海洋総合辞典Japanese-English-Spanish-French Comprehensive Ocean Dictionary, オーシャン・アフェアーズ・ ジャパンOcean Affairs Japan, はじめに、序文、プロローグ

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はじめに-プロローグ

  何ゆえに「ウェブ海洋辞典」の一章として「オーシャン・アフェアーズ・ジャパン Ocean Affairs Japan」づくりを始めたのか。始めたのにはそれなりの経緯がある。 何を発信するのか。その意義や目途は何か、それらを少し辿ることにしたい。

  人生における最大の閃きは、大学3年生の終わり近くに突然脳天にやって来た。冬山合宿の最中、雪上テントの中でのことであった。 国連の法務官という専門職に奉職し、国際社会に何がしかの貢献をするという志を閃いた。この閃きを 得てからというものは、その後の人生を歩む道筋に少しも迷うことはなかった。母校の大学院修士課程(国際法学専攻)に進み、さらに1975年(昭和50年)に米国ロースクール大学院の 「海洋総合プログラム」を修めた。帰国した私は、国連人事局に出願書を送るととともに、当座のこととして東京・虎ノ門の 小さな個人事務所にお世話になった。事務所は海洋法制や政策などを調査研究するオフィスであった。だが、安定した固定収入源が ある訳でなく、経済的には大変厳しい状況にあった。

  1976年春先のこと、国際協力事業団(JICA)の社会人中途採用の新聞広告を目にして、入社試験を受け、誠に運よく就職する ことができた。そのJICAで、日頃の仕事を通じてどの程度海との関わりをもてるか全く未知数であった。他方で海洋法担当の 法務官として奉職するための機会を待ち続けていた。それ故に、JICAで海との関わりのある業務に就けるか否かに関わらず、 少しでもキャリアアップにつなげるために自主的に海洋法制や政策などに関する研究を続けようとした。何らかの学術上の実績を 積み重ね続けることも肝要であった。

  時を経て1980年初めに「水産業技術協力室」に配属された。発展途上国の水産教育、漁労技術、海面養殖などのプロジェクトの 形成・運営・評価業務の他、水産資源調査、増養殖施設建設の施行監理などの業務に3年余従事した。その後、アルゼンチンの「国立 漁業学校」プロジェクトの形成・樹立に漕ぎ着け、その運営に携わるため同国に3年赴任することになった。1984年のことである。 業務領域としては、正に直接的に海と関わりのあるものであり、この頃にはJICAでの仕事は「天職」そのものに思えてきた。 そして、その思いは退職するまで変わることはなかった。

  他方で、JICAへの奉職とともに、もう一つの「天職」に取り組んでいた。いわば二足のわらじを履いていた。だが、「職」と いっても収入に繋げるためのものではなく、非営利的ボランティアワークであった。1980年代初めの頃、日本の海洋法制や政策、 海洋開発の動向・課題などについてショートペーパーに取り纏め、邦語版「ニュースレター」として国内の海洋関連研究機関・ 大学・研究者などに発信した。その後、英語版の「ニュースレター」も創始し発信した。

  さらに、前事務所でお世話になっていた東京水産大学(現・東京海洋大学)の国際海洋法講師の浅野長光先生に相談し、ある取り組み を始めた。即ち、非営利の任意団体としての「海洋法研究所」を創始することになり、浅野先生に代表者となっていただいた。 そして、研究所がニュースレターの発行などを引き継ぐことになった。印刷費、発送費などの必要な経費は二人の手弁当にて分担した。

  ところが、1984年から3年間アルゼンチンへ赴任することになった。その間ボランティア事業は中断を余儀なくされたが、 帰国後再開した。再開にはかなりのエネルギーを要したが、懸命に努力した。そして、研究所の新機軸事業の柱として、「海洋白書」 あるいは「海洋年報」のような類いの英語版の研究報告書(リサーチ・レポート)づくりを本格的に始めることになった。 先ず手始めに、その資料作りから始めた。最初の頃に国内外に配布した試作的レポートは数10ページであったが、1年後は 100ページ以上のものとなった。因みに、そのレポートは「Japan Ocean Afairs -Ocean Policy and Development-」と題する ものであった。

  他方、アルゼンチン赴任の2年目のこと、ある閃きを得て始めたことがあった。英語・スペイン語・日本語の海に関連する 語彙集づくりである。赴任先のアルゼンチン海軍所属の「国立漁業学校」に対する技術協力プロジェクトは、それに取り組むうえで はベストな環境と立ち位置にあった。語彙集の完成など望むべくもなかったが、帰国後も諦めずに語彙拾いを続けた。かくして、 一方で「天職」と位置づけるJICAによる「人づくり国づくり」の国際援助業務に前のめりになり、他方でプライベートなボランティア ワークにも前のめりになった。JICA勤務と、「海洋法研究所」の名の下海洋法制・政策などに関わる英語版研究レポート(アナログ 版)での発信、プラス海洋語彙集づくりの「二足のわらじ」を履き、振り返れば、この頃が人生で最も多忙であったが、遣り甲斐と 自己満足は最高潮にあった。

  ところが、1990年代初め頃にはJICAでの職責がだんだん重くなり、遣り甲斐も増して行ったが、プライベートワークの重心は 研究レポートづくりよりも語彙集づくりへと圧倒的に傾斜して行った。その最大のきっかけになったのは、1990年代中頃における 「インターネット時代」の到来であった。語彙集を「ウェブ海洋辞典」として、一個人のレベルで世界に発信できる時代がやって来た。 ウェブ辞典に覚醒してからは、プライベート時間をホームページづくりに集中させた。だが残念なことに、研究レポートづくりはいつも 後回しにしてしまうようになった。結局現在に至るまで、後者の英語版研究レポートづくりと発行は、研究所の中核事業とし続ける ことはできなかった。

  今から振り返れば、アナログの語彙集も研究レポートも、ホームページを通じて世界に発信できるという画期的な時代が到来 していた。語彙集もレポートも同時に、ウェブサイト上でインテグレート(統合化)し発信すべきであった。だが、ウェブ 辞典づくりに集中し、その遣り繰りに精一杯となって行った。そして、その決定打となったのは、2000年からの海外再赴任 であった。パラグアイへ3年間、その後更にサウジアラビア、ニカラグアへと赴任し、計8年間以上も日本を離れた。 英語版研究レポートづくりへのチャレンジ精神はパラグアイ赴任とともに途切れてしまった。

  2006年にサウジアラビアから帰国してすぐに役職定年となった。既に58歳であった。結局、ネット時代が到来した1990中期頃から ウェブ海洋辞典づくりに傾注し、英語版研究レポートづくりから遠ざかってしまった。かくして、2011年3月末にJICAから完全離職することにした。「自由の翼」を得て、中途半端なページが多かったウェブ辞典に対するトータルレビュー を行い、コンテンツの「選択と集中」を徹底した。

  「未完の完」として辞典づくりに一区切りをつけることさえままならない昨今の状況ではあるが、離職から10余年を経た2023年1月になってようやく、研究レポートづくりの再開(ただし日本語版のみ)に 向けた情熱が芽生えてきた。10年早く再開に着手していればという忸怩たる思いはある。だが、今般「ジャパン・オーシャン・ アフェアーズ」と題して、コンテンツに付加することができ感無量である。再出発の第一歩を印すことができただけでも、私的には その意義は大きい。

  今後は「Japan Ocean Affairs」の基礎づくりにも努力を傾注させていきたい。そして、辞典づくりと合わせて次世代の後継編纂者へ引き継ぐことができれば、望外の 喜びである。この研究レポートの原点として貫きたいと願うことは一つ。テーマごとに国内外の海洋関連情報の収集・分析・取り纏めを積み重ねつつ、 視座を見定めて論究を深めることのできる問いかけを続けることである。

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