1&2. 遣唐使船全景。二本の帆柱をもつ。右側が船首 [下記の「参考 1」を参照]。 [拡大画像: x22747.jpg][拡大画像: x22748.jpg]
3. 甲板風景。右手前の屋形は「雑居部屋」(下記の「参考 2」を参照)、帆柱の後方に「賄い部屋」、さらにその後方には「遣唐大使の部屋」
が配置されている。 [拡大画像: x22758.jpg]
4. 「雑居部屋」(下記の「参考 2」を参照)と帆柱 (後檣)。 [拡大画像: x22759.jpg]
[参考 1] 「遣唐使船の構造」と題する説明パネルには次のように記されている。
「奈良時代の日本国内で使用していたと考えられる、丸木舟に板を継ぎ足した「準構造船」(じゅんこうぞうせん)では、とても100人
を越える人を乗せて東シナ海を横断する数十日の航海ができるような大型の船は造れなかったと思います。
また細長い丸木船では、大きな帆を上げて走ると転覆の危険があります。
遣唐使船は、おそらく厚い外板の内側に仕切り板のような補強材か、左右の外板をつなぐ梁(はり)を入れた「構造船」
(こうぞうせん)だったと考えています。
百済船(くだらせん)を使用したような記録がありますから、遣唐使派遣のために百済船を建造したのでしよう。
百済船はそのような「構造船」だったのではないかと思います。」
[参考 2] 「雑居部屋」と題する説明パネルには次のように記されている。
「現代の船旅では個室に寝泊りしていますが、18世紀頃には個室をもっていたのは船長くらいで、それ以外はお客さん
でも大部屋で雑居でした。今でもフェリーには料金の安い大部屋でゴロ寝の客室があります。
遣唐使船の時代には、もちろんほとんどの人は甲板の下の積荷の間などで寝ていたのでしよう。
甲板の下に棚を吊って寝るようにしていたかもしれません。甲板の下には屋形の中に空けた穴からの光だけで薄暗かった
でしよう。留学生や留学僧といった人達は航海中は何もする事がありません。昼間は屋形の床に空けた明り取りの穴の周りに
座り込み、木の実などをかじりながら議論していたのではないかと想像してしまいます。」
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