一枚の特選フォト⌈海 & 船⌋
米国東インド艦隊司令長官ペリー提督の浦賀への来航(1853年7月8日) [浦賀&久里浜]
1846年5月27日、米国インド艦隊司令長官ビッドル提督が率いる軍艦コロンバス号、ビンセンス号が来航し、久里浜の野比海岸数km沖合に
停泊した。その目的は、公的使節として日本との通商を求めることであったが、江戸幕府はその申し入れを拒否した。
そのため、6月7日に同艦隊は野比沖から離れた。米国東インド艦隊司令長官 マシュー・カルブレイス・ペリー (Matthew C. Perry) が
率いる米国艦隊 (いわゆる黒船4隻) が来航する約7年前のことである。 かくして、1853年7月8日(嘉永6年6月3日)、ペリー提督が率いる米国艦隊は浦賀沖に来航し投錨した。 ペリー提督ら使節団一行は、同年7月14日(嘉永6年6月9日)に久里浜の野比海岸に上陸、江戸幕府によって接遇されるとともに、米国 フィルモア大統領からの幕府への開国・通商を求める親書を差し出した。 翌年1854年、神奈川において日米和親条約が締結され、鎖国政策を続けていた日本は、ちょうど215年間の時を経てその解除を行ない、 世界に向けて門戸を開放するという歴史的大転換を図った。
1853年7月8日来航の米国ペリー艦隊(4隻の黒船)
(1)米国ペリー艦隊来航前後の関連略年史
1639年(寛永16年) 鎖国が完成する 1846年 米国ビッドル艦隊、野比海岸沖に来航する 1846~48年 米国・メキシコ戦争にて、米国が勝利し、カリフォルニア、ニューメキシコ、アリゾナ、ネバダ、ユタを獲得し、 太平洋側へ進出できる拠点を確保する 1853年年7月8日(嘉永6年6月3日) ペリー艦隊、浦賀沖に来航する 1854年(安政元年)2月13日(嘉永7年1月16日) ペリー提督、7隻の軍艦を率いて神奈川 (現在の横浜市神奈川区) 沖に再来航して 日米和親条約(神奈川条約)を締結する 1856年(安政3年) ハリス、下田に着任する 1858年(安政5年) 日米修好通商条約など、各国と通商条約を締結; 同年、ペリー提督、63歳にて没する 1860年(安政7年) 勝海舟ら咸臨丸で太平洋横断、パナマ地峡を経て米国に赴く 1861~77年 アメリカ南北戦争 1868年(明治元年) 明治維新; 江戸を東京とする 1894年 日清戦争 1852年(寛永5年)11月24日、米国大西洋岸バージニア州ノーフォークを出港、アフリカ西岸沖のマデイラ諸島およびセントヘレナ島を経て、 ケープタウン、モーリシャス島、セイロン島に立ち寄り、シンガポールに1853年3月24日~29日まで滞在し、その後香港、上海、琉球を経て、 浦賀湾沖に1853年7月8日到着した。 * ペリー艦隊来航航路について: 1852年11月24日米国ノーフォーク出港→ 1853年(寛永6年)5.23. 中国・香港出航→ 7.2.沖縄・那覇出航→ 7.8.浦賀沖に到着→ 7.14.久里浜に上陸(米国大統領からの親書を差し出す)→ 7.17.江戸湾を退去し香港へ 向かう。 (出典: ペリー来航記念碑銘板)
(3)第2回のペリー艦隊の来航/1854年(嘉永7年/安政元年)
ペリー公園について (公園内にペリー記念館 Perry Memorial Hall、およびペリー上陸記念碑 Monument of Commodore Perry's
Landingがある) [2014.10.29. ペリー記念館にて][拡大画像: x26453.jpg]
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1 2 1. 久里浜の野比海岸風景。ペリー艦隊4隻は、画像に写る岬の沖合に停泊した。岬の向こう側に浦賀港がある。尚、画像左端に 写る階段の左手にペリー公園がある。 [拡大画像: x26481.jpg] 2. ペリー公園内のペリー提督上陸記念碑 (左奥) とペリー記念館 (右奥)。 [拡大画像: x26482.jpg][拡大画像: x26483.jpg: 記念碑銘板 「ペリー来航と艦隊の航路 ~ミシシッピー号を中心に~」]
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* 参考 |
5 5. 京急久里浜駅・久里浜港およびペリー公園(ペリー記念館・上陸記念碑)周辺の案内図 [拡大画像: x26456.jpg] |