
敦賀〜琵琶湖間の古ルート拡大地図。[拡大画像: x28081.jpg]
1166年頃(平安時代)、平清盛が息子の重盛に敦賀・琵琶湖間の運河開削を命じ、工事に
取り組んだが、岩盤に阻まれ中断した、と伝えられる。
1580年代(戦国時代)、敦賀の領主となった蜂屋頼隆や大谷吉継が、敦賀・琵琶湖間の運河開削を
計画したと伝えられる。
1661年(寛文元年)、大津・敦賀・小浜の町人が、西廻り航路や信濃川開削計画の中止を訴える。
1669年(寛文9年)、京都の田中四郎左衛門が、敦賀・琵琶湖間の舟川開削を口上書添付で出願したが、地元の
反対で実現しなかった。
1670年(寛文10年)、田中四郎左衛門が、再び敦賀・琵琶湖間の舟川開削願書を提出したが、却下される。
1672年(寛文12年)、河村瑞賢が西廻り航路を改良し、以後西廻海運が確立する。
1696年(元禄9年)、田中四郎左衛門ら6人が、敦賀・琵琶湖間の舟川開削願書を幕府に提出して認可され、
京都所司代役人等が舟川筋を検分したが、周辺の反対で中止となる。
1720年(享保5年)、京都の幸阿弥伊予ら5名が、敦賀・琵琶湖間の舟川開削を幕府に願い出たが、
却下される。
1785年(天明5年)、幕府役人らが舟川筋を検分するが、実現には至らなかった。
1811年(文化8年)、大浦と山中の問屋が、大浦・中村間の舟川開削を願い出るが、周辺の反対で中止された。
1815年(文化12年)、敦賀・琵琶湖間の舟川筋を幕府役人・小浜藩役人等が検分する。
1816年(文化13年)、3月27日、疋田・敦賀間に川幅9尺(約2.7メートル)の舟川開削工事に着工し、
8月に舟で米を運送した。ルートは、気比神宮前の御手洗川を経て児屋の川に結び、小辻子町に舟川
会所を設けた。敦賀から疋田まで川舟で、疋田から山中を経て大浦へは牛車を使用した。*
普請奉行は小浜藩家老三浦勘解由左衛門、資金主は大坂納屋町飾屋六兵衛であった。
* 疋田から五位川(国道161号線)に沿って遡り深坂、駄口へ、さらに川の源流部にある山中を経て、大浦越を
たどり琵琶湖湖畔の大浦へ向かうルートを指す。その他、山中をそのまま南下し、標高約400mの分水嶺を越え、
琵琶湖に注ぎ込む知内川の上流域にとりつき、そのまま川に沿って下る、七里半越というルート(JRマキノ駅近くで琵琶湖に注ぎ込む)
がある。
[敦賀〜琵琶湖間の古ルート拡大地図参照: 拡大画像: x28081.jpg]
1818年(文政元年)、舟川開通により、陸上輸送を担った馬借座が廃止される。
1834年(天保5年)、舟川が廃止され馬借座が復活する。
1853年(嘉永6年)、アメリカ東インド艦隊司令朝刊ペリー、軍艦4隻を率いて浦賀に来航。
1855年(安政2年)、日本近海に外国船が出没するため、西廻航路に頼っていた北国筋米を、敦賀−琵琶湖−京都の
ルートで輸送する計画が浮上し、幕府役人らが舟川筋等を検分した。
1866年(慶応2年)、5月、この地方を襲った集中豪雨により舟川が壊滅し、廃止された。
1866年(慶応2年)9月、伊豆の小沢一仙、敦賀・琵琶湖間の掘割について建白する。
[参考]掘割: 地面を掘って水を通したところ。
1867年(慶応3年)、幕府の命を受け、加賀藩が敦賀・琵琶湖間の掘割を計画する。石黒信基、北本栗らの測量隊は
精密な測量図を作成するが、幕末の動乱により完成には至らなかった。
1962年(昭和37年)、伊勢湾と日本海を結ぶ日本横断運河計画が発表されたが実現には至らなかった。
1994年(平成6年)、流通の変化とともにこの水路は農業用水路として、また生活用水として利用され、せせらぎは
人々の心を癒し疋田集落の聖水として親しまれてきた。しかしながら、長年の経過により石垣は崩れ川底の傷み甚だしく大改修を要する
こととなった。この年、12月16日、疋田舟川整備検討委員会が設置され改修が始められた。
2003年(平成15年)、12月19日、疋田舟川改修工事が完成。