見の時代の足跡を訪ねる: アフリカ東西沿岸、セネガル、ナイジェリアラゴス、モザンビーク、 タンザニア・ザンジバル、ケニア・モンバサなど。アフリカ・カリブ海・欧州三角貿易・奴隷貿易、アラビア・アデン、 インド西岸、マラッカ、インドシナ半島、中国福建、泉州、南太平洋における探検:クック、タスマンなど。
・ 大航海時代とは、何時の事、
・ ポルトガルの1400年代中期からのエンリケ航海王子による探検、欧州人のインド洋進出、インド・マラッカ・インドネシアなど 進出、ポルトガル探検家らの足跡を探して旅にでたい。

第6節 海のシルクロードの旅: 古代ローマ時代から何時のこと? 何をもってシルクロード:スパイス・香料の道。 NHKのシルクロード特番ドキュメンタリーを見よ。
・ 地中海・古代ローマ帝国、オスマントルコ、ビザンチン時代、アラビア半島周辺:アデン、マスカット、、西インド占拠と英国との 争い、どこをどう回りたいのか。ヒッパロスの風

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    [作成/Under Construction]
    [参考資料] テルナテ島等資料


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       第32章・目次
      第1節: 中国の京杭大運河を再び訪ね歩く(揚州・開封など)
       [参考資料] 「中国大運河」NHK録画資料など
      第2節: アフリカ大陸最南端の喜望峰と「ガーデンルート」の海を訪ねて
      第3節: インドネシアのモルッカ諸島(香料諸島)、スパイスと古要塞を訪ねて
       [参考資料] テルナテ島等資料
      第4節: 世界にも日本にも魅力ある旅に溢れている [作成中/Under Construction]