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一枚の特選フォト「海 & 船」

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    ナポレオン戦争略史

    * 18世紀末から19世紀初めにかけてのナポレオン戦争におけるトラファルガーの海戦(1805年)の史的位置を見るために、 ナポレオンの生誕から没落に至るまでの略史をまとめた。


    1769年、ボナパルト・ナポレオン、コルシカ島で生まれる。
    1784年、ナポレオン、パリ士官学校に入学する。
    1789年7月14日、フランス・パリの民衆がバスチーユ牢獄を襲撃する(フランス革命の始まり)。 同年8月、国民議会が「人権宣言」(正式名「人間及び市民の権利の宣言」)を決議する。

    1792年、フランスがオーストリアに宣戦するが、敗北を重ねる。これ以降、フランスは、革命の波及を恐れるほぼほとんどの 欧州諸国と四半世紀にわたり戦争することになる。
    1792年、プロシアがフランスに宣戦する。同年9月プロシアを破る。
    1792年9月、フランスの国民公会が王政廃止を決議し、共和制の樹立を宣言する (第一共和制)

    1793年1月、ルイ16世 (在位1774‐1792年) がパリの革命広場 (コンコルド広場) で断頭台処刑される。
    1793年、第1回対仏大同盟をもって、英国は他の欧州諸国とともに対仏・反革命の軍事同盟を形成する。
    1793年、マリー・アントワネットが処刑される。

    1795年、国民公会が解散され、総裁政府が樹立される。
    1796年3月~翌年、ナポレオン、イタリアに遠征する。当時オーストリアの支配下にあったイタリアにて オーストリア軍を破る。大同盟を崩壊させる。

    1798年5月~翌年、ナポレオン、エジプトに遠征する「ナイルの海戦」において、 ネルソンの率いる英国海軍に敗北する。エジプト遠征は英国とインドの連絡を遮断し、フランスがインド方面に進出することを目的とした。 仏海軍はネルソン艦隊に敗れたため、ナポレオンは孤立し苦戦に陥り、翌年数万人の兵士を置き去りにして、エジプト戦線から離脱して 帰国する。(なお、仏遠征軍の大尉がエジプト文字の解読につながるロゼッタ・ストーンを発見する。)

    1798年12月、英国が第2回対仏大同盟を結成する。
    1799年11月、エジプト戦線から独断で帰国したナポレオンはブリュメール18日クーデターを起こし、12月に 統領政府を樹立する(第一統領に就任する)

    1800年、フランスがオーストリア軍を破る。
    1802年 英国と講和のための「アミアンの和約」を結び、対仏大同盟を崩壊させる。ナポレオンが終身統領に就任する。

    1804年3月、ナポレオン、フランス民法典を制定する。
    1804年5月、ナポレオンが皇帝に即位し「ナポレオン一世」と称する (在位:1804-1814年) (第一帝政始まる)。 ここにバスチーユ以来の革命は完全に終わりを告げる。
    ナポレオンは国民に選ばれて皇帝となる。フランスは革命を経て絶対王政から帝政時代に行き着く。

    1805年8月、英国が第3回対仏大同盟を結成する。
    1805年10月、ナポレオンは、英国本土侵攻を企て、フランス・スペイン連合艦隊をもってスペインの トラファルガー岬の沖にて、ネルソン提督の率いる英国艦隊と海戦する。 英国艦隊が大勝利を収めるが、ネルソンはこの海戦でフランス狙撃兵の銃弾に倒れ、その生涯を閉じる。亡骸の腐敗を防止する ためにラム酒入りの樽に詰められて祖国へ帰還する。
    1805年12月、海戦で大敗北をきしたナポレオンは、オーストリア・ロシア連合軍をアウステルリッツ (現在のチェコ)の戦いで破り、戦争の主導権を奪う。

    1806年7月、ライン同盟が成立し、同年8月ナポレオンは神聖ローマ帝国を解体させ、次いでプロイセンを破る。
    1806年11月、ナポレオンは大陸封鎖令 (ベルリン勅令) を発する
    ナポレオンは対英経済封鎖によって打撃を与えようとした。英国は米国・カナダなどと通商し危機をしのいだ。 ナポレオンは海軍力を弱体化させていたが故に、その対英封鎖の効果は上がらず、むしろ英国との貿易封鎖でロシアなどの 大陸欧州諸国が苦しめられ、それがナポレオンを窮地に追い込んで行くことになる。
    1807年、ティルジット条約(対プロイセン、ロシア)。欧州諸国にナショナリズム高まる。

    1812年6月~12月、ナポレオン、ロシアに遠征する。ロシア軍と民衆の抵抗にあい敗北する。
    1813年10月、ナポレオンがライプツィヒの戦い(諸国民戦争)において連合軍に敗北する。

    1814年4月、ナポレオンが退位する。エルバ島へ流刑される。
    1814年5月、ブルボン家の王政復古 (ルイ18世) となる。

    1814年9月~1815年6月、ウィーン会議。ナポレオン戦争後の国際秩序再建のため欧州諸国が協議した ものの利害が対立する。ナポレオンがエルバ島を脱出したことにより妥協が成立する。 結果、産まれた新国際秩序がウィーン体制といわれるもの。その根底にあったものは、自由を求める諸民族に対する抑圧であった。

    1815年6月、ナポレオンが英国・オランダ・プロイセン連合軍にワーテルローの戦いに敗れる。 ナポレオンが退位する。
    1815年3月、ナポレオンがエルバ島を脱出する。百日天下 (~6月)。
    1815年10月、ナポレオン、セントヘレナ島へ流刑される。ナポレオンの没落後、フランスに再び ブルボン王朝が復活する。

    1821年5月、ナポレオン、その生涯を閉じる。
    ナポレオンはフランス革命の精神を掲げて遠征し、また欧州諸国と20年近く戦った。その本質は「侵略戦争」そのものといわれる。

    * 参照: Wikipedia「トラファルガーの海戦」/読むだけですっきり分かる世界史・近代編・コロンブスから南北戦争まで、 後藤武士、宝島社、2011年/NHK通信高校講座・1978年度高校世界史/他。

    辞典内関連サイト
    ・ 世界の海洋博物館
    ・ 英国の海洋博物館

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